石川郡(読み)いしかわぐん

日本歴史地名大系 「石川郡」の解説

石川郡
いしかわぐん

面積:二九三・二七平方キロ
浅川あさかわ町・石川いしかわ町・平田ひらた村・玉川たまかわ

福島県南東部、中通りの南部東側に位置し、東はいわき市・東白川郡古殿ふるどの町、南は同郡鮫川さめがわ村・棚倉たなぐら町、西は西白河郡ひがし村・中島なかじま村・矢吹やぶき町、岩瀬郡鏡石かがみいし町、北は須賀川市・郡山市・田村郡小野おの町に接する。郡域西端を北流する阿武隈川とその支流域の平地を除き、ほとんどが阿武隈高地の丘陵地に位置する。当郡北東端の蓬田よもぎだ(九五二・二メートル)は郡内最高峰で、郡山市・須賀川市と平田村との境界になっており、須賀川市の東山・蝦夷えぞ岳に連なっている。平田村南東端のしば(八一九・二メートル)はいわき市および古殿町の境をなす。郡内北部から東部にかけての山間部から流出する小河川は、北須きたす川の千五沢せんござわダムによって形成された母畑ぼばた湖に注ぎ、同川は石川町を南西流する。浅川町から北流してきたやしろ川は北須川を合流、さらに北流して石川町北西端で阿武隈川に注いでいる。

郡南東部は古殿町に接する丘陵地域だが、石川町双里そうり形見かたみ地内から古殿町へは地溝状の谷底平野が通じ、付近には中世以来の地名が残るとともに、中通りと浜通りを結ぶ御斎所ごさいしよ街道のルートでもあった。郡南部は浅川町が南西に向かって半島状に突出し、同町域を蛇行して流れる社川には氾濫原がみられる。現在、御斎所街道は主要地方道いわき―石川線となっており、郡域西部を国道一一八号が南北に走り、平田村北東部を国道四九号、同村南東端を国道三四九号が走る。また、国道一一八号と並行しながらJR水郡線が南北に縦走する。

〔原始・古代〕

後期旧石器時代の早い時期の遺跡として、石川町の上悪戸かみあくど遺跡、背戸せとA・B遺跡があり、玉川村の薬師堂やくしどう遺跡は後期旧石器時代の新しい時期に属する。これらの遺跡は阿武隈川東岸にあり、石川町新屋敷あらやしきの縄文時代の田上でんじよう遺跡、弥生時代の鳥内とりうち遺跡、大壇おおだん古墳群、同町中野なかのの悪戸古墳群、玉川村川辺かわべみやまえ古墳などと隣接するように連なっている。このうち背戸B遺跡からは、東北的なナイフ形石器と西南日本的なナイフ形石器が伴出したことが注目される。縄文時代の遺跡は多数発見されているが、草創期の石川町赤羽の達中久保あかばねのたつちゆうくぼ遺跡、中期の石川町中野の七郎内しちろううちC遺跡と玉川村竜崎の上代たつざきのうわだいA遺跡、中期末の敷石住居跡をもつ石川町長郷田おさごうだ遺跡、中期から後期初頭にかけての集落遺跡で複式炉をもつ平田村上蓬田の三斗蒔さんとまき遺跡、後期初頭の甕棺が出土した田上遺跡などが知られる。弥生時代の遺跡としては、初期の再葬墓群で県指定史跡の鳥内遺跡がある。

石川郡
いしかわぐん

面積:七〇八・八〇平方キロ
白峰しらみね村・尾口おくち村・鳥越とりごえ村・吉野谷よしのだに村・河内かわち村・鶴来つるぎ町・野々市ののいち町・美川みかわ

県南東部、旧加賀国のほぼ中央に位置する。昭和四五年(一九七〇)の市制施行により当郡から分離した松任まつとう市を間に挟み、郡最西端に飛地化した美川町と、手取川扇状地から白山麓に広がる他の二町五村に分れる。前者の東は松任市、南は川北かわきた町・根上ねあがり町、北西は日本海に臨む。後者の東は金沢市と、奈良なら(一六四四・三メートル)おいずるヶ岳(一八四一・四メートル)・白山御前ごぜん(二七〇二・二メートル)などの白山山系の稜線を境に富山県上平かみたいら村、岐阜県白川しらかわ村・荘川しようかわ村に接し、西は松任市・川北町・辰口たつのくち町・小松市、南は福井県勝山市・大野市に接する。白峰村域の白山南西麓に源をもつ手取川は、上流部で多数の支流を集め、郡域をほぼ北流して鶴来町の谷口から西流し、能美のみ郡域を経て美川町で日本海に注ぐ。また鶴来町などで取水する手取川七ヶ用水を中心に、おびただしい分流網が広大な手取川扇状地に発達している。そのため、郡名の由来は旧郡域の主要部が手取川の氾濫原をなすという地形・景観に基づくといわれる。金沢市から野々市町・鶴来町を経て手取川沿いを走る国道一五七号が当郡域の主要交通路となっており、勝山市に至る。なお旧郡域は時代的変化をもつが、ほぼ現在の当郡域および松任市と金沢市南半とされる。

〔原始・古代〕

縄文時代の遺跡は、犀川や手取川上・中流域と金沢平野に分布する。河川流域の台地・丘陵部に形成された集落遺跡として、金沢市の中戸なかと瀬領せりよう東市瀬ひがしいちのせ笠舞かさまいの各遺跡、鶴来町の舟岡山ふなおかやま白山上野しらやまうえのの各遺跡、河内村の福岡ふくおか遺跡、鳥越村の下野しもの遺跡、吉野谷村の吉野ノミタニ遺跡などがあり、平野部には金沢市の古府こぶ北塚きたづか米泉よないずみ新保本町しんぼほんまちチカモリ・中屋なかやの各遺跡、野々市町の御経塚おきようづか遺跡、松任市の長竹ながたけ遺跡など重要な遺跡が数多く分布する。弥生時代に入ると、まず松任市や金沢市西部の低湿地で水田経営が始まり、松任市の八田中はつたなかいぬいの各遺跡や金沢市の矢木やぎジワリ遺跡などが知られる。弥生後期には集落遺跡の増加が顕著であるが、山陰系首長墓である四隅突出形墳丘墓が松任市の旭工業団地あさひこうぎようだんち遺跡に出現し注目された。初期古墳として、金沢市北塚地内や野々市町の御経塚シンデン遺跡などで発見された前方後方墳を含む古墳群が知られるが、中期古墳としては、埴輪列を伴った金沢市の長坂二子塚ながさかふたごづか古墳(前方後円墳)が著名である。古墳時代には、五世紀代を中心に碧玉製の管玉や石釧の生産が盛んとなるが、松任市の竹松たけまつ遺跡や金沢市の高畠たかばたけ遺跡が玉作集落として知られる。

石川郡
いしかわぐん

「和名抄」にみえ、東急本に「以之加波」の訓がある。北は安宿あすかべ郡・古市郡、西は丹比たじひ(丹南)郡・錦部にしごり郡、南もおおむね錦部郡と接し、東は二上にじよう山から金剛山地を境に大和国に接する。石川右岸を主とし、古市郡とは石川を隔てて隣接している部分があるが、現富田林とんだばやし市の喜志きし中野なかの新堂しんどうの辺りでは石川左岸も石川郡の境域となっていたようである。その南では、石川の支流の東条とうじよう川と佐備さび川の流域が当郡に属していた。ただし佐備川と石川の合流点に近い現富田林市の板持いたもち付近では、佐備川が錦部郡との境をなしていたかと思われる。なお石川本流の上流域は錦部郡の境域に入る。郡域は現在では南河内郡太子たいし町・河南かなん町・千早赤阪ちはやあかさか村の全域と羽曳野はびきの市の一部分、富田林市の東半に相当する。そのうち羽曳野市の大黒おぐろ壺井つぼい通法寺つうほうじの地区(石川右岸の地)は郡界の変動により、近世では古市郡に属していた。

〔古代〕

「和名抄」によると当郡は佐備・紺口こんく新居にいい大国おおくにの四郷からなるが、ほかに山代やましろ(城)郷・波多はた(太)郷・余戸あまりべ郷・科長しなが郷の名も史料にみえる。条里の跡はとくに東条川流域の平地に顕著に存している。文献では元慶七年(八八三)九月一五日付の観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書)に二条から七条までの記載があり、南から北へ数えたようである。遺存する痕跡から数えると、東条川の流域には約一〇条にわたる条里があったと考えられる。河川名としての石川の名は、「日本書紀」仁徳天皇一四年条に「大溝を感玖こむくに掘る。乃ち石河の水を引きて」とあって古くから存したことが知られ、同書敏達天皇一二年条に、百済から渡来した日羅の妻子らを「石川に居らしむ」とあり、石川は地域の名となっていたことがわかる。また同じ条に、その後妻子を「石川の百済村」に置いたとあり、百済くだら村はのちの錦部郡百済郷(現富田林市)に相当すると思われるから、のちの錦部郡の地も石川とよばれていたことがわかる。郡名としての初見は、「続日本紀」慶雲三年(七〇六)五月一五日条に「河内国石川郡人河辺朝臣乙麻呂、献白鳩」とある記事である。古文書では天平六年(七三四)五月一日付造仏所作物帳(正倉院文書)に「土三百六十斤玉和合壺料、河内国石川郡土」とあるのが最も古い。ガラス玉の原料を練合せる壺を作る土を石川郡から採取したことを示す。

石川郡の名が最も多くみえる古文書は、正倉院に蔵する勘籍(初めて官位に就く者の身元を戸籍によって調べたもの)で、天平勝宝二年(七五〇)三月一九日の嶋吉事(石川郡紺口郷)、同年三月二三日の山代伊美吉大村(同上)、同年月日の佐伯諸上(石川郡佐備郷)、同年(月日不明)の草原乙麻呂(石川郡紺口郷)の勘籍が存する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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