松江城下(読み)まつえじようか

日本歴史地名大系 「松江城下」の解説

松江城下
まつえじようか

松江藩城下町松江は一七世紀初めに城と町を一体として同時に建設された城下町である。現在は宍道湖から中海へ注ぐ大橋おおはし川を挟んで北を橋北きようほく地区(旧島根郡域)、南を橋南きようなん地区(旧意宇郡域)とよんでおり、城はその橋北地区の中央に位置し、大橋川自体が自然の外堀の役割を担っていた。東西約二キロ、橋南地区を含め南北約二・七キロの城下町で、堀尾氏・京極氏・松平氏と藩主の交替があったがその範囲は変わらず、出雲国の政治・経済・文化の中心であった。明治維新後も県庁所在地として島根県の中核を占める。

〔城地の移転〕

松江の地は一六世紀までは沼沢の入交じった広々とした田園地帯で、島根半島の北山から延びる半島のような尾根や微高地に、農民・漁民の民家や寺社が点在していたと推測される。このような地に一七世紀に入って富田とだ(現広瀬町)城主堀尾氏により計画的な都市が一挙に建設された。

鎌倉時代以来、出雲の国の政治的・軍事的中心はおおむね能義のぎ広瀬ひろせ(現広瀬町)であった。ことに富田城(現同上)を居城とした戦国大名尼子氏は、ここを拠点に一時は山陰・山陽一一ヵ国にもわたって勢威をふるった。この尼子氏全盛期(一六世紀前半)から引続き月山がつさんの麓に富田城下が形成されており、尼子氏を滅ぼした毛利氏は吉川広家を富田城に置いて山陰支配の要とした。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の戦後処理として毛利勢力は富田城を追われ、代わって遠州浜松はままつ(現静岡県浜松市)一二万石の堀尾忠氏が出雲・隠岐二四万石に封ぜられ(「徳川加除封録」「恩栄録」など)、父吉晴(可晴)とともに富田城に入ったが、天正一八年(一五九〇)以来浜松の城下町を日常生活の場としてきた堀尾氏とその家臣たちにとって、中世的な富田の城下はいかにも狭かった。兵農分離を経過し、多数の家臣団とその家族を抱える近世大名にとっては、居住空間もさることながら消費物資を運ぶのも陸上輸送に頼らなければならず、富田城の位置が標高一八四メートルのところにあって城と城下町との間にかなりの距離があるということなども時代の趨勢に合わなかった。そこで吉晴・忠氏父子は領国支配のために出雲の中心に近く、家臣団の居住区が広くとれ、大量物資の水上輸送の便もある宍道湖岸に新しい城地を求めたのである。

堀尾父子は宍道湖東岸の乃木のぎもと山に登り、床几に腰掛けて湖岸を視察した。吉晴はかつて毛利軍が富田城攻略のとき使った荒和井あらわい洗合あらわい城跡を城地に最適と主張したが、忠氏はかつて尼子氏の支城として使われた亀田かめだ(極楽寺山)末次すえつぐ城跡のほうを主張したといわれる(以上「松江亀田山千鳥城取立之古説」県立図書館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報