御倉町(読み)みくらちよう

日本歴史地名大系 「御倉町」の解説

御倉町
みくらちよう

中京区三条通烏丸西入

東西に通る三条通(旧三条大路)を挟む両側町。東側は烏丸からすま(旧烏丸小路)、西側は室町むろまち(旧室町小路)が通る。

平安京条坊では、左京三条三坊三保一二町南側及び同四条三坊四保九町北側の地。平安中期以降は三条烏丸小路の西にあたる。

平安時代後期、この地北側方一町に西三条内裏があった(拾芥抄)。また、この地付近(南側とも)に藤原長実邸があり、「百錬抄」仁平元年(一一五一)一一月二日条に「新院御幸三条烏丸第、件家、故長実卿家也」とある。後に治承―寿永(一一七七―八四)の頃「桟敷殿」とあるのがこれである(拾芥抄)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「御倉町」の意味・わかりやすい解説

御倉町 (みくらまち)

平安京において倉の群立する町(区画)をいい,巨富の象徴とされた。《宇津保物語》に受領を歴任して蓄財した三春高基について,〈住み給ふ所は七条,大路のほどに,二町の所,四面に倉立てならべたり〉とあるようなものをいう。同様の受領であった近江守源行任(ゆきとう)の宅(富小路南,土御門北)は〈世に御倉町と号〉された(《小右記》)といい,同じく近江守隆時の場合は〈江州五倉〉(《中右記》)と称されており,いずれも焼亡の記事に登場する。御倉町の最大のものは摂関家のそれで,東三条殿東町,鴨院(かものいん)(二条南,町尻東の2町)の北の部分にあったことから,東倉町あるいは北倉町と称された。ここには納殿(おさめどの)があって,大臣大饗などの際に用いられる朱器台盤などの道具を収蔵するだけでなく,饗饌の調進も行われる厨所であり,また宿所にも利用される一方,細工所が付属していて諸種の職人のいる工房でもあるなど,摂関家の家政機関の一中心であった。同類の御倉町は院御所などにも見られる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「御倉町」の意味・わかりやすい解説

御倉町
みくらまち

単に倉町(くらまち)とも称する。摂関期や院政期にとくにみられ、受領(ずりょう)や摂関家、院などの財物を収納した倉庫の立地する地をいう。平安京内はもちろん鳥羽(とば)、白河などにもあり、白河法皇はこれら各所に「御倉二百余所」をもっていたという(『中右記(ちゅうゆうき)』)。また単なる倉庫群にとどまらず、工房の役割をも果たしており、当時の京都における富の集積のさまをよく示す。

[井上満郎]

『村井康彦著『古代国家解体過程の研究』(1965・岩波書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「御倉町」の意味・わかりやすい解説

御倉町【みくらまち】

平安京で倉庫の群立する一角国主を歴任する間に蓄財した受領(ずりょう)の宅が多いが,摂関家のものが代表的。摂関家の東三条殿の東,鴨井殿の北部にあり東倉町・北倉町と呼ばれた。調度などを納める納(おさめ)殿があり,厨(くりや)所・宿所の機能も持った。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報