神崎郡(読み)かんざきぐん

日本歴史地名大系 「神崎郡」の解説

神崎郡
かんざきぐん

面積:二二八・七五平方キロ
能登川のとがわ町・五個荘ごかしよう町・永源寺えいげんじ

県東部、東の鈴鹿山脈から西の琵琶湖にかけて東西に細長く延びる。現在は八日市市により中央を分断され、西部の能登川町五個荘町と、東部の永源寺町に分れる。西部は琵琶湖に西面し、北は彦根市、東は愛知えち愛知川えちがわ町・湖東ことう町、南は蒲生がもう郡安土町。東部の北は愛知郡愛東あいとう町・犬上いぬかみ郡多賀町・三重県員弁いなべ藤原ふじわら町、南は蒲生郡日野町・甲賀こうか土山つちやま町、東は員弁郡北勢ほくせい町・大安だいあん町と三重県三重郡菰野こもの町などに囲まれる。旧神崎郡域は八日市市北東半部と彦根市西端部、愛知川町の西部を含む。永源寺町域は愛知川に沿った中央部のみが旧神崎郡で、北・東は愛知郡、南は蒲生郡に属していた。郡の北境は、鈴鹿山脈の一〇〇〇メートル級の山から流れ出て北西流する愛知川の左岸に沿って延びる。愛知川は五個荘町域できぬがさ山丘陵に阻まれて北へ流れを転じ、五個荘の低湿地と能登川町域の大中だいなかの湖・小中しようなかの湖などの内湖を形成した。南境は鈴鹿山脈の雨乞あまごい岳から八日市丘陵・箕作みつくり山・繖山・安土山・大中の湖を結ぶ線で画されていた。能登川町域をJR東海道本線と旧朝鮮人街道、五個荘町域を国道八号(ほぼ旧中山道)と東海道新幹線が北東から南西へ走る。旧中山道からは旧御代参ごだいさん街道が南へ分岐している。永源寺町域は四二一号(ほぼ旧八風街道に沿う)が愛知川に沿って横断しており、古くは八風はつぷう街道の八風峠、千草ちぐさ越のひら峠など伊勢への峠道数本があった。

〔原始・古代〕

郡内では現在のところ旧石器時代の遺構は確認されていないが、能登川町中沢なかざわ斗西とのにし遺跡で、後期旧石器時代に比定されるナイフ形石器・エンドスクレーパー・有舌尖頭器などの発見が報告されている。縄文時代の遺跡では、能登川町から安土町にかけて広がる大中だいなか湖南こみなみ遺跡で前期の遺物が検出され、中期の遺物が能登川町大中の湖東遺跡で確認されている。縄文時代後期の遺跡としては、能登川町善教寺ぜんきようじ遺跡などがあり、晩期後半では、五個荘町木流きながせ遺跡などが知られる。その他、微高地の外縁部や低湿地に近い微高地上に縄文時代晩期の遺跡が所在することが確認されている。弥生時代の遺跡は、愛知川下流域左岸の微高地上に多く認められる。とくに能登川町みやまえ遺跡では、弥生時代中期から後期の遺物が多量に出土し、木棺墓・方形周溝墓・柱穴群などの遺構が検出されている。同遺跡はまた玉作り関連の遺物の出土でも注目される。前出大中の湖南遺跡では、中期を中心として前期の遺構・遺物もわずかながらみられた。

神崎郡
かんざきぐん

面積:三六二・三一平方キロ
神崎かんざき町・大河内おおかわち町・市川いちかわ町・福崎ふくさき町・香寺こうでら

県の中央部やや南寄りに位置し、南は姫路市、東は加西市と多可たか八千代やちよ町・加美かみ町、北は朝来あさご生野いくの町、西は宍粟郡一宮いちのみや町・飾磨しかま夢前ゆめさき町と接する。東西約一〇キロ・南北約四〇キロに及ぶ南北に長大な郡域の中央を市川が南流する。郡の南半部の市川沿岸に狭小な盆地が散在するが、大部分は山地からなる。郡名は「播磨国風土記」に神前かんざき郡とみえ、「和名抄」には神埼かんざき郡と記される。「播磨国風土記」は郡名の由来として伊和大神の子建石敷命を山崎の山に祀ったとの地名説話を載せる。「和名抄」東急本には「加无佐支」と訓が付され、「延喜式」神名帳にみえる傍訓もカムサキである。古代から現在まで播磨国の中央部に位置し、当初の郡域は東を多可・賀茂かもの両郡、南を飾磨郡、西を飾磨・宍粟の両郡、北を但馬国朝来郡に囲まれていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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