高松(読み)たかまつ

精選版 日本国語大辞典 「高松」の意味・読み・例文・類語

たか‐まつ【高松】

[1] 〘名〙 たけの高い松。
※謡曲・八島(1430頃)「八島に立てる高松の、苔の筵は痛はしや」
[2]
[一] 香川県中央部の地名。県庁所在地瀬戸内海に面し、平安時代から篦原(のはら)郷として知られる。天正一八年(一五九〇)高松城が築かれ、江戸時代は松平氏一二万石の城下町として栄えた。高徳線予讚線などが通じる四国地方の交通の一中心地。機械・食品・漆器などの工業が行なわれる。栗林(りつりん)公園・玉藻公園・屋島など観光地が多い。明治二三年(一八九〇)市制。
[二] 茨城県鹿島郡の旧村名。昭和二九年(一九五四鹿島町(現鹿嶋市)に合体。
常陸風土記(717‐724頃)香島「郡(こほり)の東二三里に高松(たかまつ)の浜(はま)あり」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「高松」の意味・読み・例文・類語

たかまつ【高松】

香川県中部の市。県庁所在地。四国の玄関口として海陸交通の要地。もと松平氏の城下町。高松城趾・屋島栗林りつりん公園などがある。平成17年(2005)9月に塩江町を、18年1月に牟礼むれ町・庵治あじ町・香川町・香南町国分寺町を編入。人口41.9万(2010)。
岡山市北区の地名。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「高松」の意味・わかりやすい解説

高松[市] (たかまつ)

香川県中央部にある県庁所在都市。2005年9月旧高松市が塩江(しおのえ)町を編入,さらに06年1月庵治(あじ),香川(かがわ),香南(こうなん),国分寺(こくぶんじ),牟礼(むれ)の5町を編入して成立した。人口41万9429(2010)。

高松市北東端の旧町。旧木田郡所属。人口6121(2005)。庵治半島先端部を占め,南端には瀬戸内海国立公園に属する五剣山がある。山地が広く,西側にわずかに開けた平野部に集落が集中する。山地ではミカン,ブドウ栽培が行われる。古くから町の基幹産業であった漁業は,県下屈指の漁港と水揚高を誇っており,水産加工業も盛んであるが,沿岸漁業の不振から養殖漁業に転換しつつある。南西部では庵治石を加工する石材業が盛んで,1981年に完成した庵治臨海造成地では水産加工業,石材業が操業中。源平合戦の時の平氏軍船の隠し場所と伝えられる船隠は,海水浴場,レジャーセンターとなっている。ほかに江ノ浜海水浴場,庵治温泉(含食塩硫黄泉,18~20℃)があり,沖合の大島に国立ハンセン病療養所青松園がある。

高松市中部の旧町。旧香川郡所属。人口2万4220(2005)。北部は讃岐平野の南端を占め,北流する香東(ごうとう)川により形成された扇状地で,南部は讃岐山脈北麓の丘陵地帯。中央部を国道193号線(塩江街道)が縦貫する。古くから溜池灌漑による純農村地帯であったが,現在は北接する旧高松市への通勤者が多い。農業は従来からの米,麦に養鶏,イチゴ,花卉,野菜,果樹を取り入れた集約的多角経営となっている。高塚山の山頂にひょうげ祭で知られる水波売(みずはめ)神社がある。

高松市西部の旧町。旧香川郡所属。人口7991(2005)。北部は讃岐平野の南端に位置し,南部は讃岐山脈北麓の丘陵地帯。北部は北流する香東川により形成された扇状地で,古くから溜池灌漑による米作を中心とした純農村地帯である。近年は米に果樹,酪農を取り入れた複合経営となり,讃岐富有ガキの中心産地の一つである。北接する旧高松市への通勤者が多い。南端の丘陵地帯には1989年に高松空港が完成した。

高松市北西部の旧町。旧綾歌郡所属。人口2万4028(2005)。北部と南部は丘陵で囲まれ,中央部を本津川が北東流し,沖積低地を形成する。JR予讃線,国道11号線が中央部を横断する。溜池灌漑による農業中心の町であったが,旧高松市と坂出市の間に位置するため住宅地化が著しい。農業は米,麦中心から,盆栽,施設園芸,果樹,蔬菜,花卉などの都市近郊農業に移行している。四国八十八ヵ所第80番札所白牛山国分寺は本堂,千手観音立像,銅鐘が重要文化財に指定されており,境内には讃岐国分寺跡(特史)の33個の巨大な礎石が残る。北東約2kmには国分尼寺跡(史)がある。

高松市南部の旧町。旧香川郡所属。人口3640(2000)。讃岐山脈の最高峰竜王山や大滝山の北斜面,香東川の源流部に位置し,町域の大半は山林で占められる。集落は徳島県穴吹町へ通じる塩江街道(国道193号線)沿いに発達,中心は安原下(やすはらしも)である。花卉,茶,抑制野菜の栽培や,淡水魚養殖が盛んで,自然休養村に指定されてからは観光農業の振興も図られている。旧高松市の奥座敷といわれる塩江温泉(単純硫化水素泉,18℃),讃岐平野の用水・洪水調節用の内場(ないば)ダム(1953完成)がある。
執筆者:

高松市中北部の旧市で,瀬戸内海に面する。1890年市制。人口33万2865(2000)。讃岐平野東部にあたる高松平野のほぼ全域を占め,香東川河口東岸に発達する中心市街地は,16世紀末生駒親正が城を築き,またのちに松平頼重高松藩12万石の藩主となって入封して以来,城下町として栄えた。明治維新後1888年に香川県が愛媛県から分離して成立するまで曲折を経たが,それ以後県都として発展した。1910年国鉄(現JR)宇高連絡船が就航してからは,それまでの徳島県鳴門にかわって四国の玄関口となった。他県都とは27年松山市と予讃線,35年徳島市と高徳線,高知市と土讃線で結ばれた。また92年高松自動車道善通寺~高松間が開通した(なお2003年全線開通)。第2次大戦の空襲で全焼したが,戦後中央官庁の出先機関が集中して四国行政の中核となり,さらに高度経済成長期には中央の会社の支店が多く進出した。産業別就業人口の割合(1990)では第1次産業4.5%,第2次産業24%,第3次産業71.5%で消費都市の傾向を示し,卸販売総額でも四国地方の中心をなしている。近代工業はふるわず,製造品出荷額(1995)では県の19%にすぎないが,その中では飲料・飼料,一般機械,金属の比率が高く,古くからの手すき和紙の伝統をうけつぐ製紙業は不振である。在来工業では近世からの讃岐漆器が高級品として知られる。市域には五色台(ごしきだい),屋島,石清尾(いわせお)山などの開析溶岩台地が多く,石清尾山東麓にある栗林(りつりん)公園は生駒・松平両家の別邸を回遊式庭園として明治末~大正初めに造成したもので,特別名勝に指定されている。
執筆者:

瀬戸内海交通の要地でもある高松の地名の初出は10世紀前半に成立した《和名抄》で,山田郡高松郷とある。1335年(建武2)には讃岐守護船木頼重が高松城に拠っていた。豊臣秀吉から1587年(天正15)讃岐一国の大名に封ぜられた生駒親正は高松郷に近接する香川郡の野原荘に城を築いて高松城と称した。以後それまでの高松を古高松という。城は海浜を埋め瀬戸内海に接して築城された。城下町は,北端を海に面して海水を利用した三重の濠をもつ城域を設け,中濠と外濠の間に重臣屋敷,外濠の西に侍屋敷,南に町家,東に舸子町を置いた。侍屋敷は162軒,町家は1364軒で百間町,大工町,磨屋町,紺屋町などの町があり,町家の南のはずれには寺を配置した。寛永(1624-44)の初めごろに城下へ流れ込んでいた香東川の本流を城下西部の支流(現,香東川)に変える工事が西島八兵衛によって行われたが,これは高松城下町の発展にとって画期的なことであった。1642年の町家の人口は1万2943人となった。

 生駒氏が御家騒動によって改易されてのち,1642年入封して東讃岐12万石を支配した松平頼重は城下町の拡充をはかるとともに,河川から導水し,亀井戸,大井戸,今井戸などを水源とするなど,城下の上水道を整備した。その後城下町は南東へ漸次広がっていき,1838年(天保9)には町数は49町で,城下町域は東西約20町,南北約11町となり,家中屋敷は人口5273人,町家は2万0314人であった。商船の船着場は城下東の東浜にあったが,1801年(享和1)に藩は東浜の海岸を埋め立てて,新地を築いて新湊町とした。そしてここに川口番所を設置し,問屋商人らを多数移住させて他国商品の出入りをいっそう活発にした。この新湊町には町年寄1人,組頭2人を置いた。1748年(寛延1)に城下町西通町の柏野屋市兵衛が高松藩領内生産の綿を取り扱う総問屋になったが,翌年には綿運上に反対する打ちこわしが起こり,襲撃にあっている。1835年には当時高松藩の代表的産物となった砂糖の積出しの監視を行う砂糖会所の引請人に塩屋町の三木屋と百間町の坂本屋がなっている。

 また高松城下は金毘羅参詣や四国遍路の上陸地でもあった。明治維新に際して高松藩は一時朝敵となり,新政府側の土佐,丸亀,多度津の各藩軍が高松城下に進駐した。
高松藩
執筆者:

高松市北東部の旧町。旧木田郡所属。人口1万7863(2005)。庵治半島の基部に位置し,北に五剣山,南に低い山地があり,東は志度湾に臨む。中央部は扇状に開けた低地で,JR高徳線,高松琴平電鉄志度線,国道11号線が通じ,旧高松市に東接して都市化が進んでいる。五剣山西麓から産する庵治石を加工する石材業,土管,煉瓦,瓦,コンクリートブロックなどを生産する窯業などの地場産業があり,臨海土地造成事業により石材工業団地,陶管工業団地が建設された。瀬戸内海国立公園に属する五剣山には四国八十八ヵ所85番札所八栗(やくり)寺があり,ケーブルカーが通じる。西部の旧高松市との間の入江は壇ノ浦で,六万寺,洲崎寺をはじめとして源平合戦にちなむ史跡が多い。
執筆者:

高松(石川) (たかまつ)

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高松」の意味・わかりやすい解説

高松
たかまつ

石川県中央部,能登半島基部の西岸にある地区。旧町名。 1922年町制。 1954年南大海村と合体,旧町域となる。旧町名は中世以来の地名による。 2004年3月七塚宇ノ気 2町と合併しかほく市となった。地区西部は日本海に面する砂丘地で,中央部,東部は宝達山に続く丘陵地。江戸時代は七尾街道の宿場町。繊維産業が盛ん。海岸沿いの砂丘では高松ブドウの栽培が行なわれている。 JR七尾線,国道 159号線,能登道路が通り,金沢への通勤者も多い。海水浴場がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「高松」の意味・わかりやすい解説

高松【たかまつ】

岡山県岡山市の一地区。吉備(きび)郡の旧町で,1582年羽柴秀吉(豊臣秀吉)が水攻めにした高松城(備中高松城)の跡(史跡)がある。岡山平野部での水田耕作,山麓での果樹の温室栽培が盛ん。北部の稲荷は妙教寺の門前町。吉備線が通じ岡山市街,総社市への通勤者が多い。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

普及版 字通 「高松」の読み・字形・画数・意味

【高松】こうしよう

喬松。

字通「高」の項目を見る

出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

デジタル大辞泉プラス 「高松」の解説

高松

石川県かほく市にある道の駅。主要地方道金沢田鶴浜線に沿う。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の高松の言及

【讃岐国】より

… 南北朝・室町時代,讃岐は細川氏嫡流,京兆(けいちよう)家の根本分国として重要な政治的役割をになった。《太平記》には1335年(建武2)足利尊氏の西走に際し,細川和氏,頼春,顕氏,定禅(じようぜん)らを西国諸国に配置して再挙にそなえたことが記され,このうち定禅が讃岐鷺田(さぎた)荘(現,高松市)で挙兵し諸勢力を糾合したことが伝えられている。さらに建武年間以降,顕氏,繁氏が讃岐守護に任ぜられ,62年(正平17∥貞治1)細川頼之の補任以後は代々京兆家に世襲され室町幕府崩壊期におよんだ。…

※「高松」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android