館林城下(読み)たてばやしじようか

日本歴史地名大系 「館林城下」の解説

館林城下
たてばやしじようか

[現在地名]館林市本町ほんちよう一―二丁目・仲町なかまち栄町さかえちよう西本町にしほんちよう台宿町だいじゆくちよう大手町おおてまち城町しろまち尾曳町おびきちよう朝日町あさひちよう代官町だいかんちよう加法師町かぼうしちよう

じよう沼の北西にある館林城を中核に、その北・西に広がる。城の追手門(大手門)の南西札の辻ふだのつじ(大辻)を南北に日光脇往還(現本町通)が縦貫し、また北西へ太田往還(現県道足利―館林線)が分岐する。北東の加法師口、北の佐野さの口、北西の太田口、南西の小泉こいずみ口、南の江戸口の五ヵ所に門が設けられていた。城下の町名は昭和四二年(一九六七)から四四年の住居表示実施により、ほとんどが消滅した。

〔城下町の成立〕

一六世紀前半、青柳あおやぎから大袋おおふくろへと居城を移して来た赤井照光が館林に築城すると、かつて青柳にあった城下町佐貫さぬき町三五〇軒余をそのまま移転して成立したとされる。佐貫町は赤井氏の祖、佐貫氏にちなんで名付けられた。佐貫町頭鈴木越前・飯島宇太之助・金子伊豆の三名が奉行となり町割事業に当たった。「館林記」には「夫マデノ町ハ佐貫町ト申、外加法師ノ辺ニアリ」、「館林城覚書」には外加法師より土橋善長つちはしぜんちよう寺まで町屋があると記され、現在の尾曳町北西端の加法師境付近から東へ善長寺辺りまでの約二キロの東西に長く延びた一本町であったらしい。静嘉堂文庫蔵館林城図によると、東端土橋辺りをてら町といった。

城主赤井氏は永禄五年(一五六二)越後の上杉輝虎(謙信)によって館林城を追われ(同年二月二八日「須田栄定書状」上杉家文書)、同一二年長尾顕長が城主となると城郭拡張が計画された。当時の館林城は本丸を中心とした一帯の地と、入江を隔てた稲荷いなり郭の一郭だけで、土居・城濠などの城囲いもなくまったく無防備であった。郭外にあった侍屋敷を城囲いのうちに収め、防御を備えた城づくりを目指した。南方は城沼にさえぎられていたため城地を佐貫町のある北方に拡張せざるをえず、まず第一に六、七百軒に増えていた市街地をかた町以西に移すことになった。その地はたて(館)ヶ原と称する原野で土地の起伏もはなはだしく、城下町造成技術に練達している小林彦五郎と多数の人夫を下野国足利あしかが(現栃木県足利市)より招いた。

彦五郎は町の中央札の辻付近に居を構え、配下の人夫たちをその以北の地に住まわせた。彦五郎の町割は明らかでないが、東西に長い一本の市街をつくる計画であったろう。当時城下の南北大通りは西方の小桑原こくわばら富士嶽ふじたけ神社の西より目車めぐるま町に来り木挽こびき町を経て足次あしつぎ方面に向かう目車町通であった。彦五郎の計画はこの目車町通と館林城とを結ぶ大道を通し、町屋をその左右に並べるというものであった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の館林城下の言及

【館林[市]】より

…茂林寺沼湿原は湿地植物群落の原形がよく保たれている。【有末 武夫】
[館林城下]
 この付近は中世佐貫荘に属し,《鎌倉大草紙》《廻国雑記》などに館林の名が見える。町の形成は赤井氏の築城に始まる。…

※「館林城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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