足守藩(読み)あしもりはん

藩名・旧国名がわかる事典 「足守藩」の解説

あしもりはん【足守藩】

江戸時代備中(びっちゅう)国賀陽(かや)郡足守(現、岡山県岡山市北区足守)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は追琢舎(ついたくしゃ)。関ヶ原の戦いの翌1601年(慶長(けいちょう)6)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)正室高台院(こうだいいん)(おね)の兄である木下家定(いえさだ)が姫路藩から転封(てんぽう)(国替(くにがえ))して2万5000石で立藩。しかし、家定死後の1609年(慶長14)に遺領相続をめぐって徳川家康(とくがわいえやす)の怒りを買って領地没収。その後天領となったが、1615年(元和(げんな)1)に木下利房(としふさ)が大坂の陣の戦功により入封(にゅうほう)、足守に陣屋を設けて足守藩が再興された。以後明治維新まで木下氏11代が続いた。1799年(寛政(かんせい)11)に内高(うちだか)(実際の石高)約3万石のうち約2万2000石が領地替えされたが、1831年(天保(てんぽう)2)には替地(かえち)の約半分が戻された。明治維新後にすべての領地が戻されたが、1871年(明治4)の廃藩置県で足守県となり、その後、深津(ふかつ)県、小田(おだ)県を経て1875年(明治8)岡山県に編入された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足守藩」の意味・わかりやすい解説

足守藩
あしもりはん

備中(びっちゅう)国(岡山県)の外様(とざま)藩。藩主は木下氏。藩祖は高台(こうだい)院(豊臣(とよとみ)秀吉の正室)の兄家定(いえさだ)。秀吉に仕え姫路2万5000石を領したが、関ヶ原の戦いののち備中賀陽(かよう)、上房(じょうぼう)両郡のうちで2万5000石を賜う。1609年(慶長14)嫡子勝俊(かつとし)の遺領相続につき、徳川家康の逆鱗(げきりん)に触れて断絶。足守藩再興後の藩祖は勝俊の弟利房(としふさ)。初め秀吉に仕え、若狭(わかさ)国(福井県)で2万石を賜り高浜城主に封ぜられたが、関ヶ原の戦いののち所領を没収される。のち1615年(元和1)許されて備中賀陽、上房両郡で2万5000石を賜り、足守に陣屋を設けた。ただし、1645年(正保2)の検地までは、在地の土豪的庄屋(しょうや)鳥羽(とば)氏を代官手代に任じ年貢徴収を命じた。検地以後郡奉行(こおりぶぎょう)、代官を置き領国支配を強化。8代利徽(としよし)のとき1799年(寛政11)内高(うちだか)(実質の有高)3万0854石余のうち2万2280石余を収公され、替地(かえち)を陸奥(むつ)国伊達(だて)、信夫(しのぶ)両郡の内に賜う。10代利愛(としちか)のとき1831年(天保2)陸奥の領分のうち1万1144石余を賀陽郡に移され、明治維新に至る。

[柴田 一]

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デジタル大辞泉プラス 「足守藩」の解説

足守藩

備中国、足守(現:岡山県岡山市)を本拠地とした外様の小藩。藩祖は木下家定(豊臣秀吉の正室、高台院の兄)。

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世界大百科事典(旧版)内の足守藩の言及

【備中国】より

…なお蒔田氏は参勤交代をしない定府大名である。足守藩は賀陽郡足守(岡山市)に陣屋をもつ2万5000石の外様小藩で,1601年秀吉正室ねねの実兄である木下家定が立藩した。のち一時幕領,私領となったが,15年家定の子利房が藩主に返り咲き,以後11代256年同氏が在封した。…

※「足守藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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