吉備(読み)きび

日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉備」の意味・わかりやすい解説

吉備
きび

和歌山県中北部、有田郡(ありだぐん)にあった旧町名(吉備町(ちょう))。現在は有田川町の西部を占める地域。旧吉備町は、1955年(昭和30)藤並(ふじなみ)、田殿(たどの)、御霊(ごりょう)の3村が合併、町制を施行して成立。2006年(平成18)金屋(かなや)、清水(しみず)2町と合併し、有田川町となる。『和名抄(わみょうしょう)』の吉備郷の地で、旧町名はこれによる。JR紀勢本線、国道42号、480号、阪和自動車道、湯浅御坊道路が通じる。1915年(大正4)開通の有田鉄道は2003年1月廃止。有田川下流の氾濫原(はんらんげん)に位置し、北部と南部は山地である。河口の有田市に続く有田ミカンの特産地で、奥には県立果樹試験場がある。連歌師(れんがし)宗祇(そうぎ)屋敷跡(県史跡)や明恵(みょうえ)紀州遺跡卒塔婆(そとうば)(国史跡)に含まれる神谷(かみたに)遺跡、明恵上人ゆかりの法蔵寺などがある。

[小池洋一]

『『吉備町誌』2冊(1980・吉備町)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉備」の意味・わかりやすい解説

吉備
きび

和歌山県のほぼ中央,有田川町西部の旧町域。有田川中流域に位置する。 1955年藤並村,田殿村,御霊村の3村が合体して町制。 2006年金屋町,清水町と合体して有田川町となる。旧町名は『和名抄』の吉備郷に由来。有田みかんの栽培中心地の一つで,県立果樹園芸試験場がある。花卉や野菜の栽培に加え,米も多産し,養鶏も行なわれる。金屋の明恵上人の生地に近く,明恵紀州遺跡卒都婆 (国の史跡) や,明恵ゆかりの仏涅槃図を有する浄教寺がある。一部は西有田県立自然公園に属する。

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精選版 日本国語大辞典 「吉備」の意味・読み・例文・類語

きび【吉備】

古代山陽道にあった国。天武、持統両天皇のころ備前備中備後の三か国に分かれ、和銅六年(七一三備前国から美作国が分かれて四か国となる。現在の岡山県と広島県東部にあたる。吉備の国。

きび【吉備】

姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「吉備」の意味・読み・例文・類語

きび【吉備】

上代山陽道にあった国。のち、備前びぜん備中びっちゅう備後びんご美作みまさか四国となる。現在の岡山県全域と広島県東部。

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世界大百科事典 第2版 「吉備」の意味・わかりやすい解説

きび【吉備】

岡山県と広島県東部を含む歴史地名で,律令制下の備前,備中,備後,美作を中心とする地域。文献上の初見は記紀の国生み神話吉備児島(子洲)とあるもの。弥生期の土器共通の文化相もみられるが,いつごろなぜ吉備と称したかは不明。弥生後期になると,楯築墳丘墓のような大規模な円丘と左右に方形の張出し部をもつ首長墓も造られ,政治的統一もすすんだ形跡がある。吉備に発生した特殊器台形土器は出雲にも分布するが,奈良県東南部の成立期の前方後円墳にも見られ,これが円筒埴輪に発展する。

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日本歴史地名大系 「吉備」の解説

吉備
きび

厳密にその地域を確定することはできないが、一般に美作・備前・備中・備後の地域とし、現在の岡山県全域と広島県東部地域と考えられている。この地域は瀬戸内海に面して温暖な気候と肥沃な平野に恵まれ、原始・古代から農業はもとより各種の産業の発達した先進地域の一つであった。この地域が吉備国としてのまとまりを示した時期は三期あり、それぞれに歴史的内容を異にしている。

最初の時期は弥生時代後期である。一般に弥生後期は地域的特徴をもった首長墓制の出現する時期で、吉備地域では首長の葬送儀礼に特殊器台形土器・特殊壺形土器が用いられたことが特徴的である。出土遺跡の分布をみると、備中南部二五、備中北部五、備前八、美作七、備後三で、東接する播磨、西接する安芸、北接する因幡・伯耆からはまったく出土しない。このことは首長に対する葬送儀礼の共通という形態をもった首長相互間の地域的結合関係の存在したことを示している。このような結合関係のなかで備中南部が中心的位置を占めたことは遺跡数からも明らかであるが、とくに楯築たてつき遺跡(倉敷市)はその墳丘墓としての規模や構造などから、弥生後期中葉における吉備地域の首長的関係のなかで、中核的役割を担った首長の墳墓とみなしうる。

このような弥生後期の首長墓制は、三世紀末ないし四世紀初めに大和に発生した古墳によって取って代わられ、全国的に古墳時代に入る。吉備地域でも同様であるが、最古期の古墳について次の二つの事柄に注目する必要がある。一つは、弥生後期に生れた吉備地域での葬送儀礼にかかわる特殊器台形土器と特殊壺形土器が、最古期の大和に発生した古墳のなかに、特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪として取入れられていることで、その事例を箸墓はしはか古墳(奈良県桜井市)などにみることができる。特殊器台形埴輪はやがて円筒埴輪に発展し、古墳築造に当たって不可欠の付属物となる。つまり古墳にみられる葬送儀礼には、弥生後期の吉備地域の儀礼が一定の影響を与えているのである。もう一つは、吉備地域の発生期の古墳とみられる浦間茶臼山うらまちやうすやま古墳・中山茶臼山なかやまちやうすやま古墳(岡山市)がそれぞれ全長一三〇メートル・一二〇メートルで、畿内中枢地域以外では最大の規模をもつことである。とくに浦間茶臼山古墳に関しては、箸墓山古墳の設計企画を約二分の一にした形状をもつことが指摘されている。これらのことは大和に発生した首長墓制である古墳の成立に吉備勢力が一定の影響を与え、またその受容というかたちで大和勢力に対して従属的同盟関係に入りながらも、全国的には大和勢力に次ぐ地位を占めていたことを示しているといえる。

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世界大百科事典内の吉備の言及

【山陽道】より

…《延喜式》では播磨,美作,備前,備中,備後,安芸,周防,長門の8国が属するが,このうち美作は713年(和銅6)に備前より分立した。また備前,備中,備後,美作の4国は,古くは吉備と呼ばれ大和朝廷に対し一大勢力圏を形成していた。山陽道の成立時期は不明だが,685年(天武14)に佐味少麻呂が山陽使者として派遣されたことが知られるので,天武朝末年に成立したとみられる。…

【瀬戸内海】より

…【岡市 友利】
〔歴史〕

【古代】
 瀬戸内海は縄文・弥生時代において北九州と畿内を結ぶ政治・文化の交通に重要な役割を果たしていたと思われるが,大和政権が国内を統一し,対外交渉を行っていく4世紀段階になると,さらにその重要性を増した。内海地域の政治勢力の中心の一つは吉備(きび)であり,その勢力は備前,備中,備後,美作(みまさか)や小豆島をはじめとする内海の島々におよび,海上交通の拠点を押さえていた。吉備は大和政権に早くから服属し,積極的に朝鮮経営に参加した。…

※「吉備」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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