両宮山古墳(読み)りようぐうざんこふん

日本歴史地名大系 「両宮山古墳」の解説

両宮山古墳
りようぐうざんこふん

[現在地名]山陽和田

県内第三位の大型古墳で、国指定史跡和田わだ付近から南に緩やかに下る傾斜地の平地に築かれており、古墳の西側は一段下がった谷筋となり、前方部を南東に向けた墳丘の周囲は、楯形の広い周湟と外堤が取囲む。幅の広い外堤は前方部の周囲では堤状を呈しているが、周囲の地面高が高まる後円部の周辺では、反対に一段下がって、一種の周庭帯状に整地されている。外堤の土層断面の調査から、本来の前方部前面の堤は、現在の堤の約半分程度の高さを有していたことが知られているが、堤高の変化に伴う周湟の水面高の変化を考慮すれば、墳丘の規模はこれまで考えられていた長軸の長さ一九〇メートル強の数値よりも、やや大きくなるであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「両宮山古墳」の意味・わかりやすい解説

両宮山古墳
りょうぐうざんこふん

岡山県赤磐(あかいわ)市和田にある前方後円墳。国指定史跡。墳丘長192メートル、後円部径105メートル、同高23メートル、前方部幅120メートル、同高23メートルで両側に造り出しがある。幅広い周堀と幅6メートルの外堤をもち、墳域の長さは270メートルもあり、後円部外堤に接して陪塚(ばいづか)である茶臼山(ちゃうすやま)古墳がある。内部は未発掘であるが、前方部幅が後円部径を超えるなどの外形の特徴から5世紀後半のものと推定されている。2003年(平成15)には周濠の発掘調査が行われた。この古墳を最後に吉備(きび)の大首長墳は姿を消す。周辺には小山(こやま)古墳(舟形石棺)、朱千駄(しゅせんだ)古墳(長持(ながもち)形石棺)、もり山古墳(帆立貝(ほたてがい)形100メートル)、廻(まわ)り山古墳(87メートル)などの首長墳があり、また同じ砂川水系に玉井丸山古墳(137メートル)もあって、この時期、この地域が吉備地方の中枢であったことを示す。

[今井 尭]

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国指定史跡ガイド 「両宮山古墳」の解説

りょうぐうざんこふん【両宮山古墳】


岡山県赤磐市穂崎にある古墳。備前地方で最大、岡山県で第3位の大きさの前方後円墳。築造は5世紀後半で、周濠をもち、全長は206m。1927年(昭和2)に国の史跡に指定された。2002年(平成14)~2004年(平成16)の確認調査により、周濠の外側をめぐる新たな周濠が発見され、築造当初は2重の周濠をともなっていたことが明らかになった。2重の周濠までを含めると、古墳の総延長は主軸線上で349mにも及ぶ。墳丘は前方部幅約120m、後円部径約100m、前方部、後円部ともに高さは約20m。未調査のため、内部主体部などは不明である。また、両宮山古墳の北側にある陪塚(ばいちょう)、茶臼山古墳は径約20m、高さ約5m、2段築成の円墳で、保存のため2006年(平成18)に追加指定された。墳丘の平面形は大仙陵(だいせんりょう)古墳(仁徳(にんとく)天皇陵)の5分の2の大きさに設計されており、両宮山古墳に埋葬された人物は大和政権の有力首長と強い結びつきをもっていたと推測される。両宮山古墳の西側に備前国分寺跡がある。JR山陽新幹線ほか岡山駅から宇野バス「岩田下車、徒歩約2分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報