きた【北】
[1] 〘名〙
① 方角の名。日の出る方に向かって左の方向。
十二支では子
(ね)の方角に当たる。
※書紀(720)成務五年九月(熱田本訓)「山の陽(みなみ)を影面(かけとも)と曰ふ。山の陰(キタ)を背面(そとも)と曰ふ」
※宇津保(970‐999頃)俊蔭「三条の大路より
きた」
※土左(935頃)承平五年二月五日「朝きたの出で来ぬさきに綱手はやひけ」 〔日葡辞書(1603‐04)〕
※室町殿日記(1602頃)一「北の慶寿院殿をはじめ奉りて上下御よろこび限なし」
[2]
[一]
江戸城の北にある遊里、新吉原を、南の品川に対していう。
北郭(ほっかく)。
北国(ほっこく)。
※黄表紙・高漫斉行脚日記(1776)上「北の南のたつみのと、えしれぬかたへいざなひける」
[二] 大阪の
堂島川、土佐堀川を分ける中之島から北側の地域。特に堂島の付近をいい、また、梅田新道などの歓楽街をさす。
[三] 大阪市の曾根崎新地の俗称。北の新地。
[五] 東京都二三区の一つ。昭和二二年(
一九四七)、
滝野川区・
王子区が
合併して
成立。東京都の
北東部、荒川の右岸にある。低地には製紙、化学、印刷などの工業が、台地には
住宅地が
発達する。
[六] 京都市の行政区の一つ。昭和三〇年(
一九五五)
上京区から
分離して新設。北山丸太の産地で林業が盛ん。南部の市街地は高級住宅地。金閣寺、
大徳寺などがある。
[七] 大阪市の行政区の一つ。明治二二年(一八八九)大阪市制施行と同時に成立。大阪市の都心部を形成する経済、文化、交通の中心。
[八] 名古屋市の行政区の一つ。昭和一九年(一九四四)東区と西区から分離して新設。染色業、窯業、繊維工業を主とする工業地帯であったが、現在は住宅団地の造成も進む。
[九] 札幌市の行政区の一つ。昭和四七年(
一九七二)市が指定都市となったときに発足。明治八年(
一八七五)、屯田兵の入植によって開かれた。
北海道大学、茨戸湖などがある。
[十] 神戸市の行政区の一つ。昭和四八年(
一九七三)
兵庫区から分区成立。六甲山地北麓一帯を占める。
有馬温泉がある。
[十一] さいたま市の行政区の一つ。平成一五年(
二〇〇三)成立。旧大宮市の
北部にあたり、盆栽村がある。
[十二] 青森県の東部におかれていた郡。明治一一年(一八七八)上北・下北の両郡に分割されて消滅。
[十三] 北アルプスの略称。
きた‐・す【北】
〘自サ変〙 北に向かって行く。
※米欧回覧実記(1877)〈
久米邦武〉一「此河は是より北し」
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デジタル大辞泉
「北」の意味・読み・例文・類語
きた【北】[東京都の区]
東京都北部の区名。荒川右岸にある。昭和22年(1947)滝野川・王子の両区が合併して成立。明治時代から製紙・印刷業が発達。大規模住宅団地や飛鳥山公園がある。人口33.6万(2010)。
きた【北】[書名]
《原題、〈フランス〉Nord》セリーヌの小説。1960年刊。「城から城」「リゴドン」と併せ、「亡命三部作」「ドイツ三部作」などとよばれる作品群の第2作目。
きた【北】
1 太陽の出る方に向かって左の方角。⇔南。
2 北風。《季 冬》「―寒しだまって歩くばかりなり/虚子」
[補説]地名・書名別項。
[類語]東・西・南
きた【北】[神戸市の区]
神戸市北部の区名。宅地化が進行。有馬温泉がある。昭和48年(1973)兵庫区から分離。
きた【北】[さいたま市の区]
さいたま市北部の区名。旧大宮市の北部にあたる。盆栽村がある。
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北
きた
北海道中西部,岩見沢市北西部の旧村域。石狩平野の中央に位置する。 1919年村制施行。 2006年岩見沢市に編入。旧村名は開拓功労者の北村雄治の姓による。石狩川東岸を占める代表的米作地帯。
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きた【北】
観測点から見た地平面の方向を方位といい,東西南北の4基点をもとに北,北北東,北東,東北東,東……など16方位で呼ぶのが一般的である。北は,観測者が太陽の昇る方向(東)に向いたとき左手に当たる方向で,英語のnorthもインド・ヨーロッパ語系のner(on the leftの意)に由来している。古来,中国や日本では十二支(干支(かんし))で方位を呼び,北は子に当たる。
[キタと日本人]
現代人の場合はどうか知らないが,伝統的な日本人の感性にあっては,〈きた〉(北)といえば寒冷,静寂,冬,夜,暗黒,死者などのイメージが付きまとうほか,女性,胎内,水,知恵などとの連想のもとに観念されることが多かった。
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北
きたなだ
市北部の瀬戸内海に面した地域一帯をさす名称。名称は同地域が徳島県の最北端に位置し、島嶼部を除いて唯一徳島県が瀬戸内海の播磨灘に面する地であることに由来するとみられる。吉野川流域とは讃岐山脈(阿讃山脈)を隔てており、平地部には乏しいため、古来より漁業を中心に生業が営まれてきた。古くは島田島北端の室から讃岐国境にかけての漁場を北浦と称していた。江戸時代には櫛木・粟田・大浦・宿毛谷・鳥ヶ丸・折野・大須・碁浦の八ヵ村は北灘八ヵ村とよばれ(元居書抜)、文化七年(一八一〇)の板野郡中郷高取に北灘組とみえる(鳴門市史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報