(読み)マチ

デジタル大辞泉 「町」の意味・読み・例文・類語

まち【町/街】

住宅や商店が多く人口が密集している所。都会。「―に住む」
(「街」とも書く)商店の並ぶにぎやかな場所。市街。「―をぶらつく」
地方公共団体の一。市と村の中間に位する。→ちょう(町)
市や区を構成する小区画。
田の区画。区画されてある田。
人家が密集し、道路で分かれた一区域。
「中宮の御ふるき宮のほとりを、四―を占めて造らせ給ふ」〈・少女〉
物を商う店の集まった場所。市場。
かたびらを脱ぎて童子に与へて―に魚を買ひに遣りつ」〈今昔・一二・三五〉
宮殿または邸宅内の一区画。
「姫君のおはします―は…さまことに造りみがき」〈夜の寝覚・五〉
[補説]書名別項。→
[下接語]市場町稲荷いなり色町裏町片側町片町かみの町傾城けいせい下町しもの町宿場町城下町竹屋町谷町寺町唐人町鳥居前とりいまえとりの町南京ナンキン二の町日本人町日本町花街・袋町・港町門前町屋形町屋敷町横町
[類語]タウン市井

ちょう【町】[漢字項目]

[音]チョウ(チャウ)(呉) [訓]まち
学習漢字]1年
〈チョウ〉
市街の一区画。また、市街地。まち。「町内町人
地方自治体の一。「町制町村町長町立市町村
〈まち〉「町役場色町裏町下町門前町

ちょう〔チヤウ〕【町】

地方公共団体の一。市と村の中間に位する。まち。「町」を「ちょう」と読む府県と、「まち」と読む都県とがある。
距離の単位。1町は60間で、約109メートル。丁。
土地の面積の単位。1町は10段で、3000をいい、約99.18アール。
江戸吉原のこと。また転じて、遊郭。おちょう。
「そんなことぁ―で言ひなせい」〈洒・糠味噌汁

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改訂新版 世界大百科事典 「町」の意味・わかりやすい解説

町 (まち)

以下,日本の〈まち〉について記述するが,〈都市〉などの項も参照されたい。

古代都城の〈まち〉は条坊制によって大路で区画された1坊をさらに小路で16分の1に分けた区画をさす。このような町の存在が確認できるのは平城京である。一辺120mの正方形をした町=坪があったことが発掘調査の結果からも確認されており,これは平安京と同じ規模である。貴族の宅地はこの坪を複数あわせもつものがあったが,一般の庶民はこの町をさらに細分化して16分の1ないし32分の1に分けて使用していたことが知られている。さらに平城京より前の藤原京では,1坊の大きさが平城京のほぼ4分の1にあたっており,その中は,四つの町からなりたっていたものと推定されており,発掘調査の結果そのような単位の存在が坪と坪との間の小路の検出によって確認されている。もっとも,この坪の区画は藤原宮造営以前にも存在していたらしく,このような坪が藤原京を始源にするものなのか,さらに古く倭京と呼ばれるころから存在したものかについては,今のところ確かめられていない。
執筆者:

10世紀前期に編集された《和名抄》に〈町,和名末知(まち),田区也〉と注釈されているように,元来〈まち〉は畔道によって囲まれた田地の区画とされている。平安京の場合,一つの坊が16の〈まち〉からなり,〈まち〉は1から16までの序数が付けられていた。〈まち〉は方40丈で,四行八門の32に地割され,最小の単位は南北5丈,東西10丈で戸主(へぬし)と呼ばれる宅地の区画である。32の戸主からなる方40丈の区画〈まち〉が,平安京都城制の基礎となっている。しかし,平安時代末期の漢和辞書《類聚名義抄》には〈店家俗に町と云う〉とあり,ここでは〈まち〉の意味が変化している。《和名抄》でも〈店,坐売舎也〉と記され,その注として〈今俗に町と云う,この類なり〉とあるから,10世紀前期に町は方40丈の区画から商店街を指す用語に変化しているとしてよい。この変化は,方40丈の区画としての〈まち〉のみを支配する古代政治都市から,街路を生活の重要な手段とする中世経済都市への変容を示している。平安京都城制により規定されている町は,東西の2方向にだけ開口することを認められていたが,南北の2方向にも戸口を開放するようになる。これは二面町(にめんまち)から四面町(しめんまち)への移行である。平安時代末期の平安京を描いている《拾芥抄(しゆうがいしよう)》には,大内裏周辺の官人の集住地として大舎人町,御倉町(みくらまち),織部町,修理職町,縫殿町,木工町などが記されている。これらの町は律令国家が抱える工人の住居や官工房や倉庫の所在する区画であった。大舎人町,織部町は応仁の乱後,西陣の機業地域の中心になる区画である。

 これらの区画としての〈まち〉は,平安時代末期になると四方の街路に口を開き,四面のそれぞれが一つの町を意識するようになり,それがさらに分化,独立したものと意識されるようになると,四面町から四丁町(しちようまち)へと展開する。四丁町は形態的には四面町と異なるところはないが,四面町は四つの面をもつ一つの区画〈まち〉とされるのに対し,四丁町は四つの面が一つの〈まち〉から分立するものとみなされている。律令制的都城制の〈まち〉が解体し,一面が分立し,それが〈ちょう〉と認識され定着するのは室町時代である。〈まち〉から分立した一面が街路を挟む向い側の一面と合わさって両側町(りようがわちよう)としての一つの〈ちょう〉を形成する。鎌倉時代末期から成立する一面単位の片側町は,対する面と合わさって,応仁の乱後,廃墟の中から誕生する京都町民の自治組織となる。この両側町こそ,現代京都の都市形成の単位である〈ちょう〉である。両側町はたとえば現在京都市中京区柳馬場通三条下ル槌屋町と表示される槌屋〈ちょう〉に該当する。京都の両側町はすべて〈ちょう〉で〈まち〉ではない。京都の場合,旧市街で〈まち〉は街路名の室町通,新町通などに限られ,生活共同体である町は〈ちょう〉である。京都において,〈まち〉から〈ちょう〉への移行は,古代政治都市から中世経済都市への移行であった。
(ちょう)
執筆者:

近世初頭の兵農分離によって武士層は城下に集められ,武家町がつくられた。領主の館に近いところに重臣層の屋敷が置かれ,いちばん遠くに足軽などの長屋が置かれていた。武家町だからといって必ずしも郭内に入っているわけではなく,足軽町などは郭外に置かれることが多かった。また足軽などの居住する町には町名もついたが,重臣層の屋敷地などは町名をつけず,道路に小路名がついているだけの場合がある。

 武家町と濠や堤をはさんで町人町がつくられた。身分のちがいによって武家町と町人町が截然と区別されていた。この町人町には,現在も所によっては残っているが,職人町では大工町,塗師町,桶町,鍛冶町,紺屋町,畳町など,商人町では呉服町,瀬戸物町,材木町など,そして交通関係では伝馬町とか旅籠屋町などの町名がつけられていた。こうした町名をもつ町の場合,同業者が集住していたというだけでなく,近世初頭に城下町ができたとき,領主側の必要によってつくられたのである。領主側は町人町に対しては農村とちがって年貢をとることなく,地子免除にしている例が多く,その代りに町々は人足役や伝馬役,そして領主御用の負担を課される。城下町がつくられたときに,職人や商人への統制を強め,御用の負担をさせるために計画的に町人町をつくったのである。

 近世初頭にできた町人町には,役負担の代償として各種の営業特権が与えられていた。奥羽地方に多い町座とか町株などがそれである。江戸でみると,日本橋の本町(ほんちよう)一~四丁目は呉服物御用とか値段書上げなどをつとめる代りに,この町々以外に呉服屋の存在が実質的に認められていなかった。三井越後屋が江戸ではじめて呉服屋を開いたのは本町一丁目である。三井が本町での呉服屋商売を急激に発展させていくと,同業者の営業妨害をうけ,そこで両替屋の集まっていた駿河町に店を移し,そのとき三井は両替店も開設することになったのである。また,たとえば現在の秋田市である久保田城下の大町三丁目の場合,町内の者が家屋敷を売買するときの規制や町銀という無尽による融通金の制度などがあり,明らかに町内居住者に対する町の規制力には厳しいものがあったといえよう。

 近世初頭にできた町の性格は,中・後期にかなり変わってくる。それは町内部で,地主・家持(いえもち)の層と店借(たながり)・借家人の層との階層分化が進んでくるためである。近世の都市住民のなかでの店借層の比率は,奥羽・北陸では20~30%であるが,瀬戸内地域では50~60%で,地域により異なっている。また一つの都市のなかでもちがいがある。江戸の中心部の町は数少ない地主が広大な町屋敷地を占有し,そこに家守(やもり)という管理人を置いて店借を支配しているという状況がみられ,一方,周辺の場末町ではわずかな土地しかもたない地主が多く,みずから家守を兼ねて店借を支配していた。店借は周辺の場末町に多く,60~70%に達するところがあった。18世紀以降,町の役負担は形骸化していくが,行政の末端部門としての町の性格は色濃く残っており,町は新たに問題となってきた店借層の生活維持などに対応するようになった。

 家持と店借の区別は,住居のちがいでいえば町家と長屋(家)である。京都の町で,町家の人々相互のかかわり方をみると,(1)おたがいに隣家に立ち入らない,(2)隣人間で物の貸し借りをしない,(3)井戸端会議をしない,(4)近所づきあいは冷たいが,町内というムラづきあいは盛んである,(5)こうした町家社会では義理が守られているかどうかが問題になる,といった点である。家持は義理づきあいとしての町内のさまざまな行事,祇園会などの祭礼を執行し,町家(ちよういえ)という集会所を所有・管理していた。こうした表通りに面した家持たちの町家が維持していた町にくらべて,路地に入った長家の借家人相互が取り結んだ関係は,落語に出てくる熊さん,八つぁんのように,生活は貧しいが人情味あふれるものであった。この借家人たちが町の問題として登場してくるのは,何か事件をおこし,治安を乱したときに限られるといってよい。

 しかし中・後期の場合,町の仕事を担ったのは,近世初頭や京都におけるような家持ではなく,江戸や大坂の場合のようにその代理人である家守たちであった。都市行政は一般に町奉行-町年寄-町名主というルートで行われるが,中・後期には家守のなかから選ばれた月行事(がちぎようじ)などが諸触書の順達や町内預り者の責任を負い,また人別改めや諸出入の処理に当たり,家屋敷の売買手続を行うなど,町内事務の処理をとりしきり,他町の月行事などとの連絡もしたのである。

 住民に店借層が多くなってきたところで,町の仕事は店借層を支配する家守が掌握するようになったことに象徴されるように,これまでの町の性格は変わってこざるをえなかった。町のいろいろな仕事の経費は地主,家持が負担したが,借家をもっている場合は毎月の店賃(たなちん)収入から支出された。問題は,店借が支払った店賃などで賄われていた町の経費であるにもかかわらず,その店借たちに還元されるものがあまりに少なかったことである。そうした矛盾の解決策の一つとして寛政年間(1789-1801)につくられた江戸の町会所をみていこう。町会所は店借の生活困窮者への対策として設置されたものであるが,この費用も実は恩恵をうける生活困窮者である店借たちの店賃に上乗せされた分で賄われた。寛政から慶応年間(1865-68)まで,米価高騰,風邪,はしか等の流行などで,江戸の全住民の60~70%が生活困窮の状態に陥ったとき,大量の金穀が放出され,かろうじて生活を維持することができたほどである。店借たちによる生活維持の要求は,享保期(1716-36),天明期(1781-89)の打毀(うちこわし)などでは町の規模での行動としてみられた。慶応期にも町単位で困窮人が結集し,施行(せぎよう)を求めてデモを行ったりしたが,それによって町の性格を変えていくほどにはならなかった。明治維新期には家の家持・地借たちによって,地域の経済復興や教育,社会問題に独自に取り組む姿勢がみられるようになっていった。しかし明治維新以後,京都や大阪では,学校をつくったり,大区会所を運営したりする動きもみられたが,全国的には政府のための地方行政機関として改変させられていき,町は住民の要求をもとにした自治体とはなっていかなかった。
町人 →町割
執筆者:

町 (ちょう)

町の原義は〈田のあぜ道〉であるが,距離の単位(1町=60間),地積の単位(1町=10段)として用いられた。また市街地をさす呼称でもあり,今日では行政区画の一つとなっている(この〈町〉については〈市町村制〉の項参照)。

 市街地としての町(ちよう)は,日本の古代都市から中世都市への移行過程で姿をあらわし,中世都市民の生活共同体の基盤である地域空間と,その地域空間における都市民の結合を指す用語である。平安京では行政単位として方40丈の地域を町(まち)と称したが,平安京都城制の衰退は町(まち)を変質させ,12世紀ごろを境として,道路に面する面(おもて),頰(つら)を中心とする四丁町(しちようまち)へと移行する。また道路に直接面しない町(まち)の内部に残された地域にも通じる小路,辻子(ずし)も成立してくる。面,頰が街路をはさむ向い側の面,頰と合わさって,ひとつの両側町(りようがわちよう)を形成し,この両側町が都市民の生活単位となって町(ちよう)と呼ばれた。これは南北朝の内乱以降に京都に出現し,応仁の乱の廃墟の中からあまねく成立する。この町(ちよう)共同体は中世自治都市の堺,平野,堅田などにも成立し,その構成員は一般の都市民という意味の町衆(まちしゆう)と異なり,町衆(ちようしゆう)と呼ばれた。
(まち)
執筆者:

町 (ちょう)

尺貫法における長さまたは面積の単位。1891年制定の度量衡法による定義は次のとおりである。(1)長さの単位。60間に等しく,約109.1mであり,倍量単位は36町の里である。(2)面積の単位。10段(たん),すなわち3000歩(ぶ)に等しく,約9917m2であり,1haに近い。
執筆者:

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日本歴史地名大系 「町」の解説


なだまち

[現在地名]米子市灘町一―三丁目・花園町はなぞのちようはたさき一―四丁目・同六―九丁目・義方町ぎほうちよう三旗町みはたちよう・旗ヶ崎

たて町の西に続く町人町で、加茂かも(外堀)の河口北岸に位置する。南はきよう橋を隔ててうち町。明治初年以降加茂川沿いの一丁目とその北の二丁目に分けてよばれた。総間数二七五間、ほかに表通りに並行する突抜つきぬけ小路三六間半、北裏へ入る吉祥院きちじよういん小路四三間半、北に延びる三浦屋借屋みうらやしやくや通三八間などがあった(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。元禄八年(一六九五)の米子町中竈之覚(同書)では家持一四三軒・借家一〇九軒と町方一八町のなかでもっとも戸数が多い。文化元年(一八〇四)の下札に基づく生高四七石余、物成二八石余(同書)

町禄は魚・塩・海産物・船道具・船宿などが許されていた。米子湊に面して船溜と倉庫があり、問屋も多い。宝永六年(一七〇九)の伯耆国米子平図(県立博物館蔵)には海岸部近くに南北に通る道筋に大工だいく町と記され、海側に番所がみえ、ここに近世初期から川口かわぐち番所が置かれ、出入船の監視等をしていた。また船目代が任命され船改や船運上の納入、艀を用いた荷役差配を取締った。貞享四年(一六八七)の当町より納められる諸船運上銀定は、一艘につき廻船一〇〇石積と九〇石より八〇石積は白銀一〇匁、七〇石より四〇石積は白銀八匁、三〇石積より一〇石積は白銀五匁、猟船・丸木船・かんこ船・上荷船・小平太船は各白銀三匁、渡海船白銀六匁、小渡海船白銀四匁、和布刈船白銀二匁となっている(御船手御定)。元禄年間には灘町一丁目の四ッ角、大谷家の屋敷隣に魚座(魚鳥座)が設立された。

おもな商人として大谷氏・後藤氏・坂江屋・島屋・岩見屋・蔦屋などがいた。大谷家由緒実記(山陰歴史館蔵)などによれば、大谷(大屋)氏の祖は但馬国の武士で本姓は和田氏であると伝え、戦国期には尾高おだか城主杉原盛重に仕えたが、盛重死後の杉原氏内紛により但馬に帰って武士を捨て、のち米子に移住して海運業を営んだという。


いわしまち

[現在地名]博多区須崎町すさきまち

北の橋口はしぐち町から那珂なか(博多川)沿いに浜側(北)に下る道に沿って鰯町上・鰯町下がある。一筋東の南北道は須崎町上・須崎町中の通り。鰯町下は那珂川の河口に接する(福岡博多近隣古図)。鰮町とも記される(続風土記拾遺・石城志)。鰯町上は古くは川端町下かわばたまちしもと称し、鰯町下は同じく須崎町裏町と称したという(続風土記附録)。「津要録」によれば、延享三年(一七四六)に川端町下は近隣の新川端町上・新川端町下・川端町上などと町名が紛らわしく、一方で一帯は遠国・近国からも「鰯町」とよばれていることから、鰯町と改称したいと願出て許されている。宝暦二年(一七五二)には「須崎町裏下」が同様に俗称の鰯町の町名を採用したいと願出たため、当時の「いわし町」(かつての川端町下)を「いわし町上」に改め、須崎町裏下は「いわし町下」に改称したという。なお両町が主張したように鰯町の呼称は町名変更前から「いわし町問屋中」などと使われていた(同書享保一九年条など)


なだまち

[現在地名]伊予市灘町

郡中ぐんちゆう三町の一。もとは米湊こみなと村の一部であったが、江戸時代後半に分離独立して城下町に準ずる取扱を受けた。

町は、寛永一三年(一六三六)上灘かみなだ(現伊予郡双海町)の住人宮内九右衛門、弟清兵衛の両人が牛飼原うしこがはらの開発を藩に願って移り住んだのに始まる。兄弟は米湊村の内にあった蔵処の北、下手の土地をもらい受けて開発し、しだいに居住者も増え、徐々に町並が整えられた。藩主加藤泰興が鷹狩で替地方面に来た時、両人の功績をたたえ、上灘から移住したのにちなみ町名を灘町とし屋号を灘屋とすることを許し、諸役御免の地にしたという(積塵邦語)

寛文七年(一六六七)五月の幕府の浦巡察使記録「西海巡見志」に「灘町 遠見番所有、片浜、家数五十三軒、舟数六艘、内二艘七十石積九十九石積、四艘漁舟、加子数十人」とあるが、宝暦五年(一七五五)の玉井家文書では、家数一九八軒、うち本門三四軒、借家一六四軒、人数七七八人、町の長さ五町四一間五尺、舟数三艘、うち一四〇石積二艘、一〇〇石積一艘となっている。


なだまち

[現在地名]松江市灘町

天神てんじん町の西に位置する町人町。西は宍道湖に臨み、北は白潟魚しらかたうお町。堀尾時代城下図および延享城下図によると、天神町の白潟天満宮境内の西は宍道湖で、境内の北に当町の町屋がみえる。のち宍道湖岸が埋立てられ、町内はきた町とみなみ町に区分されたという。北町には北から来海きまちナダ通・大蘆おおわしヤナダ通・こうじヤナダ通の東西に走る三つの通りがあり(明治一二年「松江市街図」松江市誌)、南町は大工だいく町とも称された。「雲陽大数録」「出雲稽古知今図説」に町名がみえ、大工町も記される。北町付近は船着場や海産物の荷揚場として栄えたという。安永八年(一七七九)の当町の竈数三四五(松江市誌)


さかきまち

[現在地名]厚岸あつけし郡浜中町榊町

明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三九年(一九〇六)まで存続した厚岸郡の町。浜中海岸の中央部に位置し、南・西は浜中村。近世にはアッケシ場所に属し、明治初年、アシリコタンを包含して成立した。明治三年、アッケシ場所請負人であった榊富右衛門が南部・津軽・秋田および北海道南部から漁民二九戸・八一人を移住させ、彼らの定住を図るため家屋一〇棟を建て、市街地建設や道路開削・海産干場開発を行った。これによりその地を富右衛門の名字にちなみ榊町と称したという(状況報文)。浜中榊町ともよばれ(「開拓使日誌」明治一〇年六月一二日など)、榊木町とも記された(開拓使根室支庁布達全書)。明治五年には駅逓、浜中病院(同九年根室病院浜中出張所となる)、同五年六月には海関所浜中出張所(同一三年浜中船改派出所と改称)、明治六年七月には開拓使根室支庁厚岸出張所分局(同八年七月四日廃止、のち厚岸出張所浜中分署)、同八年浜中郵便局が設置され、浜中海岸地帯の開拓拠点となる(「状況報文」、「事業報告」第一編・第四編など)


ほうらいちよう

[現在地名]宇都宮市西原にしはら一丁目・西にし三丁目

日光街道筋の町人町で、北は茂破もやぶり町、南は大黒だいこく町に続き、東は郭内すじ、西は伊賀いが町の武家屋敷地。茂破町との境は筋違いとなっており、見通しがきかない。ここに東西の道があり、東は武家屋敷、西は佐野道に通じる。町名はかつて宇都宮城築造の際に、西方の守護仏として蓬莱観音を祀る観音堂があったためといわれる(宇都宮史)。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)に町名がみえる。七の日に市が立てられていた。宝永七年(一七一〇)の町分掃除丁場は七番組一二〇間のうち二八間を受持ち、城内草刈人足は一三人を差出す(宇都宮史)


ほうらいちよう

[現在地名]函館市宝来町ほうらいちよう

明治四年(一八七一)に設定された町で(「事業報告」第一編)恵比須えびす町の裏手(南側)相生あいおい町一―二丁目の東側一帯にあたる。明治四年九月の大火(切店火事)で焼失した山ノ上やまのうえ遊廓の移転先となり、同年から翌五年春にかけて当時函館の東はずれであった当地に遊里が造営され、遊女屋・引手茶屋のほか髪結・鮨屋・荒物屋・五十集・仕立屋・小間物屋・三味線張替など各種業者も移転して、蓬莱町遊廓が誕生した(明治五年「蓬莱町地所割渡願書」道立文書館蔵など)


こうじまち

現千代田区の西部、新宿通の南北両側一帯をいう。現麹町一―六丁目・はやぶさ町・平河ひらかわ町一―二丁目などに該当する。江戸時代には内堀の半蔵はんぞう御門から外堀の四谷御門に抜ける大通り(甲州道中)の両側にある麹町一―十三丁目(うち十一―十三丁目は現新宿区)、麹町平河町一―三丁目、麹町隼町、麹町谷町などに分れていた。麹町の町名は「東西髪の如き小路町」という町の形状から名付けられた。麹製造業が多かったため「小路」を「麹」の字に改めた。甲州道中武蔵国府に続く国府路(こふじ)からいわれるようになったとの三説が知られている。


つじまち

[現在地名]浜田市大辻町おおつじちよう

浜田八町の一で、東は檜物屋ひものや町、西は浜田浦に続き、南ははら町、北は原井はらい村。蛭子えびす町・しん町が城下の中心となる以前は小野市おののいちとよばれ、当地一帯が中心で、問屋なども集中していたという。町名は道路が交差していたことによると伝える(浜田町史)。東西五四間・幅一間四尺で、両側に一尺五寸の雨落溝をもつ道が延びていた(天明元年「浜田町浦小路竪横間数改帳」浜田市立図書館蔵)。宝暦―明和年間(一七五一―七二)と推定される浜田城下町諸色申伝控(河上家文書)によると家数三八・竈数四一、天保七年(一八三六)の浜田御城下町諸事申伝帳(岩間家文書)では家数三六・竈数三五。


さやちよう

[現在地名]高崎市鞘町

大手門外枡形木戸の北にある。東は町、東から南は連雀れんじやく町、西は町奉行所、北は中紺屋なかこんや町。「高崎寿奈子」に「南北長サ三十一間、名主中村武兵衛、中村利左衛門、此町鞘研、柄巻、金具師、其外質屋、造酒屋、青物干物品物商ふ」とあり、西横にしよこ町として「石上寺脇、むかしは研町といふ」と記される。とぎ町は職人の数も少なく、時期は不明だが鞘町に組入れられた。慶長年中(一五九六―一六一五)箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)から移ったという(高崎志)。地子銭は二二貫五一〇文で(文化年間「高崎藩町方式」西尾市立図書館蔵)、屋敷は三六軒(安政三年「町割古記録控」高崎市立図書館蔵)


さやちよう

[現在地名]館林市西本町にしほんちよう仲町なかまち

館林城下の西部、藩牢屋敷の東側の南北に通じる通りの両側にあった。北は塚場つかば町、南はたつ町・材木ざいもく町に続く。延宝二年(一六七四)の城下町図に町名がみえる。「館林記」では萱葺家三二、男六三・女四七、馬一。鞘師の居住地で、延宝九年時の刀剣関係者は研屋四・鞘師三・金具屋三・柄巻屋一でこの職役は年一二〇人(「館林町先規之次第覚書」館林市立図書館旧蔵)


ひいらぎちよう

中京区高倉通押小路下ル

南北に通る高倉たかくら(旧高倉小路)を挟む両側町。

平安京の条坊では、町の西側が左京三条四坊一保二町、東側が同七町。平安中期以降は、三条坊門高倉小路北にあたる。平安時代、町の東側には藤原定方の邸大西殿、西側には中宮大進平生昌の邸であった竹三条の地にあたる(拾芥抄)。室町時代、町の東側は足利尊氏の館、後の等持寺の地にあたる(師守記・康富記)

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「柊木丁」、寛文後期洛中洛外之絵図は「平木丁」とする。元禄末期洛中絵図に「柊屋丁」とあり、それ以降は変化がない。


うまやまち

[現在地名]小樽市手宮てみや一―三丁目

明治三二年(一八九九)に成立した町。手宮公園てみやこうえんの東にある。近世のムマヤ、開拓期の高島たかしま郡高島村字厩に相当する。明治二九年小樽築港に関連して当地の烏帽子えぼし岩から入船いりふね川河口のたて岩まで埋立が計画され、同三〇年北防波堤の工事が開始された(史談会編「写真集小樽」)


かずらまち

[現在地名]中区正木・松原

山王さんのう神社(旧山王稲荷)の西と南の鉤の手になった一角に、享保一七年(一七三二)一〇月(一説に九月)葛町遊郭が置かれた。藩主徳川宗春の政策によったもので、西小路にしのこうじ富士見原ふじみはらとともに三郭の一つ。三郭のうち最後に置かれた。葛町は町名ではなく郭の名称。元文元年(一七三六)三郭を一ヵ所に集める触が出されたが、北の西小路遊郭から出火、その余波を受けて廃絶した。


こうじまち

[現在地名]西区江戸堀えどぼり一丁目・京町堀きようまちぼり一丁目

玉沢たまざわ町の西に延びる両側町。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図では玉沢町の町域を含み木引こびき町と記され、元禄期(一六八八―一七〇四)以後の絵図では二分されて麹町になっている。同一三年の三郷水帳寄帳には同一一年「丁名改ル」とある。


よしちよう

[現在地名]水戸市ほん町三丁目

白銀しろかね町から本六町目の南側に向かいうら六町目に出る町。北は白銀町。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「町」の解説


ちょう

中世後期に成立し,近世において都市社会の基礎単位となった共同体。一般に通りをはさんだ両側の家々で両側町(りょうがわちょう)を形成し,木戸・番屋・町会所(ちょうかいしょ)などの町有施設を備えていた。町はたんなる地域単位ではなく,町人すなわち町屋敷所有者の身分団体である町中(ちょうじゅう)によって運営され,独自の町掟(ちょうおきて)と町入用(ちょういりよう)(会計)をもっていた。このため借屋人は町内の居住者ではあっても町中への参加資格はなく,基本的に町運営から排除されていた。また非町人身分である武士や賤民は原則的に町に居住することは認められていなかった。近代に入ると町中は身分制とともに解体し,町はたんに地域単位となった。


まち

街・坊とも。都市,ないしは都市的な場のこと。町は「ちょう」とも読むが,その場合は商人や手工業者で家屋敷を所持する町人の地縁的共同体を意味する。「まち」は,宅地・家屋敷の集積からなる空間であり,道路・広場など都市領域をも含めて用いられる。公家・武家・寺家の住居も,「まち」を構成する要素として考えられる。しかし,中世後期以降,「まち」は「ちょう」の集合体である点に基本的な特質があった。このため,「ちょう」の集合として「まち」は町方とよばれ,公家地・武家地・寺社地とは異なる都市的な場として認識されていく。

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百科事典マイペディア 「町」の意味・わかりやすい解説

町【ちょう】

(1)尺貫法の長さの単位。1町=60間(けん)=360尺≒109.09m。(2)尺貫法の面積の単位。1町=10反(たん)=100畝(せ)≒9917.4m2=約1ha。

町【ちょう】

市町村

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単位名がわかる辞典 「町」の解説

ちょう【町】

➀尺貫法の長さの単位。1町は360尺、60間。約109mに相当する。
➁尺貫法の土地の面積の単位。1町は10反、3000歩(ぶ)。約99.2アール。8世紀初めに、1町は3600歩とされたが、16世紀末以後は3000歩となった。

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【市町村制】より

…市町村は2階層制地方自治制度を構成する基礎的普通地方公共団体であり,都道府県に包括される。日本国憲法改正原案には地方団体の種別が規定されていたが,GHQと日本政府の折衝を経て成立した日本国憲法は,地方団体の種別を明示しておらず,それは地方自治法をはじめとする国会制定法にゆだねられている。…

【町入用】より

…日本近世の(ちよう)における収支会計のこと。日本の近世社会では,国家や領主の権力諸機構,多様な共同体・共同組織,個々の経営体などの諸レベルにおいて,支配や給付,管理や運営,生産や消費,負担や配分などに伴う金銭や物品の出納が行われ,その算用の過程や結果が記録された。…

【町役】より

…日本近世の町人が,その地縁的共同体である町(ちよう)を介して勤めた役負担の総称。町役としてくくられる諸負担としては,(1)国家や領主権力への役負担や音信礼,(2)その町人が所属する町の共同体諸経費,(3)当該の町が属する都市の町方全域(惣町)や,その部分(組合町)など,広域の都市行政諸経費などがあるが,本来的には,(1)が町役の原義である。…

【都市】より

…都市という日本語は明治中期以後の語で,しばしば行政上の市や町と混同されるが,まったく別の概念である。英語のtownとcityは日本では行政上の町と市,および集落単位の町や都市の訳語にも用いられるが,イギリスではtownとcityはほぼ類似の意味で用いられ,とくにtownが小型の集落だけを意味していない。…

【尺】より

…したがって1尺は約30.303cmであり,分量単位は1/10尺の寸,以下十進法による分(ぶ),厘,毛である。倍量単位は寸法用と距離・間隔用に分かれ,寸法用の倍量単位は10尺に等しい丈,距離用の倍量単位は6尺の間(けん),60間の町,36町の里である。(2)鯨尺の尺。…

【段∥反】より

…約992m2であり,10aに近い。慣用では反とも書き,日本特有の単位で,倍量単位は10段に等しい町である。なお,和服地の長さないし広さの単位として端(反,段)がある。…

【町】より

…町の原義は〈田のあぜ道〉であるが,距離の単位(1町=60間),地積の単位(1町=10段)として用いられた。また市街地をさす呼称でもあり,今日では行政区画の一つとなっている(この〈町〉については〈市町村制〉の項参照)。…

【町座】より

…中世都市域における定住店舗をいう。〈〉はもともと田の区画を意味するが,同時に都城の条坊の区画や建物の多く集まる所も町と称される。10世紀の辞書《和名抄》では町を〈田区也〉と説明するが,一方で店家(まちや)すなわち〈坐売舎〉について〈俗に町というはこの類〉としている。…

【町割】より

…城郭を中心に,武家地,町人地,寺社地で構成される近世城下町を建設する際,町人地に設定された地区に街路を通し,街区を作って街路に面した町の区画を定め,さらに町の中を個々の屋敷地に割ることを〈町割〉と呼ぶ。また町割の結果できあがった形態をも〈町割〉と呼ぶ。…

※「町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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