広瀬村(読み)ひろせむら

日本歴史地名大系 「広瀬村」の解説

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]山香町広瀬

野原のはる村の東に位置し、東と南は藤原ふじわら(現日出町)。村はたいら抜畠ぬけはた中園なかぞの片吹かたぶき打越うちこし北原きたのはる梅木うめのき吹風ほかぜ田中たなかかみ二ノ・下二ノ尾・いち竹尾たけお小迫おおさこ久保くぼ大川司おおかわじ高屋たかや竜門寺りゆうもんじしよう柳形やながたふな大重見おおしげみ小重見こじけみ平山ひらやま鍛冶屋坊かじやぼうとどろき下松尾しもまつお・上松尾・御入山おいりやま岩崎いわさきつじ清水しみずの三二の小村から構成される。うち清水は寛永一二年(一六三五)に藤原村から分れ、当村に加わった(図跡考)

〔中世〕

当地は山香郷の別名として平安時代末に開かれたと推測される。山香郷地頭職系図(志手文書)には大神並貞が「広瀬地頭」と記される。山香郷と同様に郷司大神氏の開発によって成立した村であろう。鎌倉時代に入ると新たに地頭が任命され、大神一族の支配は排除されたようである。元久二年(一二〇五、正中二年の誤りか)二月二八日の豊後国国宣写(工藤勲文書)によると、初期の地頭「宮内少輔治時」の後を受けて遠江の御家人内田工藤致春が入部している。豊後国弘安図田帳には「広瀬六町六段大 遠江国御家人内田工藤三致清跡、三郎致時相続」とある。内田工藤氏の名字の地は現静岡県菊川きくがわ町で、近年内田工藤氏の屋敷跡といわれる高田大屋敷が発掘された。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]島本町広瀬一―五丁目・広瀬・青葉あおば一丁目・江川えがわ一―二丁目・水無瀬みなせ一―二丁目・桜井さくらい一丁目・百山ひやくやま若山台わかやまだい一―二丁目

山崎やまさき東大寺とうだいじ尺代しやくだい三村の南側にある東西に長い大村。村の西部は山地で、東部は水無瀬川が南東流し、同川によって形づくられた扇状地形が広がる。村の東側は淀川で限られる。条里制の遺構が残り、奈良時代から室町時代にかけての土器片などが検出された広瀬遺跡がある。平安京遷都後、上皇・天皇が度々遊猟した水無瀬野は当地辺りであった。「明月記」正治二年(一二〇〇)閏二月二七日条に「今日上皇皆瀬御幸」とみえ、その傍注に「人云改此所名為広瀬云々」とある。しかし、水無瀬の地名は中世を通じて用いられ、広瀬もまた併せて用いられている。当地は山崎と同様、交通の要衝であった。承久の乱に際して、後鳥羽上皇方の河野四郎入道通信らが当地に布陣しており、「承久軍物語」に「河野四郎入道みちのぶ。しそく太郎、五百よきにてひろせへとてぞむかひける」とみえる。文安五年(一四四八)九月二九日の摂津国守護細川勝元遵行状(水無瀬神宮文書)によると、当地に後鳥羽院御影堂領があり、山城石清水いわしみず八幡宮の大山崎神人関丹後入道の同地への違乱を停止させるよう長塩備前入道に命じている。また当時、広瀬の大文字屋という割符屋が活躍、京都東寺領備中国新見にいみ庄との割符関係文書が残る(文正二年二月七日「広瀬大文字屋割符案」東寺百合文書ほか)。戦国時代には「広瀬庄」と庄名で記された場合もみられる(永正元年五月二五日「後柏原天皇綸旨案」水無瀬神宮文書)

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]武生市広瀬町

府中町の西、吉野瀬よしのせ川が山地から平地に流れ出る谷口に位置し、府中と河野こうの浦・今泉いまいずみ(現南条郡河野村)とを結ぶ西街道に沿う街村。村名は享禄二年(一五二九)七月一九日付青木景康・印牧美次連署状写(田中家文書)にみえる。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に村名がみえ、高二四四三・六石、先高一千八〇二石余・出分五六一石余、馬借米三石余が記される。正保郷帳から上下二村に分けて記され、西側上広瀬村一千二〇〇石のうち田方一千一五六石余・畠方四三石余、東側下広瀬村一千二四三石余のうち田方一千一一一石余・畠方一三二石。両村とも福井藩領。寛政四年(一七九二)の支配下村々高家人数留(「越前宗門帳」所収)によれば、上広瀬村は八七軒(うち高持三六・雑家四三・道心庵一)・二九八人。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]館山市広瀬

腰越こしごえ村の北、山名やまな川の中流右岸の平坦地に位置する。集落は村内を横断し、外房と内房を結ぶ伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還に沿って発達。古代安房郡広湍ひろせ郷の遺称地とされ、中世には群房ぐんぼう庄のうちで、広瀬郷として推移した。

〔中世〕

正治二年(一二〇〇)二月二八日の吉田経房処分状案(勧修寺家文書)に「郡房庄内広瀬郷」とみえ、五辻斎院(鳥羽天皇皇女頌子内親王)が供僧以下の衣服料および修理用途料として同郷を京都上賀茂社の経蔵に施入している。吉田家が得分をもっていたらしいが、それは領家職と推定され、五辻斎院は本家職であったのだろう。経房は地頭が直接重政に用途を納入したため決算ができないとして、用途を優先するよう定めている。弘安三年(一二八〇)五月五日の亀山上皇院宣(富田氏所蔵文書)でも、広瀬郷は群房庄の本家惣領と区別した扱いとなっている。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]中区広瀬北ひろせきた町・広瀬町・西十日市にしとおかいち町・えの町・小網こあみ町、西区中広なかひろ町一―三丁目・上天満かみてんま町・天満てんま

ほん(太田川)小屋こや(天満川)に挟まれた地のうち、雲石路沿いや山陽道沿いにできた広瀬組所属の町方部分、および新開組に属した空鞘そらざや町・左官さかん町・西地方にしじかた町、南の船入ふないり村以南の地を除いた部分を村域とするが、小屋川西対岸にも村域をもつ。北東部には鷹匠たかじよう町など武家屋敷町もあり、村内は雲石路と小屋川に挟まれた地(地方町の榎町を含む)、山陽道南、船入村までの地(地方町の小網町を含む)、小屋川西側の水入地(現西区)に分けることができる。新開組に属した。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]宇部市大字広瀬

厚東ことう川が東方へ流路を変える右岸の、舌状の丘陵にある小村。北は棚井たない、東は末信すえのぶ、南は奥壇おきのだん、西は際波きわなみの各村に接する。萩藩領で舟木宰判に属する。

貞治三年(一三六四)一〇月二〇日付浄名寺文書(「寺社証文」所収)の知行分目録に

<資料は省略されています>

とある。

慶長五年(一六〇〇)と同一五年の検地帳では棚井村に含まれていたと思われる(→棚井村。寛永一四年(一六三七)の郡夫付立(「注進案」所収)では広瀬七六四石としている。「地下上申」には「広瀬村」とあり、棚井村と合筆され、村内小村としてはたをあげる。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]宮之城町広瀬

西流するあな(金山川)中流域にある。西の田原たばる村との二村で佐志さし郷を構成する。東は求名ぐみよう(現薩摩町)、北は鶴田つるだ郷鶴田村。正和五年(一三一六)三月一八日の沙弥道海寄進状答院記)によれば、「広瀬之内馬越堂跡塀町并溝より南野原相副て」とみえ、松尾まつお(のち興全寺)観音に寄進された。天文二年(一五三三)八月彼岸日答院代官鈴木壱岐守から同寺に寄進された「松嶋原畠地」は、東は「広瀬借屋瀬々限水田境」、南はまた「広瀬之田境之限溝」に接する畠地であった(「薩摩答院松尾寺住持興弁寄進地記文」同書)

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]滝根町広瀬

神俣かんまた村の南に位置。東部と西部は山地で、その間のやや西寄りを夏井なつい川が南流し、その流域に平地をつくっている。三春みはる(現三春町)から磐城へ通じる南北の道、小野新町おのにいまち(現小野町)からの東西の道が通る。小山崎こやまざきにある宇佐神社蔵の永禄三年(一五六〇)五月五日の紀年銘の棟札に「本願熊谷蔵人直光、小ママ進衆広瀬之郷中禰宜僧侶皆有之」とみえる。中世には小野保に含まれ、正保二年(一六四五)の二万石三万石差別覚書(川又家文書)によれば、小野六郷のうち広瀬郷として広瀬・神俣、湯沢ゆざわ(現小野町)の三ヵ村を記す。この広瀬郷が天正一八年(一五九〇)蒲生氏郷領となったのち神俣を分離したと推定されている。

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に広瀬とみえ、高三千三〇六石余、田丸氏の知行地。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]厳木町大字広瀬

厳木川の上流あま川が渓谷より出てつくる扇状盆地にある。「松浦記集成」に「五ケ山ヨリ一所ニ落込水漲リ集リテ大ナル淵トナリ深サ底ヲ知ラスナトヽ云夫ヨリ広瀬ニ流レ水派みつまたトナリシヲ古代川筋一所ニ掘流シ田所ト成ル広瀬ノ名其時ノ事也ト云」と記す。また同書に鶴田氏の家臣に広瀬七郎左衛門の名があり、竜造寺氏の獅子ししヶ城攻めの時武名を揚げた白水運五兵衛尉も広瀬に居住すると記す。

かつて広瀬村は中島なかしま村・篠原しのはら村を含むとされ、現福岡県八女やめ星野ほしの村の小野おの神社の応永一五年(一四〇八)在銘の鰐口に「肥前国上松浦広瀬村」の村名がみえる。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]錦町大字広瀬

玖珂郡の西北端、西は都濃つの郡、北を石見国鹿足かのあし(現島根県)に接する。

村名は「大永ノ記録」(「山代温故録」所収)に「広瀬郷 刀禰広瀬主計介宰判」とみえる。

近世、萩藩前山代宰判の中心地として代官所(勘場)が置かれ、勘場役人が勤務していた。勘場は、山代宰判が奥と前に二分された延享四年(一七四七)に設置。安永五年(一七七六)合併されたのに伴い廃止されたが、天保一三年(一八四二)再び分割。隅四郎右衛門宅を借りて勘場とした。

村高は慶長一五年(一六一〇)の検地帳で、高二千九〇三石余、うち田七三町四反余で高一千三九六石余、畠二〇二町一反余で高七七〇石余、屋敷二七七軒、市屋敷一七軒、小物成高五七六石余とある。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]綾部市広瀬町

山家やまが村の中央部、由良川北岸の段丘上に位置する。東は釜輪かまのわ村、西は上林かんばやし川を隔て鷹栖たかのす村、南は由良川を隔て上原かんばら村。上原村とは渡船で連絡し、鷹栖村との間には肥後ひご橋が架けられていた。

村の北方、こうヶ峯の山中から経塚が発見され、経壺(室町期)が現存する。また尾根に古城跡があり、戦国時代の土豪和久氏の砦と伝える。「丹波志」は「天正ノ比、当所山ノ上城跡字ニ城山ト云、四方堀アリ馬場有掘抜井戸有」と述べる。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]大山田村広瀬

下阿波しもあわ村の西に位置する。馬野ばの川が当村の中央部を北流して服部はつとり川に合する。両川の合流点辺りより流れに沿って西方に少し田畠が開ける。東部の北浦きたうらを中心に広がるいぜき山の西南丘陵地帯には横穴式後期古墳が数基あり、服部川上流のいわゆる阿波谷における古墳分布の東限にあたる。西沖にしおき遺跡は古墳時代より平安時代にわたる重層遺跡である。平安末期から室町末期に至る寺院上来じようらい寺もこの辺りよりやや南東に存在したと推定される。建久元年(一一九〇)一二月一二日付源頼朝下文(東大寺続要録)に「山田郡内有丸并広瀬阿波杣山」とみえるのが早い。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]蓬田村広瀬

広瀬川流域一帯を占め、東は陸奥湾に臨み、南は瀬辺地せへじ村、西は中山なかやま山脈で中里なかさと(現北津軽郡中里町)、北は蟹田かにた(現蟹田町)に接する。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に「大瀬辺地村」高五五・八八石とある。広瀬村は当時大瀬辺地おおせべち村と称し、後の瀬辺地村は小瀬辺地村、後の山派やまはたち(現高根)が広瀬村と称したという。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高二二四・八石、うち田方一三五・六三四石、畑屋敷方八五・一六六石(数字は史料のとおり)、漆木九五三本などがあり、検地後村名を大瀬辺地から広瀬と改称したという。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]西有田町大字大木おおぎ

西部は有田川で境し、東部はまきノ山・青螺せいら山・黒髪くろかみ山の安山岩や流紋岩の噴出した山峰で囲まれ、広瀬川が深い谷をつくり西流し、有田川に注ぐ。

慶長絵図には「広瀬村 大木ノ内」とある。明治初年大木村となる。

村内に竜門りゆうもん陶石採掘場跡がある。県立自然公園の黒髪山や青螺山から流下する渓流は銀竜ぎんりゆうの滝となり、九州自然歩道も黒髪山からここを通り、唐船とうせんを経てくり峠に至る。安山岩質の角礫凝灰岩からなる青螺山域は急崖をつくり、洞穴があることなどから竜門の名も生れたのであろう。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]石和町広瀬

四日市場よつかいちば村の西に位置し、西は笛吹川を挟んで山梨郡むこう(現甲府市)。同川と鵜飼うかい川に挟まれた氾濫原の平坦地に立地する。中世は広瀬郷とよばれた。慶長古高帳では高九〇四石余、幕府領。ほかに八王子領五石余があった。貞享二年采地簿(臆乗鈔)では旗本斉藤・本田(本多)・中村・榊原・門奈領が設定されており、元禄郷帳でもこの旗本五氏領と八王子権現領。宝永二年(一七〇五)以降の領主の変遷は市部いちべ村に同じ。享保四年(一七一九)の検地帳写(鈴木佳金家文書)によると高九二一石余、反別は田方四八町七反余(麦田四町八反余・上田六町五反余・中田一七町四反余・下田一二町四反余・下々田五町九反余・新下々田一町四反余)・畑方一二町二反余(上畑二町七反余・中畑六反余・下畑四反余・下々畑二町一反余・新下々畑一町二反余・下林六畝余・屋敷五町余)、ほかに光躰寺境内一反余など合せて一町一反余の除地があった。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]鳥越村広瀬

手取川左岸、同川と支流直海谷のみだに川の合流点北西に位置し、集落は谷幅の広がった河岸段丘上にある。中世は山内やまのうち庄あるいは河内こうち庄に属している。「白山之記」に白山九所小神の一つとして「志津原明神、山内庄 (広脱カ)瀬」とみえる。大永神書(白山比神社文書)には「山内広瀬」の所在と記され、当地の産土神志津原しづはら神社に比定される。「三宮古記」によれば、「山内広瀬平」に滝菴室灯油田一段があった。貞和三年(一三四七)七月二五日の藤原重宗寄進状案と同日付の藤原重宗売券(ともに祇陀寺文書)によると、河内庄地頭藤原(結城)重宗が「河内庄広瀬村瀬切野」の地を祇陀ぎだ(現吉野谷村)開山の大智に売寄進しており、当時の広瀬村は現在の当地から南の瀬木野せぎの付近に比定される。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]長野市広瀬

東は村と谷川で境し、西は入山いりやま村と山林耕地で境し、北は飯縄原いいづなはらに続く。初見は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)で、「五百四拾五石五斗弐升弐合 広瀬村」とある。

「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に「院御領弘瀬庄」とあるのにあたる。中世は天文二三年(一五五四)の落合領桜庄七郷之造宮天文廿三取所覚(桃井文書)に「広瀬郷」、あるいは天正六年(一五七八)の下諏訪秋宮造宮帳に「落合領中広瀬之庄七郷」の一に「広瀬郷」とあるように広瀬庄・広瀬郷と称し、落合氏の所領であった。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]香寺町広瀬

中野なかの村の北、いち川の右岸に位置し、東は市川を挟んで神東じんとう郡中野村(現姫路市)生野いくの街道が南北に通り、村の西端を市川の支流恒屋つねや川が南流する。中世には的部南条いくはべなんじよう郷に含まれた。文明一四年(一四八二)八月一〇日の丹後・但馬両国檀那村付注文(肥塚文書)に「ひろせ(広瀬)村一ゑん(円)」とみえ、当村には広峯ひろみね神社(現姫路市)の信者がおり、これが檀那として同社御師の間で相続・売買の対象となっていた。同年の京都天龍寺塔頭の金剛院分播磨国的部南条郷荒川成坪付注文案(鹿王院文書)流田ながれだの地名がみえ、現広瀬の字上流かみなが・下流レ田にあたるものか。慶長国絵図に村名がみえる。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]匹見町広瀬

匹見川の中流域両岸に集落が点在し、東は千原ちばら村、北は津茂つも(現美都町)。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高一三〇石余、年貢高は田方三〇石余・畑方三五石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では有高一二八石余、免五ツ二分。匹見川で川漁が行われ、鮎・うるかを上納した。明治八年(一八七五)千原村を合併。広瀬の中央、匹見川右岸の茶屋ちやや集落に大元おおもと神社があり、主祭神は国常立尊。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]鈴鹿市広瀬町

津賀つが村の北西に位置する。「神鳳鈔」の「広瀬御薗」(誤って奄芸郡に入っている)の所在地。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「広瀬村」と出る。慶長一五年(一六一〇)から元和元年(一六一五)まで松平忠明領。その後幕府領として四日市代官の支配下にあったが、寛永一三年(一六三六)本多利次の入国とともに再び亀山藩領となり、幕末に及んだ。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]東金市広瀬

幸田こうだ村の東に位置する。享保期(一七一六―三六)に成立した町人請負新田。もと塚崎つかさき野と称される湿地帯で鷹場であった。寛永一九年(一六四二)に開発を出願し、天和期(一六八一―八四)・元禄期(一六八八―一七〇四)・宝永七年(一七一〇)に代官が調査したが、開発を反対する近隣一二ヵ村が柳沢吉保に陳情し断念させた。吉保の母が一之袋いちのふくろ村出身であったことによるという(小倉家文書)。反対理由は用水源・採草地であるとともに隠田があったためとされる。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]広瀬町広瀬

広瀬町を取囲む村で、北は石原いしはら村、西は祖父谷おじだに村、南は下山佐しもやまさ村。広瀬町との境に富田とだ八幡宮が鎮座する八幡山(勝日山)があり、その西方に三笠みかさ山・妙見みようけん山がある。「出雲栞」に「広瀬ト云フモ、川ノ幅広ク、瀬強キ所ヲ埋メテ、斯ク名ツケシナリ、方今ハ川ノ南ヲ富田ト云ヒ、川の北ヲ広瀬ト云フ」とある。北とあるが西が正しい。八幡山南方の丘陵地に八幡山古墳があり、人骨・剣などが出土し、また八幡山横穴墓群から耳輪・土器などが出土している。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]清水市広瀬

くさ村・尾羽おばね村の北東、波多打はたうち川の中流域に位置する。天正一一年(一五八三)一二月一七日の穴山勝千代朱印状(鷲宮神社文書)に「岩間分興津之内広瀬」とみえ、当所の岩間分のほか三郎兵衛分・金三分など計一〇貫九〇文が周桂斎に与えられている。寛永九年(一六三二)の徳川忠長改易後は幕府領、明暦二年(一六五六)ないし元禄一一年(一六九八)から一部が旗本滝脇松平領、のち小島藩滝脇松平氏領となる。安永七年(一七七八)残る幕府領も旗本秋山領となって、以後小島藩領・秋山領の相給で幕末まで続く(「寛政重修諸家譜」・旧高旧領取調帳・明治四年旧桜井県事蹟取調書など)

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]山添村大字広瀬

名張なばり川西岸、片平かたひら村の東北に位置する。応和二年(九六二)八月二〇日付の転経院牧地等去文案(東大寺文書)、康保元年(九六四)九月二三日付の伊賀国名張郡司解案(同文書)、同年同月二五日付の大和国都介郷刀禰等解案(同文書)に「広瀬牧」の名がみえ、梁瀬一ヵ所が記されている。「国民郷士記」に地侍山中宗助・福村九右衛門の名を記す。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]院内町広瀬

津房つぶさ川中下流の山間部に位置し、北は小坂おさか村、東・南・西は現安心院あじむ町に囲まれる。小倉藩元和人畜改帳では高一六二石余、家数一六・人数七〇(うち百姓一〇・牢人二・名子二)、牛九・馬五。延宝八年(一六八〇)には香下組に所属し、人数一六〇(「人畜帳」庄家文書)。元禄豊前国高帳では高一九六石余。文化九年(一八一二)の農民一揆では大江組・中村組の農民が集結し、中津城下への侵入の勢いを示した(党民流説)。中津藩郷村高帳(中津市立図書館蔵)によると、享保二年(一七一七)の高一九〇石余で、天保三年(一八三二)の下書によると高一九一石余で、四石余が享保七年から文化二年までの出高、天保四年の下書では高一九五石余で、うち三八石余が永荒川欠池溝成高とみえる。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]倉吉市広瀬

岩倉いわくら村の南方、広瀬川の中・上流域の谷間に位置し、本村奥の枝谷には狼谷おおかみだにの集落がある。地内には金小屋かなごや釜床かまどこ鉄穴谷てつあなだになどの字があり、かつては蹈鞴吹による産鉄が行われていたと思われる。また古代末―中世の広瀬廃寺がある。拝領高は一九二石余、本免は五ツ一分。倉吉荒尾氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高二三〇石、竈数三四、村内に白山権現・稲荷大明神・荒神・山神を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三五七石余、竈数四三。藪役銀四匁・山役米七斗二升が課されていた(藩史)。享保一九年当村領分の草山を秣場としていた石塚いしづか上古川かみふるかわ蔵内くらうちの三ヵ村と当村との間で相論が起きている。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]大正町弘瀬ひろせ

蛇行しながら西流する仁井田にいだ川が大きく南東に弧を描き、再びもとの地点に北流する辺り、現高岡郡窪川くぼかわ町と境を接するところにある。上山かみやま上分かみぶんの一村。「土佐州郡志」は「弘瀬村 東限仁井田家地川、西限北之川、南限打井川界山、北限仁井田之秋丸、東西四十町南北二十町、戸凡十八、有渡船二艘、其土黒」と記す。「南路志」・天保郷帳も弘瀬と表記。

村名は慶長二年(一五九七)の上山郷地検帳にみえ、当時は喜多川きたのかわ村を構成する一村で、土地はすべて「上山分」である。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]池田町広瀬

足羽あすわ川を挟んで谷口たにぐち村の西の山裾にあり、野尻のじり村の南に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高一五四・二三石と記される。正保郷帳によれば田方一一七石余・畠方三六石余。享保六年(一七二一)の池田郷中村々明細帳の写(片山家蔵)には反別一一町六反余(うち畠地二町八反余)、家数一一(本百姓三・水呑一・譜代家持七)、人数七一(男四二・女二九)、牛一・馬九とあり、小物成には夫米・山手米・三杷木役・漆役・糠代・藁代・室役が記される。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]春日町広瀬

村中を竹田たけだ川が流れ北は上三井庄かみみのしよう村。古くは王子おうじ谷と称された(丹波志)。明応六年(一四九七)六月四日、幕府政所内談寄人参勤衆に丹波国広瀬久富名の年貢米二〇石をめぐって、京都北野社僧盛輪院禅任と多紀たき大山おおやま(現篠山市)の中沢又次郎数綱が相論していることが披露されている(「政所内談寄人参勤衆交名」蜷川家文書)。領主の変遷は産所さんじよ村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高二一九石余・畠高五五石余。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]南牧村広瀬

千曲川の曲折する左岸の小段丘上にある集落。広瀬の南方約二キロに川平かわだいらの集落がある。標高は一一〇〇メートルで段丘の稲作と野辺山原のべやまはらの野菜作りが主。村域を南北に通る道は佐久甲州道の古道の一つといわれ、南の現川上かわかみ村とは、大蔵おおくら峠をもって通じ、北側の現南相木みなみあいき村とは臨幸りんこう峠・合羽かつぱ坂をもって通じる。

慶長一五年(一六一〇)の貫地帳(竹内文書)では、「四貫文 広瀬村」と記す。慶長一一年の新宿板橋いたばしが甲州道へ設置された件について、野辺山原の入会村として、「平沢・広瀬・海口・南ひ沢・五所平・原・大宮山・居倉・秋山」とともに九ヵ村連名で触書をうけている(丸山史料)

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]上川村神谷かみたに 広瀬

室谷むろや川左岸に位置し、北東は栃堀とちぼり村。「新編会津風土記」に家数一二、南西の端村楢山ならやま新田は六とある。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「広瀬 廿四石八斗四升」とある。元和六年(一六二〇)の漆木役は一七〇本七分(津川旧記)。宝暦五年(一七五五)の紙役は一束で、津川紙として上納されている(伊藤啓助氏蔵文書)

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]和知町字広瀬

かど村の西、由良川北岸にある村。北部には五〇〇メートルを超える山が連なり、その南斜面には東と西に二つの谷が形成される。東谷は深く大きく谷間に人家が点在し、南辺扇状台地上に集落がある。村域はかなり広いが大部分が山地である。東はなか村、南は由良川を越えて出野いでの村・稲次いなつぎ村、西は才原さいばら村、北は何鹿いかるが(現綾部市)。園部藩領。中世は和智わち庄の地。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]杵築市本庄ほんじよう

宗近むねちか村の西方にあり、八坂やさか川の土砂堆積によって生れた。広瀬田井たいとよばれる広い平地で、日出藩領八坂村からの八坂川北用水を利用して米と七島藺を栽培した。小倉藩元和人畜改帳では木付きつき廻上八坂に属し、高一一一石余、家数一一・人数六〇(うち百姓一〇・名子一・下人一一)、牛一〇・馬一。元禄郷帳では高九三石余。八坂川流域の堆積と埋立が進み、水田化され、文久三年(一八六三)の田畑根付目録(工藤家文書)では田一二町六反・畑三町七反とある。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]門前町広瀬

日野尾ひのお村の東、はつヶ川中流南岸平地に立地。同川支流栃木とちのき川が地内で合流する。正保郷帳に村名がみえ、走出はしりで村などと並記されて高付されている。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高六〇石余、免五ツ八分(三箇国高物成帳)。享保二〇年(一七三五)の家数二七(「奥両郡高免付込帳」中谷文書)

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]松阪市広瀬町

下茅原田しもちはらだ村の北東、櫛田くしだ川の左岸にあり、東は鳥羽藩領御麻生薗みおぞの村。中世は伊勢神宮領が成立しており、「神鳳鈔」に「広瀬御薗」とある。中世後期には北畠氏の支配下であったと考えられ、伊勢国司分限帳(神宮文庫蔵)に「藤氏飯高郡広瀬住 大河内従騎 久保三河守 同 右近将監」の記載もみられる。

文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「飯高郡ノ内広瀬村」と記されている。近世は和歌山藩松坂領。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数七七、人数三二九。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]金山町岩瀬いわせ 広瀬

馬瀬まぜ川東岸にあり、対岸は祖師野そしの村。美濃国郡上ぐじよう郡に属する。正保郷帳に村名がみえ、田一〇石余・畑二八石余、郡上藩領。正保三年(一六四六)分知により旗本遠藤領となる。明治二年(一八六九)の村明細帳によれば高五三石余、田一町余・畑四町余、新田高三斗余・田二畝余・畑二畝余、家数一三・人数八八、馬四。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]本渡市本渡町広瀬

本戸馬場ほんどばば村の西に位置し、枝郷に茂木根もぎね村がある。茂木根横穴群(古墳時代終末期)は天草唯一の横穴古墳。正保郷帳に村名がみえ、高一三二石余。同郷帳に茂木根村の高九八石七斗余とある。万治二年(一六五九)石高半減により一五五石一斗余となった(天草風土考)。御領組に属し、庄屋は堀田家。「国志草稿」に竈数二二・男女数八九とある。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]広陵町大字広瀬

葛城川・曾我川の中間、大場おおば村南方に立地する。「大和志」に属邑五とある。近世を通じて多武峯とうのみね領。村高七六六・一六石。享和三年(一八〇三)の郷帳では枝村に田中たなか村・林口はやしぐち村がみえる。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]菊池市広瀬

木柑子きこうじ村の東にあり、北は菊池川を挟んで広瀬古閑ひろせこが村に接する。隈府わいふ町高札辻より約一里五町。天正一七年(一五八九)の検地帳に田一町八反一畝余・畠一〇町四反九畝余・居屋敷一町七反五畝余、分米一一五石五斗とある。近世は河原手永に属し、文化一一年(一八一四)頃の河原手永手鑑に高一四〇石三斗余、田五町二反六畝余・畑五町四反余、竈数三五・人数一七三、駄馬五五、氏神天満宮とあり、定橋一ヵ所があった。

広瀬村
ひろせむら

室見むろみ川右岸の広瀬一帯に比定される。嘉保三年(一〇九六)六月二九日の貫首大蔵種房寄進状案(修学院文書/平安遺文一〇)には大蔵種房から背振せふり山に寄進された早良郡横山よこやまの地の四至として、「西限持井広瀬大隈長峯松」とみえる。天文一五年(一五四六)二月二七日の幸久次証文(鳥飼文書)によると幸久次は山口の費用として、「ひろせの宮」修理免田を所持している石釜新兵衛(鳥飼俊久)から社米一石を借りている。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]熊谷市広瀬

大里郡深谷領に所属(風土記稿)。荒川の沖積扇状地上に位置し、東は石原いしはら村、南を荒川が限る。村内を東西に秩父往還が通る。慶長四年(一五九九)の広瀬郷検地帳写(高橋家文書)が残る。田園簿では田方三七〇石余・畑方一三二石余、旗本水野領。国立史料館本元禄郷帳では旗本島田・加藤の二家の相給。

広瀬村
ひろせむら

金田かなだ町北部の広瀬を遺称地とする。応永一三年(一四〇六)六月七日の清正本物返所領質券(樺山文書)によれば、清正はほん郷内広瀬の村を同年から三年を限り本物返し五五貫文で質入れした。同一五年八月一〇日、広瀬は同じく北郷内のつつみ・釜川とともに三年の本物返しで一〇五貫文で清正から樺山氏に売渡されている(「清正売券」同文書)

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]豊前市広瀬

高田たかだ村の南、佐井さい川中流域左岸に位置する。江戸時代の領主の変遷は今市いまいち村に同じ。元和八年人畜改帳に村名がみえ給人分、家数一八・人数三七(うち百姓三)、牛三・馬二。江戸前期と推定される郡中割高(矢野文書)によれば免五ツ四分、高一〇三石余、竈数一七・人数八七。

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]三重町松尾まつお 広瀬

内田うちだ村の北東、北東流する三重川流域にあり、西方で高屋たかや川が三重川に合流する。文政(一八一八―三〇)頃までに松尾村から分村したらしく、同六年には小坂組に属した(万用集)

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]天川村大字広瀬

てんノ川右岸、滝尾たきお村の上流に立地。天川三名てんかわさんみよう郷に属する。慶長郷帳では村高七九・一四石、幕府領(代官大久保長安)

広瀬村
ひろせむら

[現在地名]仁多町三成みなり

下三成村の北に位置する谷間の集落。東は矢谷やだに村。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高一八二石余、寛文四年(一六六四)の本田高一八〇石余・新田高一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報