米子城下(読み)よなごじようか

日本歴史地名大系 「米子城下」の解説

米子城下
よなごじようか

弓浜半島基部西側、加茂かも川河口部にあり、西は中海に面する。米子城の北・東側に形成された城下町。西伯耆の政治・経済・交通上の中心を占める。郷帳類では米子町とみえる。鳥取城下から西へ向かってきた伯耆街道の終点であり、南西から北上してきた出雲街道は当城下東部で伯耆街道と合流する。北部からは北西へ外浜境そとはまさかい往来・内浜境うちはまさかい往来が走り、東部からは法勝寺ほつしようじ往来が南下する。

〔城下の形成〕

米子城の前身といわれる飯山いいのやま城は文明年間(一四六九―八七)に築かれたともされるが、城下町の形成がこの頃までさかのぼるかどうかは不明。「陰徳太平記」によれば、元亀二年(一五七一)三月一八日毛利方の福頼治部大輔の拠る米子城に夜討ちをかけようとした尼子方の羽倉元陰ら五〇〇余人は、小船に乗って米子の町へ討入り、町屋を残らず焼払ったとある。この話にしたがえば戦国期にはすでに町屋が形づくられていたことになろう。天正三年(一五七五)六月二一日、京都からの帰路島津家久一行は尾高おだかを過ぎて「よなこといへる町」に着いている(家久君上京日記)

城下の整備は天正期後半みなと山での築城とともに着手されたとみられ、町割は吉川氏家臣山県九左衛門らにより進められたという。慶長五年(一六〇〇)米子城主となった中村氏、同一五年からの加藤氏時代を経て寛永九年(一六三二)荒尾氏入城時には町割はほぼ完成をみていた。この過程で廃城とされた伯耆各地の城の町場から米子城下へと移住してきた人々も多く、尾高町は尾高城下、東倉吉ひがしくらよし町・西倉吉町は倉吉城下、四日市よつかいち町は戸上山とかみやま城下、岩倉いわくら町は岩倉城下(現倉吉市)、法勝寺町は法勝寺城下(現西伯町)日野ひの町は黒坂くろさか城下(現日野町)もしくは江尾えび城下(現江府町)からの移住者により形づくられた。このことは米子城下が伯耆国の中心都市として位置づけられたことを示すものであろう。米子城および郭内建造物に要する多量の木材は日野郡会見あいみ郡の山間部から供給され、初期の有力町人のなかには城造りの資材供給や城下地割造成に力を尽した者が含まれている。

〔城下の構造〕

米子城は湊山・まる山・飯山を囲んで縄張りされ、西は中海に面し、南に深浦ふかうらが入込む。内堀は南東端深浦奥から北へ上り、さらに西へ折れて中海に至るL字形を呈する。外堀は内堀から約一七〇間隔ててやはりL字形をなし、西端中海寄りは加茂川下流部を利用している。内堀と外堀の間は武家地が占め、東からひがし町・堀端ほりばた町・みやノ町・なかノ町・五十人ごじゆうにん町・西町が並ぶ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の米子城下の言及

【米子[市]】より

…西に隣する境港市域にかけて米子空港がある。【豊島 吉則】
[米子城下]
 伯耆国会見郡の城下町。1585年(天正13)羽柴(豊臣)・毛利両氏の和議細目が確定し,伯耆国3郡の領有が正式に認められた毛利氏の一族吉川(きつかわ)広家は米子湊山に築城した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」