美濃郡(読み)みのぐん

日本歴史地名大系 「美濃郡」の解説

美濃郡
みのぐん

面積:四三二・九二平方キロ
美都みと町・匹見ひきみ

県の南西部に位置。近世までの美濃郡は石見国の南西部にあたり、北から西は日本海に臨み、南は鹿足かのあし郡、東は安芸国に接していたが、現在は郡の西部が割かれ、益田市が成立している。なお鹿足郡は承和一〇年(八四三)に美濃郡を割いて成立したもので(続日本後紀)、鹿足郡の成立以前、当郡の西は長門国・周防国に接していた。美農・美乃・美野などとも記す。「石見外記」によると、郡名の美濃は大農おおの・美濃・小野おのの大・中・小の三野を意味するという。

〔古代〕

平城京二条大路跡出土木簡に「石見国美濃郡大野郷高葛里」とみえる。神護景雲二年(七六八)美濃郡人額田部蘇提売が節婦とされ、田租が終身免除となった(「続日本紀」同年二月八日条)。承和一〇年には「美農郡」を分割して鹿足郡が新しく立てられた(「続日本後紀」同年五月八日条)。「文徳実録」斉衡元年(八五四)一一月三〇日条によれば、石見国で醴泉が発見されたが、その泉水の献上によって元号が仁寿(八五一―八五四)から斉衡に変わり、美濃郡大領檜前淡海麻呂が正六位上に叙されている。「三代実録」貞観六年(八六四)二月一七日条によると、先年「美乃郡」海岸に新羅国人三〇余人が漂着したが、行程における食糧を給し締出している。元慶五年(八八一)には美濃郡都茂つも丸山まるやま(現美都町)で銅を産出し、勅により検察がなされた(同書元慶五年三月七日条)。「和名抄」は都茂・益田・苓気つたき山田やまだ山前やまさき・大農・美濃・小野の八郷を載せる。「延喜式」神名帳記載の郡内小五座は菅野天財若子命神社(所在不明)、佐売山神社(現益田市乙子町の佐比売山神社に比定)、染羽天石勝命神社(現同市染羽町の染羽天石勝神社に比定)、櫛代賀姫命神社(現同市久城町の櫛代賀姫神社に比定)、小野天大神之多初阿豆委居命神社(現同市戸田町の小野神社に比定)である。郡家は美濃郷内にあり、「島根県史」は現益田市美濃地みのじ城九郎じようくろうに、「益田市誌」は美濃地町本郷もとごうに比定している。益田平野の現益田地区・吉田よしだ地区の一部で条里地割が確認された。柿本人麻呂の出生地は戸田とだ(現益田市)、終焉地はかも(現同上)にあった鴨山と伝える。戸田には語家伝説、高津たかつには鴨島伝承がみられ、ともに柿本かきのもと神社が鎮座する。鴨島にあったという人丸ひとまる社、益田川河口付近にあったという古刹安福あんぷく寺・妙福みようふく寺・福王ふくおう寺・蔵福ぞうふく寺・専福せんぷく(現同上)の五ヵ寺は、万寿三年(一〇二六)の大津波によって水没流失したと伝える。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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