岡山(県)(読み)おかやま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡山(県)」の意味・わかりやすい解説

岡山(県)
おかやま

中国地方の南東部、山陽地方東部にある県。西は広島県、北は鳥取県、東は兵庫県に接し、南は瀬戸内海を隔てて香川県と対する。古くから瀬戸内航路、陸上交通が発達し、都と九州、大陸などを結ぶ重要な位置を占めていた。文化や産業が早くから発達し、県内各地に吉備(きび)文化の跡をみることができる。明治以降、近代的な港湾に恵まれなかったため、工業立地も兵庫、山口県に比べると立ち後れたが、第二次世界大戦後は阪神工業地帯に続く瀬戸内経済圏の中核としての地位を得ている。県全域からみると、県南部の岡山平野では産業、経済の発展がみられ、交通も整備されているのに対し、県中部、北部は吉備高原および中国山地で、高度経済成長期には人口流出が顕著で、過疎地域が多く出現している。

 人口は1950年(昭和25)166万1099人、1960年167万0454人、1970年170万7026人、1980年187万1023人、1990年(平成2)192万5877人、2000年195万0828人、2010年194万5276人、2015年192万1525人、2020年188万8432人。面積は7114.33平方キロメートル。人口密度は1平方キロメートル当り265.4人(2020)。県庁所在地の岡山市は人口約72万、広島市に次ぐ中国地方第二の都市で、中国地方東部最大の交通結節点である。人口約47万の倉敷市がこれに続き、このほか13市ある(2020)。市部人口は県総人口の94%を占めるが、2015年と2020年を比較すると、人口増加をみたのは、岡山、総社の2市とその周辺地区のみで、他は停滞ないし減少している。

 2020年10月時点で、15市10郡10町2村からなる。

[由比浜省吾]

自然

地形

北から南へ順に中国山地、盆地列、吉備高原、岡山平野が帯状、階段状に並び、南端に児島(こじま)半島がある。中国山地に発した吉井(よしい)川、旭(あさひ)川、高梁(たかはし)川の三大河川が南流して瀬戸内海に注ぐが、中・上流では深い谷をつくっている。瀬戸内海には多くの島があるが、大部分は香川県に属し、岡山県には東部の日生(ひなせ)諸島、西部の笠岡(かさおか)諸島のほか、備讃(びさん)瀬戸の若干の島が属する。中国山地には1000メートル級の山々があり、北東端の後山(うしろやま)(1344メートル)が岡山県最高峰である。北部中央には大山(だいせん)火山群に属する蒜山(ひるぜん)三座がある。中国山地南側の盆地列では、津山盆地が中国地方最大規模であるが、勝山盆地、新見(にいみ)盆地は小規模である。吉備高原は標高約400メートルで、西寄りがやや高く、所々に約500メートルの残丘があり、高原面は緩やかに起伏する。高原の特徴は吉井川以西、広島県東部にかけてがもっとも明瞭(めいりょう)で、高梁川流域にはカルスト地形もみられる。岡山平野は三大河川が形成した沖積平野で南半の大部分は干拓によるもの。平野の中には陸封された島が丘陵として散在し、児島半島も陸繋(りくけい)島である。

 自然公園には瀬戸内海、大山隠岐(だいせんおき)の二つの国立公園と氷ノ山後山那岐山(ひょうのせんうしろやまなぎさん)国定公園のほか、高梁川上流、湯原奥津、吉備史跡、吉備路風土記(ふどき)の丘、備作山地、吉備清流、吉井川中流の七つの県立自然公園がある。

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気候

西南日本の、しかも瀬戸内海に位置するため、温暖寡雨である。1981~2010年の岡山市の年平均気温は16.2℃、年降水量は1105.9ミリメートルである。しかし海岸部から中国山地に向かうにつれてしだいに内陸的な特徴を示すと同時に、中国山地では山陰型の日本海式気候に近づく。とくに山間部は冬季の積雪も多く、スキーも可能である。海岸部では年間を通じて晴天の日が多く、3月ごろには乾燥度が高く山火事発生もしばしばある。夏季には夕凪(なぎ)現象が生じるのも有名。備讃瀬戸では晩春から初夏にかけて霧の発生が多く、海上交通に障害をもたらす。しかし全般的には、台風の直撃もきわめて少なく、自然災害は西南日本のなかでは少ない県である。香川県や出雲(いずも)地方で渇水に苦しんだ年にも、岡山県は被害を受けずにすんでいる。ただ、台風が室戸(むろと)岬沖合いを東進する場合、津山盆地の那岐山麓では広戸風(ひろとかぜ)とよぶ局地的突風が吹いて農業に災害を与えることがある。第二次世界大戦後では台風および梅雨時の豪雨で吉井川水系を中心に何回か水害が発生した。

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歴史

先史・古代

人類の居住は更新世(洪積世)にまでさかのぼり、鷲羽山(わしゅうざん)遺跡など海岸から中国山地にまで遺跡が発見されている。縄文・弥生(やよい)時代の遺跡も豊富で、とくに弥生時代には全県下にわたり文化が発展していたことを示している。古代には県全域は広島県東部の備後(びんご)とともに吉備国(きびのくに)とよばれたが、やがて備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後に分かれ、さらに713年(和銅6)に備前北部が美作(みまさか)国とされた。吉備国の枕詞(まくらことば)は「真金(まかね)吹く」であり、古代以来、花崗岩(かこうがん)風化土壌から砂鉄を採取して鉄をつくり、また海岸では師楽(しらく)式土器(土師器(はじき))を用いて塩をつくった。この鉄と塩、および河川沿岸低地での稲作が繁栄の基盤をなした。古墳時代には、車塚古墳、造山(つくりやま)古墳(岡山市北区)、作山(つくりやま)古墳(総社市)、両宮山(りょうぐうざん)古墳(赤磐(あかいわ)市)などの大古墳にみられるように、強大な政治勢力が存在した。大和(やまと)朝廷の支配下では、国府は現在の岡山市中区(備前)、総社市(備中)、津山市(美作)に置かれ、吉備真備(きびのまきび)や和気清麻呂(わけのきよまろ)など中央政府内に有力な地位を占める者も出た。古代末から中世にかけては多くの荘園(しょうえん)が置かれ、そのなかには岡山市の鹿田荘(しかたのしょう)、大安寺荘、倉敷市の万寿(ます)荘、新見市の新見荘など著名なものがある。

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中世

鎌倉時代には執権北条氏の家督領が美作、備前で増大し、幕府に離反する武士が増えた。児島高徳(こじまたかのり)の桜樹の伝説もこの時代のことである。南北朝時代には守護の勢力が強大化し、備前では赤松氏、備中では細川氏、美作では山名(やまな)氏、赤松氏が覇権を争った。戦国時代となると国人(こくじん)層のなかから戦国大名に成長する武士も出現し、宇喜多(うきた)氏が備前と美作に力を伸ばし、備中、美作では尼子(あまご)氏、ついで毛利(もうり)氏が勢力を得た。鎌倉時代から室町時代にかけては農業生産は大いに発展し、備中檀紙(だんし)、美作紙、備前焼、備前刀、備中刀、備中の鉄製農具などの工業が発達して諸国に知られた。市場町も新見の三日市、岡山の鹿田荘の二日市、西大寺金岡(かなおか)東荘の西大寺門前市、長船(おさふね)の福岡荘、大原町の大原保(おおはらのほ)などに成立し、牛窓(うしまど)は内海貿易港として繁栄し対明(みん)貿易も行われた。宗教界では浄土宗の法然(ほうねん)(源空)、臨済宗の栄西(えいさい)らの高僧が輩出し、雪舟等楊(せっしゅうとうよう)は水墨画を大成した。1573年(天正1)に宇喜多直家(なおいえ)が岡山城に移り、やがて織田氏に帰属し、子の秀家(ひでいえ)は備前、美作および高梁川以東の備中を領する太守となったが、関ヶ原の戦いで没落し、かわって備前、美作の領主となった小早川氏も1代で断絶、池田忠継(ただつぐ)が備前28万石、森忠政(ただまさ)が美作18万6500石を領した。

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近世

備前の池田氏は2代で1632年(寛永9)に鳥取の池田氏と交替させられ、池田光政(みつまさ)が入封し、備中の一部とあわせて31万5200石を領した。備中は松山藩池田氏(6万5000石)、足守(あしもり)藩木下氏(2万5000石)、成羽(なりわ)藩山崎氏(3万石)、岡田藩伊東氏(1万石)のほか、多くの旗本領や天領に分割された。津山藩の森氏は4代で断絶し、やがて松平氏(10万石)になり、松山藩は池田氏から水谷(みずのや)、安藤、石川氏を経て板倉氏に移った。幕末期には親藩、譜代(ふだい)の津山、松山の両藩は佐幕派、外様(とざま)の池田氏は勤王派に分かれた。天領については倉敷のほかに、一時は笠岡、久世(くせ)(真庭(まにわ)市)にも代官所が置かれ、倉敷代官所は伊予(愛媛)、讃岐(さぬき)(香川)などの天領も管轄した。岡山藩は干拓による新田開発を大規模に実施し、稲作のほかに綿、菜種(なたね)などの商品作物を栽培した。また、瀬戸内海には塩田が発達し、牛窓、日比(ひび)、下津井(しもつい)、玉島、笠岡などの諸港や、河川では高田(真庭市)、落合、福渡(ふくわたり)、美作倉敷(美作市林野)、金岡(岡山市東区西大寺)、松山(高梁市)、備中倉敷(倉敷市)、庭瀬(にわせ)(岡山市北区)などの川湊(かわみなと)が発達し、農村における経済発展とともに仲買商の発生、農村工業の成立がみられた。そして人形浄瑠璃(じょうるり)や美作地方の横仙歌舞伎(よこせんかぶき)、備中地方の備中神楽(かぐら)などが農民間に盛んとなった。元禄(げんろく)(1688~1704)以後の経済変動の結果、山中一揆(さんちゅういっき)、渋染(しぶぞめ)一揆、改政一揆など多くの百姓一揆が発生した。近世後期の社会不安のなかで、金光(こんこう)教、黒住(くろずみ)教がおこり、前者は中下層農民に広まり、後者は地主、豪商を対象に布教された。なお、岡山県に本拠をもつ日蓮(にちれん)宗不受不施派(ふじゅふせは)は、近世を通じてキリシタンと同様に禁じられ弾圧を受けた。また、地主、村役人の間には学問熱が高まり、岡山藩の閑谷(しずたに)学校や笠岡代官所の明倫館(めいりんかん)をはじめ、多くの郷学(ごうがく)、手習所、私塾が開設された。岡田藩は地理学者古川古松軒(こしょうけん)を生み、津山藩では宇田川、箕作(みつくり)両家により津山洋学が発展し、松山藩の山田方谷(ほうこく)、吉備津神社の宮司藤井高尚(たかなお)などの国学者も輩出した。

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近代

明治維新後、廃藩置県により14県と、他県に本地のある10県とに分かれたが、やがて備前は岡山県、美作は北条県、備中と備後東部6郡は深津県(のち小田(おだ)県と改称)に統合され、小田県は1875年(明治8)、北条県は1876年に岡山県に合併し、同年備後6郡は広島県に帰属し、現在の岡山県の領域が確定した。1872年の学制頒布(はんぷ)以来、岡山県の就学率は全国第1位、2位で水準の高さを示した。1879年の岡山県会の開設は自由民権運動を活発化させ、国会開設の全国運動への口火を切った。また女性運動の先駆者景山英子(かげやまひでこ)(その後福田姓)、社会主義運動家の片山潜(せん)、山川均(ひとし)、森近運平(もりちかうんぺい)、備作(びさく)平民社の三好(みよし)伊平次らが出た。産業の主体は農業、とくに稲作に置かれ、児島湾干拓が藤田組の手で行われ、水田拡張が図られた。干拓地において藤田農場は資本主義的大農場経営を試み、農作業における機械の導入は、隣接の興除(こうじょ)村の農民による自主的な自動耕うん機の製作へと発展し、日本の機械化農業発祥地としての名声を得た。綿作衰退にかわって岡山平野ではイグサ、県南西部ではハッカ、ジョチュウギク、タバコ、吉備高原ではコンニャク、タバコなどの工芸作物、岡山平野周辺部の丘陵地では果樹の栽培が発展し、明治末期から県北部では養蚕業が盛んとなった。これに対応して農村部では畳表、花莚(はなむしろ)、ハッカ油、そうめん、麦稈真田(ばっかんさなだ)(麦藁(むぎわら)で編んだ紐(ひも))の製造が発達し、岡山県の名産としての地歩を固めた。近代工業では1870~1880年代に岡山、下村(しものむら)(倉敷市児島)、倉敷、玉島、笠岡などに綿紡績が、県北部の町々では製糸工業がおこり、とくに地元資本の倉敷紡績は十大紡の一つにまで成長した。第一次世界大戦前後から重化学工業とその関連産業の発達がみられ、柵原(やなはら)鉱山の本格的採掘開始、南東部の耐火れんが工業の発達、玉野の三井造船所や三井金属製錬所、笠岡の神島(こうのしま)化学の建設が行われた。この間の人材としては、経済界ではビール王の馬越(まごし)恭平、銀行・保険の矢野恒太(つねた)、政界では犬養毅(いぬかいつよし)、宇垣一成(うがきかずしげ)、平沼騏一郎(きいちろう)などが出た。第二次世界大戦中に水島に航空機工場が設置されて水島の工業化の端緒となったが空襲を受けた。なお、岡山市は県下唯一の空襲被災都市で、1945年(昭和20)6月に市街の大半を焼失し、死者1300人に及んだ。しかし県内の他の部分は破壊を免れて敗戦を迎えた。

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産業

高度経済成長期以前には圧倒的に農業県の色彩であったが、工業開発とともに第二次産業の地位が急上昇して農業人口は激減、さらに低成長期に入ると第二次産業人口比率は停滞したのに対して第三次産業人口の比率は一貫して高まった。これを1960年、1970年、1980年、1990年、2000年、2010年の国勢調査による産業別就業者比率の推移でみると、第一次産業は43%、24%、13%、9%、6.6%、5%、第二次産業は25%、36%、37%、37%、32.6%、28.1%、第三次産業は32%、40%、50%、54%、60.8%、66.9%と変化してきた。

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農林業

岡山平野、津山盆地のほか、中国山地の谷底部や吉備高原の一部にも水田が広がっているため、農作物の中心は米で、昔から備前米、備中米は優良品質で知られていた。他の農産物については高度経済成長期を境に相当な変化をみた。かつて岡山県を代表するのはモモ、イグサ、和牛であった。「白桃(はくとう)」は今日でも県名産で、岡山市、赤磐市、浅口(あさくち)市など県南で栽培されているが、果樹のなかでは第二次世界大戦後はブドウに重点が置かれてきたこと、県南部の工業化による農業労働力流出に伴って管理不足となったことから、県は県北に代替産地形成を図ったものの、ここもまた労働力流出に悩み、生産額は減少し、山梨、福島など主要生産県にはるかに追い抜かれている。ブドウは露地と温室に分かれ、マスカットを中心とする温室ブドウは、岡山市北区津高(つだか)、一宮地区や倉敷市船穂(ふなお)町が主産地で、全国の温室ブドウのほとんどを生産している。露地ブドウは岡山市東区西大寺地区、倉敷市船穂町や里崎地区のほか、吉備高原の一部にも産地が拡大された。しかし農業統計上では「果樹県」といえるほど、果樹にウェイトがあるとはいえない。イグサは岡山平野西半が産地で、かつては全国生産の半分を占めたが、1964年(昭和39)の作付面積5552ヘクタールをピークとして、農業労働力の他産業転出のため生産はみるみる激減し、最盛期の10%以下になっている。和牛は中国山地の村々で千屋(ちや)牛、新庄(しんじょう)牛など産地名をとった血統のよい黒牛が林間放牧によって飼われていたが、農業機械の普及のため役牛需要が減少するにつれて和牛生産も減り、かわって酪農が普及した。真庭(まにわ)市北部はジャージー種乳牛の飼育に特色があり、蒜山原(ひるぜんはら)開拓地はダイコンの新しい特産地になった。吉備高原では第二次世界大戦前の薪炭、コンニャク、在来種タバコの生産にかわって、黄色種タバコ、野菜、シイタケなどが導入され、県南部では各所に施設園芸による野菜、花卉(かき)栽培が行われている。山村では薪炭生産が衰退し、これにかわって造林が行われてきたが、山村の労働力不足と人口高齢化、近年の木材価格低迷のために展望は明るくない。吉備高原のマツタケ生産量は激減した。

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水産業

岡山県の海域は比較的狭く、しかも浅海漁業であった児島湾、高梁川河口部や笠岡湾などは、干拓や埋立てにより漁場が失われ、水質も悪化した。備讃瀬戸水域はかつてタイ、サワラなど高級魚の産地であったが、第二次世界大戦後は漁獲量が激減し、かわってノリ、カキ養殖の比重が増大した。瀬戸内市牛窓には県水産研究所が置かれ、稚魚の孵化(ふか)、放流による水産資源増大に努力している。製塩業は、かつて入浜(いりはま)式塩田が児島半島に集中していたが、第二次世界大戦後に大幅に整理され、流下式塩田に切り替えられたものの、1971年(昭和46)にはすべて姿を消した。現在では、玉野市のナイカイ塩業のみが、イオン交換樹脂膜法により営業している。内水面では主要河川へのアユ放流が行われ、高梁川のアユがとくによいとされている。山間部ではマス、ヤマメの養魚も行われる。

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鉱業

中国山地は古代から近世を経て明治中期まで日本における代表的な和鉄の産地で、岡山県北部も有力な一角であった。そのほか近世から第二次世界大戦ごろまでは各種の中小金属鉱山などがあったが、これらはいずれも閉山した。美咲(みさき)町の柵原鉱山(やなはらこうざん)は同和鉱業の経営による全国最大規模の硫化鉄鉱鉱山であったが、これも鉱体枯渇のために閉山し、鳥取県境の人形(にんぎょう)峠でのウラン鉱採掘は20年間続いたが1987年(昭和62)に終了した。現在稼働している主要鉱山は、備前市三石(みついし)での耐火れんが原料のろう石、新見(にいみ)市の石灰石、蒜山原(ひるぜんばら)での珪藻土(けいそうど)、笠岡市北木島などでの花崗岩(かこうがん)石材および各地での砕石用石材で、土石類が主体である。

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工業

第二次世界大戦前の工業は、大手の綿紡績、製糸、化学繊維などのほか、中小企業ないし家内工業として衣料品縫製加工、素麺(そうめん)、畳表、花莚(はなむしろ)、麦稈真田(ばっかんさなだ)などの地場資源型の軽工業が主体で、重工業には大手や地場の造船、農機具製造、戦時中に開始した航空機製造などがあった。1953年(昭和28)以後、県は倉敷市水島の臨海地域の工業開発に努め、石油精製(新日本石油精製ジャパンエナジー〔両社ともに現、ENEOS〕)、石油化学(三菱(みつびし)化学〔現、三菱ケミカル〕など)、製鉄(JFEスチール)を軸とする素材生産型のコンビナートをつくりあげ、航空機から転換した三菱自動車とあわせて岡山県南新産業都市の中核となった。水島地区の事業所数は小企業まで入れると2014年(平成26)には245で、県に占める製造品出荷額等の比率は52.8%である。総社(そうじゃ)市には自動車関連の水島機械金属工業団地(現、ウイングバレイ)がある。

 岡山市では旭川河口の両岸に第二次世界大戦前からの企業に加えて新しい工業立地があったが、企業間関連はなく、規模も水島より小さい。中区の東岡山と北区の久米に工業団地があるほか、西大寺などに工場が点在する。玉野市は造船と銅製錬の工場があるが造船不況を経験して三井造船の企業城下町の性格がゆらいだ。県南東部の備前市は耐火れんが工業と伝統的な備前焼の窯業地域であり、同市日生(ひなせ)町には製網工場がある。南西部の井笠地域は広島県福山市に続く備後工業整備特別地域となり、笠岡市には製鉄関連工場があり、井原市は倉敷市児島地区とともに伝統的機業地で、かつて学生服生産では岡山県が全国のトップを占めたが、現在は各種ジーンズの縫製を主力にしている。臨海地域の工業開発が終わると道路に着目した内陸型の工業立地が進み、県北部の勝央(しょうおう)町の勝央中核工業団地のほか、津山市、真庭(まにわ)市、新見市などに工業団地がつくられた。

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開発

第二次世界大戦直後の食糧難の時代には児島(こじま)湾などの干拓事業の早期完成、蒜山原(ひるぜんばら)などの開墾に力点が置かれた。これに続く資源開発期には旭川水系に旭川ダムや湯原(ゆばら)ダムの建設が行われ、さらに産業開発期には高度経済成長を目ざして臨海地域の工業化、第一次全国総合開発の時代には水島臨海工業地域の形成・発展に県行財政が傾注され、高梁(たかはし)川水系にダム建設が行われた。新(第二次)全国総合開発期には新全国ネットワークの一環として新幹線、高速道路、本州四国連絡橋の瀬戸大橋に重点が置かれたが、大規模事業のために連絡橋や自動車道の完成には時間を要した。しかし事業完成後の交通位置を予見して、東西・南北の自動車道の交点付近に大規模な県総合流通センターが建設され、航空機のジェット化に対応して岡山市北部の丘陵地に新空港がつくられた。

 これらの反面、開発に伴うさまざまな環境問題・社会問題が発生した。高度成長期には田中内閣時代の日本列島改造論に乗った県外資本による土地の大規模買占めが横行して自治体の地域計画にも支障を生じるほどになり、県は国土利用計画法制定に先んじて県土保全条例を制定せざるを得なかった。児島湾干拓地の水利安定のために締切り堤防で造成した児島湖は水質が極度に悪化してゆき、ついに湖沼法指定湖沼になった。水島地区では工場の廃水・排煙が種々の災害を生み、とくに住民の間に呼吸器疾患が多発して公害病と認定され、補償要求裁判が提起されて和解までに長時間を要した。吉井川上流に計画された苫田ダム(とまただむ)は、地元の強い反対で30年以上も合意が得られなかったが、建設目的を次々に変更しながら強力に推進された。2005年(平成17)3月に完成したが、問題が残るダムである。県南部の成長に対して吉備(きび)高原や中国山地の農山村では人口減少が著しく、県は過疎対策の一つとして賀陽(かよう)町と加茂川町にまたがる地区(現、吉備中央町)に、福祉・医療施設、教育機関、工場、自然公園などを含む吉備高原都市を計画し、後にはこれにテクノポリス計画も折り込んだ。しかし新鋭工場の多くはむしろ吉備高原都市区域の隣の岡山市北区御津(みつ)地区などに立地している。

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交通

近世までは山陽道をはじめとする陸上交通路もあったが、むしろ重要なのは瀬戸内海の海上交通路と河川交通であった。明治以後鉄道時代に入ると、岡山は山陽本線、津山線、吉備(きび)線、宇野線、伯備(はくび)線、赤穂(あこう)線、および国道2号などが集まる本州・四国の結節点となり、さらに山陽新幹線、瀬戸大橋の開通に伴う瀬戸大橋線、高速道路として瀬戸自動車道、山陽自動車道、岡山自動車道などが加わって重要結節点の度を加えた。県北部では、津山線、因美(いんび)線、姫新(きしん)線の集まる津山と、伯備線、姫新線、芸備線の集まる新見とが、中国自動車道も通っていて第二次的交通中心である。このほかに、第三セクター鉄道として倉敷に水島臨海鉄道、県東北部に「宮本武蔵駅」のある智頭(ちず)急行があり、南西部には井原鉄道がある。民鉄の西大寺鉄道、岡山臨港鉄道、井笠鉄道、片上鉄道、下津井(しもつい)電鉄はすべて廃止された。路面電車として岡山市内に岡山電気軌道がある。海上交通では水島、宇野、岡山の3港が重要港湾に指定されているほか、多数の地方港湾がある。長い歴史を有した宇野―高松間の国鉄(のちJR)宇高連絡船(うこうれんらくせん)は瀬戸大橋開通で廃止され、民間のフェリー航路も2019年(令和1)に休止された。岡山空港は岡山市浦安(南区)から同市日応寺(北区)のジェット機発着可能な新空港(岡山空港)に移転し、一部国際線の発着があり、旧空港(岡南飛行場)は小型機の訓練などに利用されている。

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社会・文化

教育・文化

1669年(寛文9)の藩校開設に始まり、岡山藩は領内各所に手習所を開いた。そのうちで現在まで存続している名建築が閑谷(しずたに)学校である。幕末には洋学も盛んになった。明治以降は就学率がきわめて高かったのに加え、岡山県の特色として女子教育の水準が高かった。高等教育への端緒は1870年(明治3)設置の岡山藩医学館で、後に岡山医専(のち岡山医科大学)になり、1949年(昭和24)にこれと第六高等学校、岡山農専、岡山師範などが母体となって岡山大学が誕生した。2012年(平成24)現在、四年制大学としてはほかに、岡山市にノートルダム清心女子大学、岡山商科大学、岡山理科大学、就実(しゅうじつ)大学、山陽学園大学、中国学園大学、環太平洋大学、倉敷市に川崎医科大学、川崎医療福祉大学、倉敷芸術科学大学、くらしき作陽大学、岡山学院大学、津山市に美作(みまさか)大学、高梁(たかはし)市に吉備国際大学、総社市に岡山県立大学、新見市に新見公立大学がある。短大は公立2校、私立7校、国立高等専門学校が1校ある。なお、蒜山高原に中国四国9県と兵庫県が設立した中国四国酪農大学校がある。

 岡山県出身の文化人のうちとくに著名な人をあげれば、物理学の仁科芳雄(にしなよしお)、小説・戯曲の正宗白鳥(まさむねはくちょう)、詩人の薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、歌人の木下利玄(りげん)、正宗敦夫(あつお)(白鳥の弟)、画家の正宗得三郎(敦夫の弟)、児島虎次郎(とらじろう)、竹久夢二、小野竹喬(ちくきょう)、池田遥邨(ようそん)、彫刻家の平櫛田中(ひらくしでんちゅう)、陶芸家の金重陶陽(かなしげとうよう)、藤原啓(けい)、将棋(しょうぎ)の大山康晴(やすはる)、経済界の岡崎嘉平太(かへいた)、土光敏夫(どこうとしお)がある。県出身者ではないが県下で活動した人には、1887年(明治20)に日本最初の本格的孤児院として岡山孤児院を設立した石井十次(じゅうじ)、歌人・国学者の井上通泰(みちやす)らがいる。現代の福祉活動でユニークなのは、身障者が自立できるよう「たけのこ村」を倉敷市真備(まび)町で開いた藤岡博昭(ひろあき)、国際的医療援助活動をするAMDA(アジア医師連絡協議会)を設立した菅波茂(すがなみしげる)である。集積した蓄財を個人や企業が社会に還元することは現代では例が多いが、その先駆はなんといっても大原孫三郎・大原総一郎父子による大原農業研究所、大原社会問題研究所、大原美術館の創設であろう。単なる財界人でなく幅広い文化人であった総一郎は、高梁川流域連盟を唱導し、機関誌『高梁川』を発行、流域出身の大学生に奨学金を出した。第二次世界大戦後では実業家林原一郎が林原美術館や林原研究所を、松田基が夢二郷土美術館を設立した。矢野恒太(つねた)は『日本国勢図会』を編集して統計普及に貢献した。

 岡山県を代表する地方紙は『山陽新聞』で、岡山県下一円のほか、広島県、香川県も頒布地域としている。前身は1889年(明治22)創刊の『山陽新報』と1892年設立の『中国民報』で、1936年(昭和11)に合併して『合同新聞』と称し、1948年(昭和23)『山陽新聞』と改題した。岡山県が文化賞、県文化奨励賞を設けたのに倣い、産業、文化、社会、教育、体育など優れた業績をあげた個人や団体に「山陽新聞賞」を贈っている。地方紙にはほかに『岡山日日新聞』『津山朝日新聞』があったが、『岡山日日新聞』は2011年廃刊になった。放送では、NHK岡山放送局が1931年に開局したのが最初で、2012年現在、ほかにラジオ局では山陽放送、FM岡山、エフエムくらしき、レディオMOMO、エフエムゆめウェーブ、エフエムつやま、エフエム津山、テレビ局では山陽放送、岡山放送、瀬戸内海放送、テレビせとうちなどがある。

[由比浜省吾]

生活文化・伝説

岡山県の民話・伝説のなかで、日本五大噺(ばなし)の一つに数えられるのが「桃太郎ばなし」である。鬼退治伝説は他県にもあるが、岡山県で「桃太郎」のもととなった伝承の概要は次のとおりである。垂仁(すいにん)天皇(または崇神(すじん)天皇)のとき、百済(くだら)の王子で温羅(うら)という鬼神が飛来して備中国鬼の城(きのじょう)(総社市)に住み着き悪事を働いた。朝廷から四道将軍として派遣された吉備津彦命(きびつひこのみこと)(五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと))が吉備の中山(岡山市北区吉備津)に布陣し矢を射るが、温羅の射る矢と途中で食い合い落ちてしまう(岡山市北区高塚の矢喰宮(やくいのみや)由来)。そこで一度に二矢を放つと、一矢が温羅の左眼に当たり、血が噴き出して流れた(血吸(ちすい)川および赤浜の由来)。温羅は鯉(こい)になって川から海に逃げようとしたが、命(みこと)は鵜(う)になって捕らえ、噛(か)み上げた(倉敷市矢部の鯉喰(こいくい)神社の由来)。温羅は降伏し「吉備」の名を奉るといい、これで命は吉備津彦命となる。温羅の頭(こうべ)は串(くし)にさして首(こうべ)村(岡山市北区首部(こうべ)の由来)にさらしたが、大声でほえ続ける。そこで釜殿(かまでん)の釜の下深くに埋めたが、鳴りやまない。ある夜温羅の魂が命の夢に現れ、「わが妻を召して命の神饌(みけ)を炊(かし)がしめよ。さすれば我は命の使者となり、幸あらば裕(ゆた)かに、禍(わざわい)あれば荒らかに鳴り、民に賞罰を加える」と告げた。これは上田秋成の『雨月物語』にも記され、また現在も行われている吉備津神社の釜殿の「釜鳴(かまなり)神事」の起源であるという。なお、岡山県には犬養(いぬかい)(犬飼)姓や鳥飼姓があり、菓子には吉備団子(きびだんご)があるし、桃太郎少年合唱団、岡山市の桃太郎祭など、いまも桃太郎にちなむ名称をとるものが多い。歴史伝説としては源平合戦に関していくつかあり、その代表格が藤戸合戦で、『平家物語』の藤戸を典拠とした謡曲『藤戸』は有名。鎌倉時代には児島高徳が美作院庄(いんのしょう)で桜樹の幹を削って詩を記し、隠岐(おき)へ配流の途次の後醍醐(ごだいご)天皇に意を伝えた故事がある。

 豊かな歴史的背景に生まれた岡山県の文化財のおもなものをあげると、国宝指定に旧閑谷(しずたに)学校講堂、吉備津神社本殿および拝殿、太刀(たち)銘吉房(よしふさ)、太刀銘備前国長船住左近将監長光(おさふねじゅうさこんしょうげんながみつ)造、赤韋威鎧兜(あかいとおどしよろいかぶと)などがあり、国の重要文化財に岡山城月見櫓(やぐら)、長福寺の三重塔や絹本著色不動明王像、豊原(とよはら)北島神社(瀬戸内市)の色々威甲冑(いろいろおどしかっちゅう)、岡山大学蔵の『信長記(しんちょうき)』などがある。国指定史跡には旧閑谷学校(特別史跡)、造山(つくりやま)、作山(つくりやま)など多くの古墳、高松城跡、備中松山城跡などがあり、特別名勝に岡山後楽園がある。国の重要無形文化財に備前焼、重要有形民俗文化財に田熊八幡神社(たのくまはちまんじんじゃ)(津山市)歌舞伎舞台、重要無形民俗文化財に白石踊(しらいしおどり)(笠岡市)、備中神楽(かぐら)、大宮踊(真庭市)がある。この分布状況を概観すると、建造物の多くは寺社で県下一円に存在し、寺社に付属する彫刻、絵画もまた広く分布しているが、刀剣を中心とする工芸品は岡山市と瀬戸内市長船(おさふね)町の美術館に集中している。史跡は古代吉備文化が栄え、また武士たちが覇を争った岡山平野に多いが、天然記念物は開発、破壊の手の遅れた県中部、北部に多い。おおむね近世起源である無形民俗文化財も都市化の進んでいない吉備高原から中国山地にかけてと、県南部の縁辺に残されている。そして岡山平野北西部は吉備史跡県立自然公園、さらに文化財の集中している区域は吉備路風土記の丘県立自然公園に指定され、吉備路自然歩道が設けられている。

 自然美としては、瀬戸内海沿岸部は瀬戸内海国立公園の風光を誇り、笠岡諸島、日生(ひなせ)諸島をはじめとして夏季の海水浴場、リゾート地がある。県最北部の蒜山(ひるぜん)地方は大山隠岐(だいせんおき)国立公園に属し、冬のスキー、夏の登山・キャンプに訪れる人が多い。北東部の山地は氷ノ山後山那岐山(ひょうのせんうしろやまなぎさん)国定公園に属し、旭川上流から吉井川上流にかけては湯原奥津県立自然公園、高梁(たかはし)川上流と成羽川沿岸は高梁川上流県立自然公園に指定されている。

 歴史的庭園で岡山県を代表するのは1689年(元禄2)に完成した岡山藩主の御後園(ごこうえん)(後楽園(こうらくえん))で、日本三名園の一つとして名高い。津山藩主庭園の津山市衆楽園(しゅうらくえん)、足守(あしもり)藩主の岡山市近水園(おみずえん)、小堀遠州(こぼりえんしゅう)作の高梁(たかはし)市頼久寺(らいきゅうじ)庭園も著名である。

 新しく建設されたテーマパークとしては、井原市の中世夢が原、赤磐市の岡山農業公園ドイツの森クローネンベルクなど、また、音楽・演劇などの公共施設として岡山シンフォニーホール、倉敷市芸文館などがある。

 岡山県の伝統的な工芸のうち、備中檀紙(だんし)はすでに廃絶し、現存するが生産者がきわめて少なくなっているものに岡山市の烏城紬(うじょうつむぎ)(1978年伝統工芸功労者賞受賞)や撫川(なつかわ)うちわ、津山市の作州絣(かすり)、和紙(金箔(きんぱく)台紙用)、真庭市の高田硯(すずり)などがある。備前市の備前焼は岡山県を代表する陶器で、中世六古窯の一つとして全国的に有名。桃山時代から茶器・花器は珍重されたが、本来は壺(つぼ)、すり鉢などの日用雑器を生産していた。釉薬(ゆうやく)を用いず窯変を楽しむ陶器で、停滞期もあったが、第二次世界大戦以後ふたたび愛好家が増え、製作者も増加し、金重陶陽(かねしげとうよう)、藤原啓(けい)、山本陶秀(とうしゅう)、藤原雄(ゆう)が人間国宝に指定された。陶器はほかに瀬戸内市邑久町の虫明焼(むしあけやき/むしあげやき)、倉敷市の酒津(さかづ)焼・羽島(はしま)焼、里庄(さとしょう)町の大原焼、笠岡市の吉備焼などがある。木工には大野昭和斎(人間国宝)が出た。藺(い)製品も岡山県の代表的産物で、畳表、花莚(はなむしろ)のほか、テーブルセンターなど小物も各種ある。原料のイグサ栽培は激減したが、熊本県より移入し、岡山市北区妹尾(せのお)、早島町、倉敷市などで織られる。花莚製造に関しては1878年(明治11)に技法を発明した磯崎眠亀(いそざきみんき)の功績が大きい。早島町歴史民俗資料館に隣接して古い手機(てばた)の実演やそれによる製品など、藺業の歴史の品を展示した花ござ手織り伝承館がある。

 こういった仕事に従事した人々の労働歌などが民謡となり歌い継がれてきたが、いまでは民俗行事や保存会で伝えられている場合が多い。新見市の田植唄(うた)、牛追い唄、笠岡市白石島の白石踊唄、同市北木島の石切り唄などである。井原・矢掛(やかげ)地方の子守唄を山田耕筰(こうさく)が編曲したのが『中国地方の子守り唄』である。岡山県人にもっともポピュラーなのは『下津井節』で、近世海運とともに日本海側や太平洋側に流布し、どの地が起源か不明だが、どこも似たメロディである。民衆自らが参加し保存してきた芸能として文化財指定を受けたものも前記のように多く、備中神楽(備中地方)、横仙歌舞伎(よこせんかぶき)(那岐山麓地方)、大宮踊(蒜山地方)、唐子(からこ)踊(瀬戸内市)、白石踊(笠岡市)などがある。伝統の維持だけではなく、創造を進めてゆく活動もまた多いが、他地方に類のないものとしては久米南(くめなん)町の町民の多くが川柳(せんりゅう)をたしなみ、「川柳大会」の行事もあることをあげておこう。JR津山線弓削(ゆげ)駅にはいつも新作川柳がいくつか掲げてある。

[由比浜省吾]

『藤井駿他編『岡山県の歴史』(1962・岡山県)』『谷口澄夫著『岡山県の歴史』(1970・山川出版社)』『進昌三・吉岡三平著『岡山の干拓』(1974・日本文教出版)』『青野寿郎他編『日本地誌第17巻 岡山県・広島県・山口県』(1978・二宮書店)』『『岡山県大百科事典』上下(1980・山陽新聞社)』『岡山県史編纂委員会編『岡山県史』全30巻(1981~1991・岡山県)』『『日本歴史地名大系34 岡山県の地名』(1988・平凡社)』『『角川日本地名大辞典33 岡山県』(1989・角川書店)』


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