美作国(読み)ミマサカノクニ

デジタル大辞泉 「美作国」の意味・読み・例文・類語

みまさか‐の‐くに【美作国】

美作

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日本歴史地名大系 「美作国」の解説

美作国
みまさかのくに

古代

和銅六年(七一三)四月三日、備前国に属していた英多あいた勝田かつた苫田とまた久米くめ大庭おおば真島ましまの六郡を分割して新立した国(続日本紀)。「和名抄」東急本(国郡部)に「三万佐加」、刊本(国郡部)に「美万佐加」の訓がある。「伊呂波字類抄」によると、当時の備前守は百済王南典、介は上毛野堅身で、堅身が初代の美作守になったとある。東は播磨国、南は備前国、西は備中国、北は因幡国と伯耆国に接する。吉井川水系と旭川水系の上流一帯の地域で、現在の岡山県北東部にあたる。原始・古代の時期には広義の吉備地域に属していたが、備前・備中南部平野部とはいささか異なった歴史的展開をたどった。

〔首長と古墳〕

各地の河川流域の沖積平野を基盤とする首長層がそれぞれに古墳を造営した。日上天王山ひかみてんのうやま古墳(津山市)は全長約五五メートルの前方後円墳で、葺石はあるが埴輪はなく、前方部が撥形に開く形状をもち美作最古の古墳の一つと考えられている。美作地方は備前・備中地域とは異なって一〇〇メートルを超える巨大古墳は存在せず、各平野部を基盤とした首長層が中小古墳を営むにとどまった。そのうち比較的大きなものは、全長約八五メートルの前方後方墳で前方部が撥形に開く植月寺山うえつきてらやま古墳(勝田郡勝央町)、約八五メートルの前方後円墳である美和山みわやま一号墳(胴塚古墳、津山市)、径約六〇メートルの円墳で造出しをもち、昭和二八年(一九五三)に住民を主体とした大発掘運動でも有名な月の輪つきのわ古墳(久米郡柵原町)、全長約五四メートルの前方後方墳である楢原寺山ならばらてらやま古墳(英田郡美作町)、全長約五〇メートルの前方後円墳で凝灰岩製の長持形石棺をもつ武塚たけづか古墳(津山市)、副葬品に二個の同笵の車輪石形銅器をもつ田邑丸山たのむらまるやま一号墳(同上)、舶載の竜虎鏡一面が検出された赤峪あかざこ古墳(苫田郡鏡野町)などがある。これらの前期古墳のあり方は、美作一帯を領域とする首長勢力が成長していないこと、南方で巨大古墳を相次いで造営していた吉備一族の支配下に置かれていたことを示している。

後期古墳は各地で多数営まれる。研究史上有名な佐良山さらやま古墳群(津山市)、径二〇メートルを超える円墳で、美作最大の約一二メートルの横穴式石室をもつ万燈山まんとうやま古墳(苫田郡加茂町)、県北の蒜山原ひるぜんばらの約二四メートルの円墳で、約一一・五メートルの横穴式石室をもち、豊富な副葬品と各種の形象埴輪を出土したづか一号墳(真庭郡八束村)など、特記すべきものも多い。なかでも注目されるのは製鉄に関係する遺跡の多いことである。

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改訂新版 世界大百科事典 「美作国」の意味・わかりやすい解説

美作国 (みまさかのくに)

旧国名。作州。現在の岡山県北東部。東は播磨,西は備中,南は備前,北は因幡,伯耆の諸国に接し,中世末まで播磨国佐用郡石井(現,兵庫県佐用町上石井・下石井)を含む。

山陽道に属する上国(《延喜式》)。713年(和銅6)4月,備前国から英多(あいた)(現,英田(あいだ)),勝田(かつた)/(かつまた),苫田(とまた),久米(くめ),大庭(おおば),真島(ましま)の6郡を分割して設置された。備前守百済南典,同介上毛野堅身らの申請によるといわれる(《伊呂波字類抄》)。863年(貞観5)苫田郡を苫西・苫東の2郡に分割。国府は苫田郡内(現,津山市総社),国分寺・同尼寺は勝田郡内(現,同市国分寺)に置かれ,最近の発掘調査でそれらの遺構が確認された。《延喜式》によれば京への行程は上り7日,下り4日の近国。貢納品は備前片上津(現,備前市片上)まで陸路,片上から海路で京に運ばれた。神名帳には11座が記され,そのうち中山(なかやま)神社,高野(たかの)神社はのち一宮,二宮となったが,《今昔物語集》では神体を〈中参(ちゆうさん)ハ猿,高野(こうや)ハ蛇〉と記している。古代の寺院址はほぼ国の中央部を東西に貫通する出雲道に沿って設置され,東から江見廃寺大海廃寺,楢原廃寺,久米廃寺,大庭廃寺などの遺構が確認されている。久米廃寺は久米郡衙に隣接して構築され,大庭廃寺は《日本書紀》の欽明16年7月条にある蘇我稲目らによって設置された白猪屯倉(しらいのみやけ)推定地(現真庭市,旧久世町五反)にあり,高句麗系様式の瓦を出土する。古代の特産物として鉄,銅があり,728年(神亀5)大庭・真島2郡の庸米を鉄に換えて貢輸し,877年(元慶1)2郡から銅が貢進されている。《日本霊異記》によれば英多郡管内に官営の鉄山があったことが知られる。浄土宗の開祖法然は1133年(長承2)稲岡荘(現,久米南町)で誕生した。
執筆者:

美作国には稲岡荘をはじめ,多くの荘園が平安~鎌倉期に成立した。そのおもなものは神護寺領佐良(さら)荘,池大納言(平頼盛)家領弓削(ゆげ)荘,石清水八幡宮領梶並(かじなみ)荘,大吉荘,祇園社領布施荘,安楽寿院領建部荘,賀茂別雷社領河内荘,倭文(しとり)荘,尊勝寺領林野保,英多保,長講堂領真島荘,後宇多院歓喜光院領垪和(はが)西荘などで,ほかにも北野社領長岡荘,吉野荘,水無瀬宮領北高田荘,勧修寺領西香美本荘,高野山金剛三昧院領大原保などがある。

 在地の武士団と称するものに菅家党(かんけとう)があり,有元,広戸,福光,植月,原田,鷹取,江見の7氏は菅家7党と呼ばれて同族意識によって団結していた。とくに江見氏と,新補(しんぽ)地頭として入部した安東氏,渋谷氏が美作を代表する武士として知られる。鎌倉時代の守護所は院庄(いんのしよう)(現,津山市院庄)に置かれ,初代の守護には梶原景時が播磨・美作2国兼帯の守護として1184年(元暦1)に任命され,1200年(正治2)には和田義盛に代わったが,和田氏が族滅されたのちは北条義時がその職を接収し,以後北条氏家督得宗家(とくそうけ)の兼補とされた。のち得宗家から北条氏一門に与えられて鎌倉末期に及んだ。その反発から南北朝内乱期には菅家党,南三郷党(西作の真島郡南部の鹿田,栗原,垂水3郷の武士団)など在地武士のめざましい活躍があった。南北朝初期に佐々木氏が一時守護になったが,やがて山陰の山名氏と播磨の赤松氏の抗争の的になって,その守護も赤松貞範,山名時氏,同義理と交替し,明徳の乱後の恩賞として赤松義則が守護職を得た。山名氏は深く赤松氏をうらんで,嘉吉の乱で赤松氏を滅ぼしてその所領を奪ったが,応仁・文明の乱で赤松政則が旧領3ヵ国(播磨,備前,美作)の守護職に復したのちにも,たびたび兵を出してその奪回をねらった。美作西部には山名氏勢力の影響が強く,赤松氏の勢力は作東にしか及ばなかった。作東の三星城に拠った後藤氏は播磨の後藤氏の分かれらしく,作西では三浦氏が高田城に拠って頭角をあらわした。

 美作は山間の小国ではあるが,中央と山陰を結ぶ連絡路にあたり,また山陽と山陰との通路でもあって人や物資の移動が活発で,大原市(おおはらのいち),林野市,戸川市などが商取引の拠点となって栄えていた。人口も増加し,英多郡から吉野郡を分け,苫東郡が苫東(東南条)と苫北(東北(とうほく)条)2郡に,苫西郡が苫西(西西(さいさい)条)と苫南(西北(さいほく)条)2郡に,勝田郡が勝南(しようなん)と勝北(しようほく)2郡に分かれたのも中世である。

 戦国期には備前の浦上氏の勢力が作東を中心に伸び,ついで山陰の尼子氏が進出し,やがて安芸の毛利氏,備前の宇喜多氏など周辺勢力が覇権を交替し,在地領主三浦氏,後藤氏はそれら巨大勢力によって滅ぼされてしまった。鎌倉末~南北朝期の臨済宗の禅僧で近江永源寺を開いた寂室元光(じやくしつげんこう)は作西の高田荘出身であった。
執筆者:

豊臣政権のころの美作は,岡山城主宇喜多秀家の所領であったが,関ヶ原の戦で宇喜多家が没落し,1600年(慶長5)小早川秀秋が岡山城主となり,美作は備前とともにその領国となった。しかし秀秋も02年嗣子なくして没したため小早川家も断絶した。そのため宇喜多,小早川の遺臣が美作の各地に土着帰農した。同年その遺領のうち備前は池田忠継に,美作は森忠政に与えられ,翌年忠政は18万6500石の領主として入封した。

 忠政は新規に津山城を築き,領内の商人,職人たちを集めて城下町を経営した。また藩財政の基礎を確立するため国内の総検地を実施し,郡奉行のもとに大庄屋,肝煎,庄屋などの制度を設け,地方支配機構を整備するとともに頭百姓の制度などを設け土豪たちの懐柔にも意を注いだ。しかし美作は山国で新田干拓等による財源拡大の余地は乏しく,そのため領民に重税を課したから領民の一揆や逃散が起こった。このように財政問題,社会問題が深刻化する中で,97年(元禄10)藩主森長成が死去し,養嗣の衆利が発狂したため森家嫡流は断絶した。森家の家老長尾隼人は文化遺産の保護保存に意を注ぎ,院庄の遺跡や宇那提(うなで)の森の保護,地誌・民間伝承の記録につとめた。

 97年美作国は収公されて天領となったが,翌年松平宣富が津山藩主に封ぜられ,津山以西を中心に10万石を与えられた。残る天領のうち一部は甲斐甲府領(徳川綱豊,後の家宣),三河挙母(ころも)領(内藤氏)となった。1726年(享保11)津山藩主松平宣富が死去し,ついで幼少の藩主浅五郎も若死し,家名存続は許されたが5万石に減封された。収公された5万石は天領のほか,上野館林領(太田氏),美作黒土領(丹羽氏),播磨乃井野領(森氏),下総関宿領(久世氏),下総佐倉領(堀田氏),美濃岩村領(松平氏),播磨明石領(松平氏),備中井原領(池田氏),下総古河領(土井氏),因幡鳥取領(池田氏),相模小田原領(大久保氏),常陸土浦領(土屋氏),但馬出石領(仙石氏),播磨竜野領(脇坂氏)など大名・旗本の飛地に細分された。64年(明和1)三浦明次が美作のうち2万3000石を与えられて真島郡の高田を勝山と改名し,幕命により勝山城を築き勝山藩を立藩した。1817年(文化14)津山藩主松平氏は将軍家斉の子銀之助を養子に迎え,5万石を加増されて10万石に復した。67年(慶応3)には,第2次長州征伐のとき長州軍に城を焼かれ所領を奪われた石見国浜田藩主松平武聡が,久米北条郡内で2万石を与えられ鶴田(たづた)藩主となった。このように美作国は,1698年以後津山藩,勝山藩,鶴田藩のほかは,天領や多数の大名・旗本の飛地領に細分されて明治維新を迎え,北条県の設置によって再びひとつにまとめられた。

 美作の主産業は農業で米麦生産が主であったが,気候寒冷なため二毛作の普及率は山間部においては低く,また灌漑用水も乏しく溜池に依存するところも少なくなかった。畑作地域ではタバコ,茶,大豆など換金作物の栽培が近世中期以後に普及した。中国山地では鉄山師によるたたら生産,木地師による木器の生産がみられ,また農家の副業として薪炭生産や紙漉(す)きなども行われた。近世中期以後,天領や大名飛地が増加し,年貢の銀納部分が増加したことが美作の農家の商品生産を助長した。山国ではあるが吉井川,旭川によって瀬戸内海と結ばれ,産物は高瀬舟によって西大寺,金岡や岡山へ積み下ろされた。この両川の川筋には高瀬舟の川港や船頭集落が発達した。

 商品生産の発展により美作では早くから貨幣経済が発展したが,領主の課する重税と問屋商人たちの搾取のため,階層分化が進むのみで農家経済の安定には結びつかなかった。また天領や大名飛地の代官たちは大庄屋と結託する傾向が強く,そのため大庄屋が横暴を働くことも多かった。このような事情から大庄屋,問屋商人に対する一揆,打毀(うちこわし)や,領主に対する越訴(おつそ)などが頻りに起こった。元禄の高倉騒動,享保の山中一揆,元文の勝北非人騒動,文化の17ヵ村愁訴,慶応の改正一揆,明治初年の鶴田騒動などがそれである。

 津山藩では世に美作洋学といわれるように藩医の宇田川家と箕作(みつくり)家を中心に洋学が盛んで,宇田川玄随,同玄真,同榕菴,箕作阮甫(げんぽ),同省吾,同秋坪(しゆうへい)らが輩出した。また民間からは石井宗謙があらわれシーボルトに学び蘭方医として活躍した。1796年(寛政8)久世代官早川正紀(まさのり)は久世の有志を誘導して典学館(てんがくかん)を設け領民の風俗匡正のため教育を振興し,また英田郡土居村の安東正虎らは,村塾として行余学堂を設けたが,師匠河野鉄兜(てつとう)の影響もあって安東鉄馬ら草莽の志士を輩出した。民間では地下芝居が発達し,各地に舞台が設けられたが,とくに那岐山の麓では農村歌舞伎,湯本では人形浄瑠璃がひろまり,民衆の間で人気を高めた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「美作国」の意味・わかりやすい解説

美作国
みまさかのくに

岡山県の北東部の旧国名。東は播磨(はりま)、西は備中(びっちゅう)、北は因幡(いなば)・伯耆(ほうき)、南は備前(びぜん)に接し、旭(あさひ)川・吉井川によって瀬戸内海を結ぶ。713年(和銅6)備前北部の英多(あいた)、勝田(かた)(かつまた)、苫田(とまた)、久米(くめ)、大庭(おおば)(おおにわ)、真島(ましま)の6郡を割いて美作国を置いた。863年(貞観5)苫田郡を苫東(とまひがし)・苫西(とまにし)の両郡に分割、室町時代にそれぞれ苫北・苫東と苫南・苫西に分割したがのちに東苫田・西苫田の両郡に統合、江戸時代にふたたび東北条(とうほうじょう)・東南条(とうなんじょう)と、西北条(さいほうじょう)・西西条(さいさいじょう)に分割された。英多郡は室町時代のころ吉野・英田(あいだ)の両郡に、勝田郡は江戸時代に勝北(しょうほく)・勝南(しょうなん)の両郡に分割された。国府は苫田郡の現津山市総社(そうじゃ)に置かれ、国分寺は勝田郡の現津山市国分寺に建立された。『和名抄(わみょうしょう)』によると、平安中期の美作の水田面積は1万1021町3反256歩。特産物には鉄、銅、材木、紙などがあった。

 鎌倉時代には、河会(かわい)郷の地頭(じとう)渋谷(しぶや)氏など関東武士が来住し、また菅原道真(すがわらのみちざね)の末流が菅家(かんけ)七流と称して勝田郡内に、また公卿(くぎょう)徳大寺実孝(さねたか)の子孫が新免(しんめん)姓を称して吉野郡内に勢力を広めた。平安・鎌倉のころ、神護寺(じんごじ)領佐良荘(さらのしょう)のほか稲岡荘、梶並(かじなみ)荘、倭文(しとり)荘、真島荘、英多保(ほ)、林野保、大原保などが設けられた。南北朝から室町初期のころは、播磨守護赤松氏の支配に属したが、嘉吉(かきつ)の乱(1441)以後、因幡守護山名氏の支配に属した。応仁(おうにん)の乱(1467~77)後ふたたび赤松政則(まさのり)の支配に服したが、彼の死後赤松氏は衰え、出雲(いずも)の尼子(あまご)氏、備前の浦上(うらがみ)・宇喜多(うきた)氏、備中の三村氏、安芸(あき)の毛利(もうり)氏の抗争の場となった。作東に三星(みつぼし)城主後藤氏、作西に高田城主三浦氏があったが、ともに美作の統一勢力にはなりえず、1582年(天正10)備前の宇喜多氏の支配に属した。

 関ヶ原の戦い(1600)後、美作は備前とともに小早川秀秋(こばやかわひであき)の所領となったが、1603年(慶長8)秀秋の死で断絶し、美作一円(朱印高18万6500石)を森忠政に賜った。忠政は鶴山(かくざん)に津山城を築き城下町を経営し、全領に検地を実施した。その後の検地で1697年(元禄10)には内高25万9327石に達していた。同年森氏は断絶し、以後美作は幕領と多くの私領に分割された。美作に城や陣屋を構えた藩は津山藩(越前(えちぜん)松平氏)、勝山藩(三浦氏)、幕末に設置された鶴田(たづた)藩(越智(おち)松平氏)のみで、他国の諸藩の飛び地が多かった。美作では1726年(享保11)の山中一揆(さんちゅういっき)のほか多くの一揆が激発した。反面、宇田川玄随(うだがわげんずい)・榕菴(ようあん)、箕作阮甫(みつくりげんぽ)など優れた洋学者を輩出し、また武芸では戦国末期の竹内久盛(たけのうちひさもり)に始まる竹内流(棒術、小太刀、捕縄術、柔術の総合武術)が民間に広く普及した。

 1871年(明治4)廃藩置県ののち美作一円は北条県となった。73年新政に反対する大規模な「血税」一揆が起こった。76年北条県は岡山県に統合された。

[柴田 一]

『谷口澄夫著『岡山県の歴史』(1970・山川出版社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「美作国」の意味・わかりやすい解説

美作国
みまさかのくに

山陽道の一国。上国。今日の岡山県北東部。古くは備前国の一部であったが,『続日本紀』によれば,和銅6(713)年 6郡をさいて一国とした。ここには国造県主としての記録はない。『延喜式』神名帳には 11座(10社)の神社が載せられ,中山神社は名神大社に列し,のちに当国の一宮であった。同書には英多(あいた),勝田,苫東(とまひがし)など 7郡があり,『和名抄』(→倭名類聚抄)には郷 65,田 1万1021町を載せている。国府津山市総社。国分寺は津山市国分寺。鎌倉時代には初め梶原氏,和田氏が守護に任じられたが,まもなく北条氏の支配となり,得宗領となった。南北朝時代には佐々木氏山名氏が守護となったが,元中8=明徳2(1391)年の明徳の乱の結果,赤松氏の領となった。嘉吉の乱で山名氏の手に帰したが,応仁の乱の結果,再び赤松氏が支配。戦国時代,赤松氏の衰微により,備前からは浦上氏が,山陰からは尼子氏が侵入,さらに西方からは毛利氏の勢力が伸び,その力が錯綜した。戦国時代末期には備前の宇喜多氏の領国となったが,関ヶ原の戦いで宇喜多氏は滅び,慶長5(1600)年小早川秀秋岡山城に入って当国を支配。江戸時代には津山に初め森忠政が,のちには松平氏が,勝山には三浦氏が封じられ幕末にいたった。明治4(1871)年の廃藩置県後,各藩は県となり,一時統合されて北条県となったが,1876年岡山県に併合された。

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藩名・旧国名がわかる事典 「美作国」の解説

みまさかのくに【美作国】

現在の岡山県北東部を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で山陽道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は上国(じょうこく)で、京からは近国(きんごく)とされた。国府は現在の津山(つやま)市総社東(そうじゃひがし)、国分寺は同市国分寺(こくぶんじ)におかれていた。鎌倉時代には梶原(かじわら)氏、和田氏、北条(ほうじょう)氏が、南北朝時代以降は佐々木氏、山名氏、赤松氏が守護となった。応仁(おうにん)の乱後、赤松氏が没落すると、備前(びぜん)国(岡山県)の宇喜多(うきた)氏の支配下に入った。江戸時代には津山藩勝山藩、鶴田(たづた)藩の3藩と幕府直轄領や多くの大名・旗本領に細分された。1871年(明治4)の廃藩置県により北条県となったが、1876年(明治9)に岡山県に併合された。◇作州(さくしゅう)ともいう。

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百科事典マイペディア 「美作国」の意味・わかりやすい解説

美作国【みまさかのくに】

旧国名。作州とも。山陽道の一国。現在の岡山県北東部。もと吉備(きび)国。713年備前(びぜん)国から分置。《延喜式》に上国,7郡。国府は津山市。中世,荘園が多く,戦国期には宇喜多氏が支配。近世,津山・勝山・鶴田(たずた)3藩が置かれた。→津山藩
→関連項目岡山[県]中国地方

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「美作国」の解説

美作国
みまさかのくに

山陽道の国。現在の岡山県北東部。「延喜式」の等級は上国。713年(和銅6)備前国から英多(あいだ)・勝田・苫田(とまた)・久米・大庭(おおんば)・真島の6郡を割いて立国した。863年(貞観5)苫田郡を東西にわけて苫東(とまひんがし)・苫西(とまにし)郡とし,7郡となる。国府は苫東郡(現,津山市),国分寺・国分尼寺は勝田郡(現,津山市)におかれた。一宮は中山神社(現,津山市)。「和名抄」所載田数は1万1021町余。「延喜式」では調に絹・帛・糸のほか鍬・鉄がある。播磨国から当国をへて山陰道の因幡国に至る道があり,日本海方面と結んだ。鎌倉時代には初期を除き北条氏が守護を独占した。室町時代には赤松氏・山名氏が守護となり,戦国期の争乱をへて宇喜多氏の領国となる。江戸時代は当初森氏の津山藩が一国支配したが,のち幕領,他国の藩領も多くなる。1871年(明治4)の廃藩置県ののち北条県となり,76年岡山県に合併された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

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