港町
みなとまち
港湾設備をもち、流通機能を果たす水陸交通の拠点集落をいう。古代日本の律令(りつりょう)制下では、内外交易の拠点として難波(なにわ)・博多(はかた)の両津を定めて、官営の交易を行っていた。地方の国府は、中央との連絡に便利な水陸交通の要地を選んで設けられ、その外港として国府津(こうづ)(国津(こづ))をもつものがあった。荘園(しょうえん)が発達すると、それから納められる貢租は水路によって輸送されることが多く、鎌倉時代に入ると荘官級名主(みょうしゅ)層が問丸(といまる)となって輸送を管理していた。北陸の小浜(おばま)や瀬戸内海の尾道(おのみち)・兵庫などは全国的な水路の輸送基地として知られた。近世に建設された城下町には直属港湾がつくられて全国的な軍役体制がつくられていた。また当時南蛮貿易をはじめとして外国との交易が行われ、内政策のため蔵入地(くらいりち)を設けて中央への廻米(かいまい)納入を強制したりしたので、港町は大きく発展した。近世初頭から全国の諸平野で新田開発が進められると、三角州や扇状地平野を流れる川々の沿岸には、諸藩の貢米や日用貨物の輸送基地として藩倉や河岸(かし)が設けられて内陸の港町(蔵(くら)町)が発達していった。やがて幕末には開港を契機として横浜、函館(はこだて)その他の大資本を投入した近代的大港湾都市が形成されることになるのである。
[浅香幸雄]
『浅香幸雄著『中世の集落・近世の都市』(『新地理講座 第7巻』所収・1953・朝倉書店)』▽『豊田武・児玉幸多編『流通史1』(『体系日本史叢書13』1969・山川出版社)』▽『豊田武・児玉幸多編『交通史』(『体系日本史叢書24』1970・山川出版社)』▽『高瀬保著『加賀藩海運史の研究』(1979・雄山閣出版)』
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港町
みなとまち
海岸,湖岸,河岸の港を中心に交通や物産の集散地として栄えた町。古代における大輪田泊 (おおわだのとまり) は有名であるが,港町は中世に入って大いに発達した。瀬戸内海沿岸では兵庫,神崎,尼崎があり,近畿地方では淀,大津,坂本が,越前では敦賀,三国湊が代表的な港町であった。各地の港町には荘園からの年貢米,運上物の集散のため問,問丸が発達し,倉庫も建てられた。中世後期では,泉州堺が有名であり,納屋衆の支配する自治都市としてヨーロッパにも存在が知られた。近世には,各地の特産物を生産する産業が藩営,民営を問わず興隆し,それらの物資輸送の役割を果す港町は諸藩でも特に重視した。港湾施設の充実とともに新しく商人を招き廻船業務を担当させた。江戸幕府でも,国内の重要な港町を直轄領として各港町に奉行をおき,港町行政を行わせた。直轄港町のなかでも,長崎は寛永年間 (1624~44) 以降国際貿易都市として栄え,オランダ,中国との貿易のみならず,異国文化を摂取する窓口としても特異な存在であった。明治維新後,物資運航が蒸気船に変更されたため,各港町は水深が浅くて使用に耐えず,鉄道の発達その他の理由も重なって次第に衰えていった。
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港町
みなとまち
主として中世以降,港を中心として発達した町
古代より対外交通や貢租(のちには荘園年貢)輸送の要港はあったが,商品流通の増大した鎌倉末期以降に,市・問丸 (といまる) の発生,商工人・船頭・人夫などの定住をみて,都市的発展をした。堺など自治を得た自由都市も出現。江戸時代,東廻り・西廻り航路の開発などで各地に現れた。博多・堺・兵庫・尾道・桑名・敦賀・小浜・酒田などが有名。
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港町【みなとまち】
古代末期以降の港湾に成立した商業集落,または商業都市。中世には荘園年貢物の積出し・保管・販売を中心として発達し,14世紀以後商品輸送の増大で急激に発展。近世は鎖国によって海外貿易が長崎に限定されたため,他の港町は国内流通の中継地としての役目を果たした。→津/湊/港湾
→関連項目都市|泊
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みなと‐まち【港町】
〘名〙 港のある町。港によって発展した町。
※一握の砂(1910)〈石川啄木〉手套を脱ぐ時「港町(ミナトマチ) とろろと鳴きて輪を描く鳶を圧せる 潮ぐもりかな」
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デジタル大辞泉
「港町」の意味・読み・例文・類語
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みなとまち【港町】
〈みなと〉とは元来〈水の門〉の意で,瀬戸あるいは川口を指す。日本では港町といえば城下町,門前町,宿場町,市場町と並んで近代以前の歴史的都市分類に包含され,現代の港湾都市と区別されることもあるが,両者は同義語である。港というのは船舶が容易に出入し安全に停泊して,旅客・乗客の乗降・往来,ならびに物資の積卸や取引などが迅速にかつ危険なくできるように設備を整備した場所である。この機能を維持するために防波堤や停泊埠頭などの港湾施設や関連する付属機関施設が設けられ,さらにそれらの関連産業人口が集中して都市的集落が形成されることになる。
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港町
みなとちよう
[現在地名]函館市港町一―三丁目・浅野町
昭和二四年(一九四九)から続く町。昭和六年三月亀田郡亀田村は大字廃止と字名変更を実施し、旧大字亀田村の字有川通を中心に、字ゴミ川・字七重浜・字大谷地・字石川野の各一部を併せて字港とした。北端は上磯町に接し、亀田村で唯一函館港に面する所であったのが字名の由来であった(亀田村字地番改正調書)。昭和一二年の人口一千九四五(函館市史)。同二二年に亀田小学校港分校が開校。昭和二四年、亀田村と函館市との合併問題が持上がった。結局字港の一部だけが函館市に編入され、函館市港町となった。この編入以前の昭和一〇年に函館高等水産学校が当地に開校し、同校は同二四年に北海道大学水産学部となった。
港町
みなとまち
明治一二年(一八七九)より同三五年まで存続した町。明治一二年四月垂美村が湊町と改称(状況報文)。北の新地町、南の浜町を結ぶ地にある。同二四年調の「徴発物件一覧表」では港町とし、戸数一〇〇、男二三八・女一九六、官廨一、倉庫三、学校一、艀漁小廻船一九八。同二五年の鰊差網放数調記(古平町史)では一千六四放。同三二年の戸数一一二・人口五五一で、古平港に面して漁業家・回漕店などがあった(状況報文)。
港町
みなとまち
[現在地名]小樽市堺町・港町
明治初年(同二年八月―同六年の間)より同三二年(一八九九)まで存続した町。入船川の河口部にあたり、南は有幌町、北は堺町など。近世はヲタルナイ場所の運上屋が置かれ、一八六一年(文久元年)から場所請負人により海岸部で埋立が行われたという。明治四年頃には四、五戸の官舎があるだけになっていたが、開拓使が埋立を始め、港町と名付けたとされる(小樽市史稿本)。同四年「湊町」が置かれたという(状況報文)。同年五月役屋敷に貫目改所が置かれたが、同五年九月銭函村に移設(小樽市史)。同五年の小樽郡一号区内戸籍表に港町とある。同六年の「後志国地誌提要」に港町とみえ、戸数一八(官員一・平民一七)、人口一二〇(うち官員一八)、寄留戸数一九(官員四・平民一五)・人口四三(官員七・平民三六)。
港町
みなとちよう
大正一一年(一九二二)から昭和四一年(一九六六)までの町名。絵鞆半島の中央部、室蘭港に面した現在の海岸町などの一帯にあたる。地名の由来は港として旧上陸地点であったことによる。もとは室蘭区大字札幌通の旧室蘭運輸事務所(明治四四年設置)の角から日本一坂までの地で、大正一一年四月に室蘭区港町となった(「大字廃止及町名番地改称の件」昭和一六年室蘭市史)。
港町
みなとまち
本町の西に位置する。昭和二四年(一九四九)大字留萌村の一部を区画して成立。大字留萌村字市街・弁天通・南浜手通・ルモイ・南記念通・セゴシ・留萌通・瀬越通の一部で、一丁目から三丁目まで設置。
港町
みなとまち
[現在地名]釧路市港町・大町一―八丁目・入舟三―七丁目
昭和七年(一九三二)に設置された町名。もと真砂町・釧路村の各一部で、オタイト(苧足糸)と称されていた地。昭和七年の世帯数一二八・人口六九三(釧路郷土史考)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報