岡山(読み)おかやま

精選版 日本国語大辞典 「岡山」の意味・読み・例文・類語

おか‐やま をか‥【岡山】

[1] 〘名〙
① 岡と山。
※今昔(1120頃か)二八「隣の国の百姓雲の如くに集り来て、岳山(をかやま)とも不云」
② 岡のような山。低い山。
※太平記(14C後)三二「此の道辻、彼の岡(ヲカ)山に取り上げて鐘を鳴らし」
[2]
[一] 岡山県南部の地名。県庁所在地。平安初期、藤原氏の荘園が置かれる。戦国時代宇喜多氏が築城、山陽道を貫通させ、町人を集めて城下町を完成。江戸時代は池田氏三一万五千石の城下町。後楽園、岡山城址がある。明治二二年(一八八九)市制。瀬戸大橋によって四国と結ばれている。
[三] 大阪府四条畷市北西部の地名。忍岡(しのびのおか)

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デジタル大辞泉 「岡山」の意味・読み・例文・類語

おかやま〔をかやま〕【岡山】

中国地方南東部の県。もとの備前備中美作みまさか3国にあたる。人口194.5万(2010)。
岡山県南部の市。県庁所在地。江戸時代は池田氏の城下町。山陽・山陰・四国を結ぶ交通の要地で、商業・工業が発達。岡山城後楽園などがある。平成19年(2007)1月、建部町・瀬戸町を編入。平成21年(2009)4月、全国で18番目の指定都市となった。人口71.0万(2010)。
[補説]岡山市の4区
北区中区東区南区

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改訂新版 世界大百科事典 「岡山」の意味・わかりやすい解説

岡山[県] (おかやま)

基本情報
面積=7113.21km2(全国17位) 
人口(2010)=194万5276人(全国21位) 
人口密度(2010)=273.5人/km2(全国24位) 
市町村(2011.10)=15市10町2村 
県庁所在地=岡山市(人口=70万9584人) 
県花=モモ 
県木=アカマツ 
県民の鳥=キジ

中国地方南東部,山陽地方の東端を占める県。東は兵庫県,西は広島県,北は鳥取県,南は瀬戸内海を隔てて香川県と対する。

近世には美作国に津山藩,勝山藩,備前国に岡山藩,備中国に岡田,浅尾,足守,庭瀬,松山,新見の諸藩と天領などが置かれた。1868年(明治1)美作国に鶴田(たずた)藩(旧浜田藩),備中国に鴨方,生坂の旧岡山新田藩と成羽藩が立藩し,天領を管轄する倉敷県が置かれた。翌年勝山藩は真島藩,松山藩は高梁(たかはし)藩と改称した。71年廃藩置県をへて美作の諸県は北条県,備中の諸県は備後の福山県とともに深津県(翌年小田県と改称)に統合された。岡山県は75年小田県を,76年北条県を統合するとともに旧福山県を広島県に編入して,現在の県域となった。

鷲羽山(わしゆうざん)遺跡(倉敷市)は西日本で最初に発見された先土器文化の遺跡である。また黄島貝塚(瀬戸内市)はその層ごとに貝種の変化によって先土器時代から縄文早期押型文土器の時期にかけての自然環境の変遷を示す。やがて縄文人の生活の場は島々から内陸へ広がっていった。前・中期を主とする里木貝塚(倉敷市)など,多数の貝塚を伴う遺跡が知られている。晩期には県北山間部にまで遺跡の分布は及ぶが,津雲貝塚(笠岡市)のようにもちろん瀬戸内海沿いにも大遺跡は少なくない。津雲貝塚は後・晩期を中心とし,屈葬された人骨が多数発見され,この期の葬制を知るうえで貴重な資料を提供した。南方前池(みなみがたまえいけ)遺跡(赤磐市)ではやはり晩期の木の実を蓄えた貯蔵穴が発見されている。

 このころ県南の吉井川,旭川,高梁川の三大河川の河口に広大な沖積平野が形成されていき,人々はこうした環境の中で狩猟,漁労は続けながらもしだいに農耕生活に移行していった。津島遺跡(岡山市北区)では弥生前期の水田址が調査されている。やがて稲作と鉄器は内陸・山間部へと及ぶ。沼遺跡(津山市)は中期後葉の集落遺跡であるが,溝に囲まれた竪穴集落や家屋構造まで解明されている。百間川遺跡(岡山市中区)では弥生後期の水田址が明らかにされた。

 やがて,鉄器と稲作農業の生産力をバックに発展した地方豪族の権力は,都月坂(とつきざか)墳墓群(岡山市北区)や楯築(たてつき)遺跡(倉敷市)のような各種の墳丘墓を出現させ,本格的な古墳発生に至る。前方後方墳の湯迫(ゆば)車塚古墳(岡山市中区),大型円墳の鶴山丸山古墳(備前市)はいずれも4世紀代前半で,花光寺山(けこうじやま)古墳(瀬戸内市),金蔵山(かなくらやま)古墳(岡山市中区),両宮山(りようぐうざん)古墳(赤磐市)などが続く。5世紀代になると吉備の豪族は大和朝廷に服属しその権威をかりることにより,ついに全長300m以上の巨大古墳を生むに至る。全長350mの造山(つくりやま)古墳(岡山市北区)などがその代表といってよい。月の輪古墳(久米郡美咲町)も山地におけるこの期の典型である。そして箭田(やだ)大塚古墳(倉敷市)などは6世紀代の巨石横穴式石室墳として重要。しかし,5世紀後半ごろから墳丘はしだいに小型化し,埴輪は失われ,横穴式石室が一般的となり,三須古墳群(総社市)などの群集墳が現れ,律令支配と仏教思想による火葬の風とがいよいよ強まって奈良時代に入る。

 鬼城(きのじよう)(総社市)は吉備の津を一望に収める標高400mの位置にある朝鮮式山城に似た塁状遺構である。このほか,総社市,岡山市周辺は古代文化の先進地であったので,国府址,国分寺址,それに足守(あしもり)庄址(岡山市北区)など荘園址も多い。
備前国 →備中国 →美作国

岡山県の地形は,北から順に,中国山地,内陸盆地吉備高原岡山平野と東西に帯状に並んで低くなり,南端に児島半島がある。東から吉井川,旭川,高梁川の三大河川が中国山地に源を発してほぼ等間隔に南流し,吉備高原では深い谷を刻み,三大河川の河口に形成された三角州がつながって岡山平野が形成された。平野の南半は近世以降の干拓地である。中国山地は標高1000m余のなだらかな山地(最高峰は1345mの後山)で,木材,砂鉄などの産地となり,放牧にも利用されていた。中国山地と吉備高原の間には津山,勝山,新見などの山間盆地がほぼ東西に並び,古くから県北部の物資の集散地となり,地方文化の中心をなしてきた。吉備高原は標高200~600mの隆起準平原で,県の面積の2/3を占め,平たん面が多く,畑地,水田などに利用される。高原上にはところどころに浸食に抗して残った本宮山(吉備中央町),天神山,弥高山(ともに高梁市)などの孤立峰があり,また阿哲台(新見市)などの石灰岩台地もみられる。吉備高原の南に広がる岡山平野には児島半島など大小の山地や丘陵が点在し,かつての瀬戸内海の島々が三角州の発達で陸繫(りくけい)されたことを示している。海上には笠岡市沖,児島半島周辺,備前市沖に島嶼(とうしよ)が多い。岡山県は地震や台風などの災害も少なく,気候は温暖少雨の瀬戸内型で,岡山市の年平均気温は15℃,年平均降水量は約1150mm,丘陵の谷間には溜池が多く,また児島湾岸では奈良時代から製塩業が発達した。北にいくにしたがって内陸的特色を示し,中国山地では冬の降雪量も多く,年降水量は約2000mmと山陰型の気候に近づく。岡山県は地形的には西隣の広島県との境が明瞭でない所が多いが,古来備前・美作両国は東隣の播磨国との関係が密接で,現在でも経済的には関西経済圏との結びつきが強くなっている。

1891年開通の山陽鉄道(現在の山陽本線)をはじめとして岡山市を焦点とする中国鉄道(現,津山線,1898。現,吉備線,1904),宇野線(1910),伯備線(1928)が開通した。1903年から岡山~高松間にあった航路(のちJR)は10年宇野線の開通に伴って宇野~高松間となった。県北部を東西に結ぶ現在の芸備線は1930年全通し,昭和初期までに県内の主要交通網が整った。明治以降の岡山県の農業は,備前,備中で江戸後期まで盛んであった綿作の衰退に代わり児島湾岸一帯で水田の裏作としてのイグサ,吉備高原での果樹,タバコ等々の栽培が発展し,また児島湾の干拓が1898年以降藤田組の手で大規模に実施されるなど,大きく発展した。工業では児島(倉敷市)での江戸時代からの綿織物業の伝統をうけついで,1870-80年代に県南諸都市に近代紡績が起こり,特に88年開設の倉敷紡績が大正末から昭和初期にかけて人造絹糸工場を次々に設立して成長した。1873年の笠岡製糸場(のちの山陽製糸)に始まる製糸業は明治20年代には県北の町村でも起こり,第1次世界大戦ころには活況を呈したが,1929年の大恐慌以後衰退した。第1次大戦による輸送需要増加などに対応して1919年玉野市に造船業が立地し,37年株式会社玉造船所(現,三井造船)として独立するなど重工業化への動きもあったが,昭和初期までの工業は全体としては軽工業が主体であった。

第2次大戦直後には,食糧増産のための緊急開拓政策のもとで,児島湾干拓の早期完成のため工事が農林省直轄となったほか,県北の蒜山原(ひるぜんばら)(蒜山高原),日本原その他の開墾が行われた。旭川上流の真庭郡の北部は大山(だいせん)出雲特定地域に指定され,また1954年湯原ダムの完成により水没した農村の再建のため酪農を導入したのを契機に,この地方が集約酪農地域に指定された。しかし県は1953年ころから水島(倉敷市)を工業地域にするよう計画し,特に58年ころからは農業県から重工業県への転換をねらって,水島の石油化学・鉄鋼コンビナート実現のため,県の行政・財政をこれに注いだ。この結果,水島臨海工業地域のみで県の工業出荷額(1981年,5兆9551億円)の過半を示すに至った。しかし,水島地区では重化学工業の発展に伴って公害も激化し,1974年には三菱石油の石油流出による瀬戸内海東半の汚染などの大事故も発生した。公害反対の世論に押されて,県は臨海コンビナートの拡大を中止し,むしろ内陸型産業を充実する方向に転じた。1995年現在の水島臨海工業地域の工業出荷額は県全体(6兆8634億円)の43%となった。津山盆地新見盆地などに中国自動車道が開通(1983全通)したのを契機に,工業用地が造成され,製材,音響機器,薬品など各種企業の立地が見られ,その代表は勝央中核工業団地(津山市)である。

 これに対して吉備高原や中国山地の諸地域は依然として第1次産業を基盤としており,過疎地域がいたるところに出現している。経済的にはこのように県内での南北格差が大きい。岡山・倉敷両市における著しい人口増加,工業化に対して,農業,農村は大きな打撃を受けた。労働力が他産業に流出し,最盛期の1964年には全国の半分を生産していたイグサは収穫までに手間のかかることもあって81年にはその5%以下に激減した。大正末から昭和初めに本格化し,岡山県の代表的産物であったモモ,ブドウも労力不足に悩み,マスカットなど温室ブドウは依然として全国シェアが常に9割以上と高いものの,モモは昭和30年代の最盛期に比べると減退気味である。山村部に至るまで人口の都市流出あるいは都市的職業の増加のため,農業は現状維持にとどまり,大きい発展は望めない。ただ,蒜山原がダイコン栽培と集約酪農で安定したこと,中・北部農村で野菜生産に努力していることなどが注目される。

 岡山市は山陽新幹線が1972年に開通,75年に博多まで延長されて交通の要衝としての地位を高め,1960年26万人であった人口を周辺の合併もあわせて70年46万人,80年54万人,90年に59万人,95年に61.6万人と着実に伸ばしてきた。新全国総合開発計画では,東瀬戸圏の中核都市となることを企図し,1978年着工の本州四国連絡橋児島~坂出ルート(通称,瀬戸大橋)が88年開通し,早島町に問屋・倉庫団地や展示館としてのコンベックス岡山を含む県総合流通センターが建設された。岡山市が県の行政・経済・文化の中枢の位置を高め,倉敷市がこれに次ぎ,倉敷地区には文化施設が多く,水島地区では重化学工業,児島地区は繊維産業が盛んである。また玉野市は造船の町,総社市は内陸工業と住宅の町としての性格をもってきた。この背後の吉備路風土記の丘,すなわち岡山市西部から総社市東部にかけては,備中国分寺跡(総社市),備中一宮の吉備津神社,造山古墳(岡山市),作山古墳(総社市)など古代吉備の遺跡,史跡が豊富に残り,また岡山市の後楽園,備前市の閑谷(しずたに)学校など近世の文化を伝える史跡も多く,都市化の波は田園地帯を蚕食しつつあるものの,中都市の良さを残している。

県内での自然条件,歴史的背景に現在の経済的結びつきを加えて県域は備南,美作および備北の3地域に区分される。

(1)備南地域 岡山県の南半を占め,面積で約40%,人口で約80%を有する。古代からの海・陸交通上の要路で,吉備文化の中心地であった。中世から備前刀,備前焼など手工業が起こり,近世には城下町岡山を頂点として多くの陣屋町があった。また干拓事業は近世から明治期を経て第2次世界大戦後まで続き,水稲はもちろん,イグサなどの商品作物が栽培されて,高い農業生産力を示した。工業は近世起源の繊維工業があり,明治期に近代工業として発展し,大正期には重化学工業を加え,戦後に水島臨海工業地域が形成されて,岡山県の工業生産の43%(1995)を占めている。工業化に伴う都市化の進行も顕著で,岡山・倉敷両市で最も激しく,その余波が近隣に波及した。これらのかげに水産業は衰退傾向にある。山陽新幹線,瀬戸大橋,中国自動車道,山陽自動車道,米子自動車道など新しい幹線交通路が次々と設置され,88年には岡山空港が開港,93年には大型ジェット機の就航が可能となり,山陽の代表的地域の一つとなっている。ただし,吉備高原の部分は過疎現象が著しい。民俗芸能では笠岡市白石島の白石踊が重要無形民俗文化財に指定され,伝統行事としては西大寺観音院の会陽(えよう)がある。

(2)美作地域 古くより美作国としてまとまりがあった。吉井川とその支流によって開析された津山盆地が大部分を占め,西部が旭川上流域になる。近世には諸往還のほか,河川交通が発達し,城下町津山をはじめとして河港として栄えた町が多い。工業は大正期以来の製糸業以外大きなものがなかったが,第2次大戦以後に内陸型工業が津山市に立地し,中国自動車道開通がその勢いを強めた。鉱業では柵原(やなはら)町(現,美咲町)にある硫化鉄の柵原鉱山,鳥取県境の人形峠付近でのウラン鉱山があったが,いずれも採鉱は終わった。盆地底以外は山地・丘陵で過疎化の進んだ農山村であるが,蒜山原などのように特色ある農業や牧畜も見られる。蒜山地方の民俗芸能に大宮踊がある。

(3)備北地域 岡山県北西部,高梁川の中・上流域を占め,新見市と高梁市が地域的中心である。県内で著しく過疎化の進んだ所である。かつて〈たたら〉による製鉄,次いで牛産地として名をあげたが,現在の主要工業は阿哲台の石灰岩関連工業程度である。民俗芸能はよく保存され,備中地方の備中神楽が重要無形民俗文化財に指定されている。
執筆者:


岡山[市] (おかやま)

岡山県南部の市で,県庁所在都市。2005年3月旧岡山市が灘崎(なださき)町と御津(みつ)町を,さらに07年1月瀬戸(せと)町と建部(たけべ)町を編入して成立した。09年4月政令指定都市となり,北区,中区,東区,南区の4区を設置。人口70万9584(2010)。

岡山市中部の旧市で,県庁所在都市。岡山平野の中央部にある県の政治,経済,文化,交通の中心地。1889年市制。以後しだいに市域を拡大し,1969年に西大寺市を,71年に津高,一宮,高松,足守,吉備,妹尾,上道の7町と福田,興除の2村を,75年には藤田村を編入した結果,児島湾干拓地と児島湖の大部分も市域に含まれることになった。人口62万6642(2000)。周辺の開発は古く,弥生時代の津島遺跡のほか平地部北半に条里遺構があり,また造山(つくりやま)古墳(史),車塚古墳金蔵山(かなくらやま)古墳など大小の古墳も多く見られ,備前国府は旭川東岸の国府市場にあった。戦国時代に宇喜多直家が旭川沿いの丘陵に築城したのが都市形成の始まりで,その後,小早川氏,池田氏と交代したが,安定したのは1632年(寛永9)に池田光政が鳥取から入封して以来で,明治維新まで備前31万5000石の城下として繁栄した。廃藩置県を経て1876年に現在の岡山県域が成立すると,岡山は備前のみでなく,備中,美作を含む全域の中心となった。1945年6月の空襲で市街地の大半が被災し,烏城(うじよう)(岡山城,戦後に再建)はじめ城下町のおもかげはなくなったが後楽園は江戸時代を代表する回遊式庭園として残っている。中心商店街は江戸時代以来の表町があるが,72年山陽新幹線が開通し,JRの山陽本線,宇野線,津山線の分岐点にあたり,赤穂線,吉備線,四国と連絡する瀬戸大橋線の起点でもある。そのため岡山駅前地区が表町をしのぐ商業地区になった。なお,国道2号線のほか山陽自動車道,岡山自動車道がある。南部は児島湾干拓地の一部で,岡南(こうなん)工業地域をなし,食品,繊維のほか電気,金属,機械などの工場が進出している。西大寺は会陽(えよう)で有名な観音院の門前町,港町として中世から栄えた商業地である。周辺は豊かな農業地域で,一宮や津高は温室ブドウ(マスカット)の主産地であるが,宅地化が進んでいる。高松は造山古墳,高松城跡など古代以来の史跡に富み,吉備津の吉備津神社,吉備津彦神社,備中高松の最上稲荷がある。
執筆者:

備前国岡山藩の城下町で旭川下流の沖積平野を町域とする。古代には三野,広瀬,出石(いずし)の3郷の名が《和名抄》にみえ,藤原氏の殿下渡領として知られる鹿田(かた)荘も立地した。岡山城址の周辺にある3丘(岡山,石山,天神山)の一つの岡山に地名は由来するといわれる。大永年間(1521-28)金光氏が在城していたが,1570年(元亀1)宇喜多直家は城主金光宗高を謀殺して岡山城地を略取し,73年岡山城を改築して面目を一新し,同年秋に上道郡沼城よりここに移った。岡山の地は吉備平野の中心に位し,旭川と児島湾との水利の便に恵まれるなど,領国都市としての諸条件を具備していた。宇喜多直家・秀家父子2代の間に,近世城下町としての原型が作られた。すなわち旭川の河道付け替えと城郭の大改築,山陽道を南下させて城下を貫通させるなど,中世的な六斎市を廃止して本格的な町づくりをし,家臣団の城下集住を図るとともに,福岡,西大寺,片上などの領内要地より有力な商人を呼び寄せて,50万石大名の城下町として整備した。次いで入封した小早川秀秋は,城郭を補修し外堀をつくったが在任1年半で断絶した。1603年(慶長8)入封した31万5000石の岡山藩主池田氏によって,城下町の建設は逐次完成された。すなわち,城郭を中心に第一郭は大身の侍屋敷,第二郭は中心的な商業区とその四囲にある中身の侍屋敷,郭外に寺社および一般町屋(おもに職人町)が並び,その外側に小身の侍屋敷,組屋敷が散在し,全体的に碁盤目型の市街地を形成していった。56年(明暦2)町会所ができ,町奉行(1~3人),町目付(2人),同心(6人)などの支配下に,町屋62町は上中下の3組に区別され,惣年寄(3人),船年寄(1人)および各町に名主,年寄などの諸役人が置かれた。1707年(宝永4)現在の人口構成をみると,藩家臣団(家族,家来,奉公人を含む)の総計は2万1904人(男1万3497人,女8407人),町方人口は3万0635人(男1万5727人,女1万4908人)で,商人約53%,職人約17%,奉公人約16%,その他で,町方戸数は7735軒(家持2663,借屋5072)を数えた。当地は岡山藩の政治,経済,交通,文化などの中核的な機能をもち,特権的な御用町人や独占的な株仲間の結成などによって,藩権力と結託して領国経済を掌握してきたが,寛政年間(1789-1801)になると在町を中心とした商工業の発展の結果,城下と在町との対抗関係が問題視されるに至った。維新後は岡山県庁の所在地として,城下町当時の機能は基本的には保持されつつ,経済・交通とくに教育・文化の面では著しく近代的な変容をとげていった。
執筆者:

岡山市東端の旧町。旧赤磐(あかいわ)郡所属。人口1万4902(2005)。岡山平野の北東部に位置し,東部を吉井川が南流する。吉井川右岸の万富(まんとみ)から観音寺にかけて北東~南西の方向に断層谷が発達している。中心集落の瀬戸はJR山陽本線の瀬戸駅前に発達した駅前集落で,郡の行政,商業の中心をなす。農業が主産業で,米作やモモ,ブドウの栽培が行われる。食料品の工場があり,隣接する旧岡山市への通勤者も多い。万富付近には東大寺瓦窯跡(史)がある。

岡山市北端部の旧町。旧御津郡所属。人口6524(2005)。吉備高原を流れる旭川中流域に位置する。中心集落の福渡(ふくわたり)は旭川舟運と津山街道(岡山~津山)が合する水陸交通の要衝の地で,近世は宿場町,市場町として発達した。農業が基幹産業で,谷底平野を中心に米麦作,タバコ,ブドウ,マツタケ,抑制野菜の栽培などが行われる。旭川ダムの南端にあたる鶴田(たずた)は長州征伐で長州軍に追われた浜田藩松平氏が,1867年(慶応3)鶴田藩を設立した地。JR津山線,国道53号線が通じる。

岡山市南西端の旧町。旧児島郡所属。人口1万5823(2000)。旧岡山市と倉敷,玉野両市に囲まれた児島湖西岸の町で,町域は児島山塊の北斜面と岡山平野南端に当たる干拓地からなる。かつては山すそを海岸線として児島湾に臨んだ漁村であったが,明治中期以降の藤田組による干拓やそれを引き継いだ第2次大戦後の農林省直営の干拓事業によって県下有数の農業地帯となり,米,ビール麦,施設園芸(促成ナス)の生産を中心に大規模な機械化農業が行われる。JR宇野線,国道30号線が通じ,旧岡山市などの隣接する都市部への通勤者も多い。

岡山市北部の旧町。旧御津郡所属。人口1万0214(2000)。旭川中流域に位置し,旧岡山市の北に隣接する。旭川と宇甘(うかい)/(うかん)川の合流点にある中心集落の金川(かながわ)は,南北朝時代に備前守護代松田氏が築いた玉松城の城下町で,江戸時代には岡山藩の家老日置氏の陣屋が置かれ,また旭川水運の河港,津山街道の宿場町として栄えた。中央部をJR津山線,国道53号線が通る。米作を中心にブドウ,シイタケなどの栽培が行われ,県最大の椎茸合同組合がある。宇甘川沿いではかつて製紙が行われ,紙工(しとり)の字名が残る。日蓮宗不受不施派の本山妙覚寺がある。
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日本歴史地名大系 「岡山」の解説

岡山
おかやま

[現在地名]和歌山市真砂丁一―二丁目

もと吹上ふきあげ浜の汀線に並行して発達した砂丘の一部であったが、和歌山城下建設に伴い周辺部は大きく変貌した。北端は大きく掘下げられて三年さんねん坂の切通しが造られてその北に城郭ができ、南側はてら町・車坂くるまざかなどの横通りが開かれ、東側はおかたにやぶノ町などの縦通りが開かれて武家屋敷が軒を並べた。砂丘の名残である岡山はそのまま残り、旧海岸林もわずかではあるが残り、岡山の根上り松群として県の史跡となっている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡山」の意味・わかりやすい解説

岡山
こうざん / カンシャン

台湾南西部の町。高雄(たかお/カオシュン)の北20キロメートル、台南との中間に位置する。南12キロメートルに重要な海・空軍基地(左営(さえい))があり、南北交通の要所である。付近の大岡山(343メートル)は南台湾の仏教の聖地で、山中に超峰(ちょうほう)寺を中心とする多数の寺院があり、山麓(さんろく)に温泉(冷泉)が湧出(ゆうしゅつ)し、保養地となっている。東5キロメートルに阿公店(あこうてん)ダムがある。周辺の農村ではサトウキビが栽培され、製糖工場もある。また近年、南部工業地帯の発展に伴い、セメントをはじめ大小の工場が林立する。

[劉 進 慶]

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