西大寺(読み)さいだいじ

精選版 日本国語大辞典 「西大寺」の意味・読み・例文・類語

さいだいじ【西大寺】

[1]
[一] 岡山市東部の地名。吉井川河口の港町、市場町として栄え、鎌倉末期からは真言宗西大寺の門前町として発達。ブドウ、ナシを産する。昭和二八年(一九五三)市制。同四四年岡山市に編入。
[二] 岡山市西大寺中にある真言宗の寺。山号は金陵山。天平勝宝三年(七五一)藤原皆足媛(みなたるひめ)の創建と伝えられる。岡山城主宇喜多氏の帰依(きえ)を受けた。現在の本堂は文久三年(一八六三)造営のもの。二月に行なわれる会陽(えよう)は裸祭として有名。
[三] 奈良市西大寺芝町にある真言律宗の総本山。南都七大寺の一つ。天平神護元年(七六五)称徳(孝謙)天皇の勅願により常騰(じょうとう)を開山に創建された。奈良時代には東大寺とならぶ大寺で隆盛をきわめたが数度の火災で衰亡。鎌倉時代に叡尊(えいそん)が再興。現在の建物は江戸時代のもの。十二天像、金銅透彫舎利塔、金光明最勝王経など多くの国宝を所蔵する。高野寺(たかのでら)。四王院。
[2] 〘名〙 奈良の西大寺で製して売った気付け薬。西大寺薬または豊心丹(ほうしんたん)、沈麝丹(ちんじゃたん)とも称した。〔日葡辞書(1603‐04)〕

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デジタル大辞泉 「西大寺」の意味・読み・例文・類語

さいだい‐じ【西大寺】

岡山市東区西大寺にある高野山真言宗の寺。山号は金陵山。開創は天平勝宝3年(751)、開基は藤原泰明の娘で皆足みなたる姫、開山は安隆。2月第3土曜日に行われる会陽えよう(裸祭)は奇祭として有名。観音院。
奈良市西大寺芝町にある真言律宗の総本山。南都七大寺の一。山号は秋篠山。天平神護元年(765)称徳天皇の勅願により創建。開山は常騰じょうとう平安時代、災害により衰退したが、鎌倉時代に叡尊えいぞんが再興、戒律の根本道場となった。十二天画像・金光明最勝王経などの国宝があるほか、多数の文書を所蔵。高野寺たかのでら。四王院。

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日本歴史地名大系 「西大寺」の解説

西大寺
さいだいじ

[現在地名]奈良市西大寺芝町一丁目

秋篠あきしの川西方に所在する真言律宗総本山。本尊釈迦如来。南都七大寺および「延喜式」玄蕃寮にみえる十五大寺の一。平城宮の東に東大寺、西に西大寺があった。

〈大和・紀伊寺院神社大事典〉

〔草創・沿革〕

宝亀一一年(七八〇)の西大寺流記帳に「夫西大寺者 平城宮御宇 宝字称徳孝謙皇帝、去天平宝字八年九月十一日誓願将敬造七尺金銅四天王像、兼建彼寺矣」とある。天平宝字八年(七六四)九月一一日は恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱が発覚した日で、称徳(孝謙)天皇はこれを機に鎮護国家を祈願し、四天王像造立の発願があったものと考えられる。翌天平神護元年(七六五)四天王像が完成し、伽藍が開かれた。西大寺流記帳は「居地参拾壱町、在右京一条三四坊、東限佐貴路除東北角喪儀寮南限一条南路、西限京極路除山陵八町北限京極路」と寺地を記している。「続日本紀」天平神護二年一二月一二日条に「幸西大寺」とあり、称徳天皇が行幸。この頃は四王堂は完成していたが、伽藍全体の造営は完了していなかったので、神護景雲元年(七六七)二月二八日には佐伯今毛人が造西大寺長官、大伴伯麻呂が次官に任ぜられている(続日本紀)。称徳天皇はその後も西大寺のほう院やしま院に行幸し、同二年には高市麻呂・橘部越麻呂を造西大寺大判官に任じた(同書)

金堂が完工したのは神護景雲三年頃と考えられる。この年天皇は西大寺に行幸し、佐伯今毛人を従四位下から従四位上に進め、他の関係者にもそれぞれ位を与えた。西大寺流記帳に金堂こんどう院は薬師金堂一宇と弥勒金堂一基と記されているが、まず薬師金堂、続いて弥勒金堂が完成したと考えられる。薬師金堂には居高八尺蓮華座高七尺五寸の薬師像を中心に脇侍菩薩二体が侍立し、別に十一面観音菩薩ほか一〇体余が祀られていた。弥勒金堂ができたのは宝亀二年と考えられ、同年一〇月二七日には西大寺兜率天堂の造営の功により、正六位上英保代作に外従五位下が授けられた(続日本紀)。弥勒金堂は二重屋根で、内部には居高八尺・座高一丈の弥勒菩薩像をはじめ脇侍像二体・菩薩像一〇体・水精弥勒菩薩像一体・音声菩薩像二二体など多くの仏像が安置され、講堂の用にも使われていたと考えられる。薬師金堂の前方には高さ一五丈の五重塔が東西に二基あった。その他十一面堂院・小塔院・政所院・正倉院・西南角院・東南角院など、建物の数は百十数宇に及んでいる(西大寺流記帳)

宝亀三年四月二九日に西塔が震動し、一一月一日に造西大寺の員外次官に栗田公足が任ぜられ、修理次官は軽間鳥麻呂に決定した。

西大寺
さいだいじ

[現在地名]岡山市西大寺中三丁目

高野山真言宗別格本山、山号は金陵山、本尊は千手観音。三千一五〇坪の境内に仁王門・石門・本堂・三重塔・阿弥陀堂・大師堂・牛王所宮・稲荷堂・忠霊堂(薬師堂)・経蔵・客殿・庫裏などの伽藍を有する。備前地方有数の古刹。寺伝によると、天平勝宝三年(七五一)周防国玖珂くが(現山口県玖珂郡玖珂町)庄司の妻藤原皆足が、大和国の長谷観音の化身である仏師に千手観音を彫らせ、彩色のため都へ運ぶ途中、金岡かなおか浦に停泊したところ船が動かなくなった。そのため同所に小堂を建て観音を安置したのが草創という。その後宝亀八年(七七七)紀伊国の人安隆が長谷観音の夢告によって浄財を募り、現寺地に竜神から授かった犀の角を埋めて伽藍を建立、金陵山犀戴さいだい寺と号したという(「永正本西大寺縁起」西大寺文書、以下断りのない限り同文書)。一説では報恩大師が備前四八ヵ寺の一つとして天平勝宝三年開山したともいわれる(備陽国誌)。当初犀戴寺と号していた当寺を後鳥羽上皇が御製の筆をもって西大寺と改めたとか(永享一二年「西大寺勧進帳」)、足利尊氏が西国より上洛を図ったとき当寺に入り改号した(明応五年「備前国西大寺化縁疏并序」)という伝承があるが明らかでない。

延慶四年(一三一一)備後とも(現広島県福山市)の平為重らが施入した大般若経第五八〇巻(西大寺観音院蔵)の奥書に「備前西大寺大般若一部」とあるのが現寺号の初見である。当寺の所在した金岡東庄はその前年、奈良興福寺菩提院慈信から奈良西大寺の末寺額安がくあん(現奈良県大和郡山市)へ寄進されており(延慶三年一二月二一日「慈信寄進状」額安寺文書)、額安寺領となった同庄の一寺院が奈良西大寺の政治的・宗教的影響によって、同寺の末寺となり備前西大寺と号するようになったのではないかともいわれている。

吉井川の河口に位置し、水陸交通の要衝の地にあった当寺は、鎌倉時代末期には金堂(三間四面)常行堂(三間四面)・僧坊(七間四面)・仁王堂・三層塔・鐘楼・経蔵などの伽藍、寺僧数十人を擁するほどの大寺であった(前掲化縁疏并序)。しかし、正安元年(一二九九)一月二一日夜、大地震動おびただしく、翌二二日に「天火降下」り伽藍を全焼、本尊も頭部と手を残して焼失した。このため同三年一月から本尊を修理し、伽藍の再建が進められた(前掲永正本縁起)

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改訂新版 世界大百科事典 「西大寺」の意味・わかりやすい解説

西大寺 (さいだいじ)

奈良市西大寺芝町にある真言律宗の本山。高野寺(たかのでら)ともいう。南都七大寺・十五大寺の一つ。本尊釈迦如来。平城宮の西方に位置し,東大寺に対して西大寺と称せられた。当寺の創建は764年(天平宝字8)9月に起こった恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の鎮定を祈願して,孝謙上皇が銅造7尺の四天王像の造立を発願したのに始まり,765年(天平神護1)に四天王像は完成し,四王院(堂)に安置され,伽藍の基が開かれた。767年(神護景雲1)2月から768年2月に及んで佐伯今毛人,大伴伯麻呂,高市麻呂などが造西大寺長官,次官,大判官などに任命され,以後薬師金堂,弥勒金堂をはじめ東西両塔や十一面堂などが建立された。寺地は平城右京一条三,四坊の31町に及び,東大寺に次ぐ広大な面積を占め,伽藍地は1134年(長承3)の《大和国南寺敷地図帳案》によると,右京一条三坊五坪から十六坪の東西3町,南北4町の12町を当寺敷地とし,伽藍中心線は九坪と十二坪の中心線に求められる。

 創建当初の伽藍は,講堂を欠き薬師,弥勒の2金堂を南北に並立し,東西に四王院と十一面堂,東西に五重の両塔を配し,安置する諸仏像とともに豪華華麗を極め,まさに奈良時代最後を飾る官大寺にふさわしいものであった。772年(宝亀3)4月,776年7月に西塔に落雷,桓武朝の緊縮財政下にあっても,798年(延暦17)12月藤原緒嗣を造西大寺長官に,804年5月には坂上田村麻呂を同次官に任命,造営の工事はなお引き続いて行われていた。以後846年(承和13)12月,927年(延長5)10月,928年7月など再三にわたり堂塔が罹災焼亡し,平安時代末期には〈寺中諸堂等皆以て顚倒して実無く,只楚石のみ有り。僅かに存するところは食堂・四王堂のみ〉(《七大寺巡礼私記》)といわれた。鎌倉時代にはいり,1235年(嘉禎1)5月に入寺した叡尊により,戒律復興と当寺の再興が行われた。叡尊は戒律の復興を果たさんがために諸種の版経を開版,いわゆる西大寺版を印行し,子弟教育に当たった。64年(文永1)9月には光明真言会を開き,広く庶民の救済を行い,今日に至るまで当寺の年中行事の一つとして伝えられている。鎌倉幕府の執権などの帰依や宮廷,公卿の崇敬をうけて叡尊在世中には寺領も増加し,98年(永仁6)4月には関東御祈願寺となり,真言律宗の基を開いた。以後1307年(徳治2)に弥勒金堂が焼亡,南北朝の動乱を経て室町時代に多くの堂舎が焼亡し,江戸時代に至って護摩堂,四王堂(観音堂),本堂が建立された。現在境内は国の史跡に指定されている。なお毎年4月15~16日に行われる茶会,大茶盛式で名高い。
執筆者:

創建時の中心伽藍は,《西大寺資財流記帳》(780)によれば,金堂院のみで講堂,鐘楼,経蔵,三面僧房,食堂がなく,これらの機能を四王院,十一面堂院,食堂院に分散させた特異な形態をもつ。旧金堂院一帯は宅地化され,現寺域は旧塔院,四王院にあたり,創建時のものとして東塔基壇,西塔跡,四王堂土壇を残す。建物では南門(室町初期)のほか江戸時代再建になる本堂,四王堂,愛染堂などがある。寺宝には,天平時代造像唯一の遺品である四王堂安置の四天王足下の邪鬼,東塔四方仏とみられる釈迦,阿弥陀,宝生,阿閦(あしゆく)如来(平安初期),また叡尊80歳の寿像興正菩薩像(善春作,1280),叡尊発願の清凉寺釈迦模造の代表作釈迦如来像(善慶作,1249)など善派の作が残る。そのほか由緒明らかな天平経の代表的遺品《金光明最勝王経》(762),《大毗盧遮那成仏神変加持経》(766),仏教絵画遺品中もっとも異彩に富む《十二天像》(9世紀後半),鎌倉時代の金属工芸品を代表する金銅宝塔(1270),鉄宝塔(1283),透彫舎利塔などがある。
執筆者:

西大寺 (さいだいじ)

備前国(岡山県)上道郡の南東部,吉井川右岸に発達した河港・門前町で,現在は岡山市東区西大寺。名刹金陵山西大寺(真言宗)の門前町として,早く中世後期には市座などで栄えた。

金陵山西大寺の門前市。金岡東荘に属し,鎌倉末期,実検に際して作成されたと思われる西大寺観音院境内古図の裏書に,市公事が国方地頭方の支配下にあり,酒屋,魚座,餅屋,莚座,鋳物座その他の市座の公事銭の額を定めた文言がみえる。この史料は1926年に平泉澄が紹介して,日本の市座の初見史料として有名になった。《西大寺文書》にも1492年(明応1)以降の市場屋敷の灯油免,雑役免に関する史料がある。
執筆者:

江戸初頭に岡山藩公定の13の在町の一つとなり,高瀬舟と回船との積替え港の機能を発揮して町屋の発達をみた。西大寺の問屋は岡山藩から,作州天領の米麦その他木炭,薪などを積み降ろす特権を許されており,全盛期は江戸時代から1887年ころまでで,最盛期には高瀬舟が200隻を越えたといわれる。今に市場町,川崎町,渡場町,新堀町などの町名が残存して,往時がしのばれる。91年山陽鉄道の開通により,作州の物資は阪神へ鉄道輸送されるに至り,河港機能は衰微した。96年町制施行,当時戸数752戸,人口3185人で上道郡役所も設置された。1953年市制施行,69年岡山市に編入。
執筆者:

西大寺 (さいだいじ)

岡山市東区西大寺にある高野山真言宗の寺。正式の寺名は金陵山西大寺観音院。寺伝によると,古く奈良時代,周防の人藤原皆足媛の開基するところという。中世に入って,観音霊場として名高くなり,また寺地が備前第一の大河である吉井川の河口に位置して交通の要地でもあったので,門前町が発達して座商人が各地から集まり,当寺は備前南部における信仰,交易,商業の中心地として栄えた。しかし,戦国期に伽藍は2回炎上し,現在の本堂,三重塔,庫裏(くり),方丈,仁王門,牛王殿(ごおうでん),大師堂などの諸堂はいずれも近世の建物である。なお,天下の奇祭で有名な当寺の〈会陽(えよう)〉は,修正会が結願する旧正月14日の夜に行われる裸祭(はだかまつり)である。この夜,境内境外は吉井川で沐浴した数千の裸群と,万余の見物人であふれ,深夜に至って,院主が裸群に投じるシンギ(神木,牛王,宝木)をめぐって勇壮な争奪戦がくりひろげられる。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「西大寺」の意味・わかりやすい解説

西大寺【さいだいじ】

奈良市西大寺芝町にある真言律宗の総本山。南都七大寺の一つ。本尊釈迦如来。765年称徳天皇の勅願により創建。伽藍(がらん)は唐僧思託の建立した八角七重塔など,唐の影響が強く,当時としては新奇な構造・意匠をもつ寺院であった。鑑真とともに帰国した留学僧普照が住し,平安後期に衰微したが,鎌倉時代に叡尊(えいぞん)によって律宗の復興がなされるに及び隆盛をみた。寺宝に十二天像,金光明最勝王経10巻をはじめ,木彫の清凉寺式釈迦如来立像,乾漆の阿弥陀・釈迦・宝生・阿【しゅく】(あしゅく)如来座像など,重要な美術品が多数ある。
→関連項目安東蓮聖宇治橋舎利塔善円古津法相宗保良宮文観律宗

西大寺【さいだいじ】

岡山県岡山市の一地区。1953年市制の市であったが1969年岡山市に編入。吉井川の河口にあり赤穂(あこう)線が通じる市街地は,鎌倉末期建立の西大寺の門前町,市場町として発達した。国道2号線沿いに中小工場が立地,南部は田園地帯,北部は山麓果樹地帯で,市街北郊の雄神(おがみ)地区はブドウ,ナシを多産。西大寺で毎年2月に行われる会陽(えよう)(裸祭)は有名。安仁神社がある。
→関連項目東[区]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「西大寺」の解説

西大寺
さいだいじ

1高野(たかの)寺とも。奈良市西大寺芝町にある真言律宗の総本山。南都七大寺の一つ。勝宝山と号す。764年(天平宝字8)恵美押勝(えみのおしかつ)の乱に孝謙上皇が戦勝を祈願して四天王像の造立を発願。乱後,四王院(堂)が建立され,やがて平城右京一条三・四坊に31町を占める東大寺に匹敵する規模に拡大されて,西大寺と名づけられた。平安時代になると火災などでしだいに衰退,興福寺支配下におかれた。叡尊(えいぞん)が1235年(嘉禎元)に入寺して伽藍を再建し,戒律の道場とした。叡尊は光明真言会(こうみょうしんごんえ)を始めるなど,当寺を拠点に南都仏教の復興を図った。1502年(文亀2)兵火で諸堂を焼失,江戸時代に再建された。国宝の「金光明最勝王経」「十二天像」や重文の銅造四天王像・木造叡尊像など文化財を多数有する。境内は国史跡。

2岡山市東区西大寺にある高野山真言宗の寺。金陵山と号す。寺伝では,奈良時代に周防国の玖珂郷(くがごう)から訪れた藤原皆足媛(みなたるひめ)が千手観音を小堂に安置したのが始まりという。当寺は奈良西大寺末寺の額安寺の荘園金岡(かなおか)東荘のなかにあり,寺号は奈良西大寺にちなむと考えられる。鎌倉末期には金堂・常行堂・僧房以下の伽藍をもったが,たびたびの火災で炎上。戦国期には宇喜多(うきた)氏の援助で再建された。現在の伽藍は江戸末期の再建。旧正月14日夜(現在は2月第3土曜)に行われる修正会(しゅしょうえ)結願の行事会陽(えよう)は,西大寺の裸祭として有名である。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西大寺」の意味・わかりやすい解説

西大寺
さいだいじ

岡山県南部,岡山市南東部の旧市域。1953年西大寺町と幸島村,太伯村など 9村が合体して西大寺市となり,1969年岡山市に編入。鎌倉時代末期に建立された西大寺観音院の門前町として発展。以来市場町,港町も兼ねて繁栄した。江戸時代には海岸部の干拓が進み,大規模な新田ができた。山陽本線の敷設に反対して鉄道通過地にならず,一時停滞したが,1962年国鉄赤穂線が開通して活気を取り戻し,1960年代以降住宅地化が進む。毎年 2月の第3土躍日の深夜,西大寺境内で行なわれる会陽(裸祭り)の行事(→西大寺会陽)は有名。

西大寺
さいだいじ

奈良市西大寺町にある真言律宗の総本山。南都七大寺の一つ。高野寺 (たかのでら) あるいは四王院ともいう。天平神護1 (765) 年に称徳天皇の勅願により創立,常騰が開基した。奈良時代には東大寺と並ぶ大寺であったが,平安時代にはたびたび失火にあい衰退。鎌倉時代に一時復興したが,再び衰退。現在の堂舎は江戸時代に再興されたもの。『十二天像』など多くの国宝を蔵する。

西大寺
さいだいじ

奈良市西部の一地区。平城京の右京一条三坊・四坊の地で,地名は奈良時代,東大寺に対してこの地に建立された西大寺 (境内は史跡) に由来。かつては農村であったが現在は近畿日本鉄道奈良線,京都線,橿原線が交わる交通の要地で,商業・住宅地としての発展が著しい。

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旺文社日本史事典 三訂版 「西大寺」の解説

西大寺
さいだいじ

奈良市西大寺町にある真言律宗の総本山。南都七大寺の一つ
765年称徳天皇の勅願により建立。東大寺と並ぶ鎮護国家の寺として栄えたが,平安時代にはたびたびの火災で衰退した。13世紀初め叡尊 (えいそん) が再興して律宗の道場となり,社会事業も行ったが,16世紀初め兵火にあい再び衰えた。

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デジタル大辞泉プラス 「西大寺」の解説

西大寺〔岡山県〕

岡山県岡山市東区にある寺院。高野山真言宗別格本山。山号は金陵山。観音院ともいう。751年開創と伝わる。本尊は千手観世音菩薩。奈良時代から伝わる奇祭、会陽(えよう)(通称「裸祭り」)は国の重要無形民俗文化財に指定。

西大寺〔奈良県〕

奈良県奈良市にある寺院。真言律宗総本山。765年、称徳天皇の勅願により創建。南都七大寺のひとつ。境内は国指定史跡。本堂、本尊の釈迦如来立像、愛染堂の愛染明王坐像(いずれも重文)など、多数の文化財を保有。

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事典・日本の観光資源 「西大寺」の解説

西大寺

(奈良県奈良市)
南都七大寺」指定の観光名所。

西大寺

(奈良県奈良市)
日本三釈迦」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の西大寺の言及

【西隆寺】より

…771年(宝亀2)諸大寺とともに寺印を頒布されているので,このころ造営がほぼ完成したと思われる。寺地は西大寺の近傍,右京一条二坊に4町の広さを占めた。880年(元慶4)に西大寺の管下に入った。…

【真言律宗】より

…奈良西大寺を総本山とする宗派。宗祖は弘法大師空海,派祖は興正菩薩叡尊(えいそん)。…

【南都七大寺】より

…677年(天武6)の大官大寺に始まる大寺制は,四大寺,五大寺と発展し,756年(天平勝宝8)5月に七大寺の名が初見する。8世紀後半に西大寺が創建されるに及んで,東大寺,大安寺,興福寺,元興(がんごう)寺,薬師寺,法隆寺,西大寺を七大寺と称するにいたった。大寺の造営にはそれぞれ官営の造寺司を設けてことに当たり,経営維持のため莫大な封戸・荘地が施入され,別当や三綱が寺・寺僧の運営指導に当たった。…

【密教美術】より

…経典の雑密化の傾向は仏像にも反映し,奈良時代には四天王,梵天,帝釈(たいしやく)天の6尊構成の像が造られ,十一面観音,千手観音,不空羂索(ふくうけんじやく)観音など多面多臂の変化観音像が出現するとともに,仏教に導入された異教神である吉祥天,弁財天,伎芸天,門神としての金剛力士や執金剛神像なども造立された。 奈良末期建立の西大寺は罹災により創建時の像は失われているが,〈西大寺資財帳〉によって,馬頭(ばとう)観音,孔雀明王,那羅延(ならえん)天,火頭金剛,堅牢地神など,のちの純密に属する像がすでに造像されており,平安初期の空海らの純密の請来も,けっして唐突なものではなかったことがわかる。
[純密の時代]
 まず最澄,空海をめぐる美術をとりあげる。…

※「西大寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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