田村郡(読み)たむらぐん

日本歴史地名大系 「田村郡」の解説

田村郡
たむらぐん

面積:六五六・一七平方キロ
小野おの町・滝根たきね町・大越おおごえ町・常葉ときわ町・都路みやこじ村・船引ふねひき町・三春みはる

県の東部に位置し、東は双葉郡浪江なみえ町・大熊おおくま町・川内かわうち村、いわき市に、南は石川郡平田ひらた村、西は郡山市、北は安達郡白沢しらさわ村・岩代いわしろ町、双葉郡葛尾かつらお村に接する。阿武隈高地の中ほどに位置し、東部は山・大滝根おおたきね山・矢大臣やだいじん山など一〇〇〇メートル級の高山が点在する高原地帯で、これらの山々を源とする夏井なつい川・古道ふるみち川が東流して太平洋に注ぎ、流域に狭小な平地が開ける。西部は阿武隈川が形成する低地に向かって徐々に傾斜する丘陵地帯で、この間を縫って谷田やた川・大滝根川・うつし川が西流して阿武隈川に注ぎ、流域の所々に盆地状の平坦部をつくっている。郡山市からいわき市へ至るJR磐越東線が三春・船引・大越・滝根・小野の五ヵ町を通る。国道二八八号(一部旧都路街道)が郡山市から大熊町へ横断し、国道三四九号が岩代町からいわき市へ縦貫する。なお田村郡は近世初期、蒲生氏郷領時代に中世の田村庄・小野保域を合せて成立。

〔原始―中世〕

常葉町の上野うえの和尚おしようわき両遺跡から旧石器時代のバックド・ブレードが出土している。船引町前田まえだ遺跡からは敷石住居跡と環状列石が発見されている。古代の安積あさか郡八郷(和名抄)のうち小野郷は、現小野町・滝根町域に比定されている。小野町赤沼の無量あかぬまのむりよう寺には平安時代の木造阿弥陀三尊像(県指定重要文化財)が残る。

「古今著聞集」巻二〇(馬允某陸奥国赤沼の鴛鴦を射て出家の事)に「みちのくに田村の郷の住人、馬允なにがし(中略)あかぬまといふ所に」とみえ、鴛鴦伝説の分布から少なくとも大滝根川下流の田村郡西部(現郡山市の阿武隈川以東)一帯を田村郷と称したと推定される。一四世紀には田村庄と小野保の存在を知ることができ、田村庄は室町時代を通じて紀州熊野新宮領で、同庄六六郷内の諸村から年貢を貢納している。田村庄の庄域は現在の三春町・船引町・常葉町の全域と大越町・小野町の一部、および阿武隈川以東の郡山市域に比定される(永禄一一年七月吉日「熊野山新宮年貢帳」青山文書)。田村庄の南に接していた小野保は小野六郷と称し、飯豊いいとよ谷津作やつざく田原井たわらい羽出庭はでにわ広瀬ひろせ菅谷すがやの六郷からなっていたといわれ、ほぼ現在の小野町・滝根町にあたると考えられる(正保二年「二万石三万石差別覚書」川又家文書)。田村庄は鎌倉時代から南北朝期にかけて秀郷流藤原氏が田村氏を名乗り支配したものと推定される。なお延元三年(一三三八)一一月一一日の北畠親房御教書写および興国元年(一三四〇)正月二二日の北畠親房御教書写(ともに松平結城文書)の「田村庄司」の記述から、当時の田村氏の支配は庄司職に基づくものであったとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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