宇都宮城下(読み)うつのみやじようか

日本歴史地名大系 「宇都宮城下」の解説

宇都宮城下
うつのみやじようか

ほぼ川より西、かま川より南に位置し、中世は宇都宮明神門前町宿場町で、慶長二年(一五九七)の宇都宮氏改易以後、近世は宇都宮藩城下町。北関東の要衝として日光街道と奥州街道の分岐点でもあり、徳川家康の廟所である日光を控え、将軍の日光社参の折には宿泊地となり、江戸幕府にとり極めて重要視された。城下は中央北部の宇都宮大明神と南部の宇都宮城により、東と西の区城に大きく分けられ、中央の日野ひの町より西方をうわ町、東方をした町と称した。

〔町の成立〕

宇都宮氏の祖藤原宗円が平安末期に居館を構えたことに始まったと思われる。中世の館は近世の宇都宮城の三の丸の範囲までで、ほぼ二町四方の広さと思われる。館の真北に宇都宮大明神があり、馬場道で直結していた。宇都宮弘安式条第五六条に「町屋不入許在家拝領輩事」とあり、町屋があり、地子を収めていたことがわかる。戦国時代には田川と館の間を奥州街道(鎌倉街道)が通っていたといわれる。慶長三年蒲生秀行が宇都宮に入り、宇都宮城を修築し、城下の出入口として不動ふどう口・うたはし口・伝馬町でんまちよう口・佐野口を開き、不明あかず門を設けた。また近江日野ひの(現滋賀県蒲生郡日野町)から同道してきた町人を東勝とうしよう寺跡に集住させ、日野町をおこしたという。中世末期から近世初期にはすでに町が構成されており、一〇人の町年寄が城下の自治を執行していた。「宇都宮故実抄」によれば、慶長五年会津の上杉景勝攻めに際し、徳川秀忠は宇都宮城を陣所とした。その折、火事の用心、売買自由とともに、町年寄に人質を出すよう命じている。この時の功を賞せられ、同七年宇都宮町に徳川家康より地子御免の特典が与えられた(「地子免許状」植木秀三文書)。この時の宇都宮町はのちの記録で熱木にえぎ町・うたはし町・大黒だいこく町・蓬莱ほうらい町・茂破もやぶり町・挽路ひきじ町・材木ざいもく町・材木横ざいもくよこ町・池上裏いけかみうら町・池上町・杉原すぎはら町・鉄炮てつぽう町・曲師まげし町・馬場ばば町・日野ひの町・今小路いまこうじ町・剣宮つるぎのみや町・こく町・押切おしきり町・上河原かみがわら町・小袋こぶくろ町・おお町・日野横町・大工だいく町・宮島みやじま町・小田おだ町・小門こかど町・おうぎ町・清巌寺せいがんじ町・てら町・新宿しんじゆく町・博労ばくろう町の三二町とされるが(享保九年「書上」宇都宮史など)、当時西方上町部分は形成されていなかったことなどから、慶長七年時に地子免許を与えられた町名は不明である。

元和五年(一六一九)本多正純が宇都宮城主となり、城下町の整備にとりかかった。従来の城下を通る街道は、栃木方面からの入口が贄木にえぎ口、雀宮すずめのみや方面からの入口が不動前口であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宇都宮城下の言及

【宇都宮[市]】より

…市街の西の大谷は土木・建築用の軟質石灰の大谷石(緑色凝灰岩)の産地で,国指定の特別史跡・重要文化財の大谷磨崖仏,大谷寺岩陰遺跡などが存在する宇都宮県立自然公園がある。【奥田 久】
[宇都宮城下]
 下野国の城下町で徳川譜代の有力大名が配置された北関東の要地。日光道中と奥州道中が分岐する宿駅。…

※「宇都宮城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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