吉野郡(読み)よしのぐん

日本歴史地名大系 「吉野郡」の解説

吉野郡
よしのぐん

面積:二二五七・六七平方キロ
西吉野にしよしの村・下市しもいち町・黒滝くろたき村・大淀おおよど町・吉野よしの町・東吉野ひがしよしの村・川上かわかみ村・下北山しもきたやま村・上北山かみきたやま村・十津川とつかわ村・大塔おおとう村・野迫川のせがわ村・天川てんかわ

奈良県の南部にあり、面積は県全域の六〇パーセント強を占める大郡であるが、人口は七万七千余にすぎない。東は三重県、南と西は和歌山県に接する。紀伊半島の中心部に位置していわゆる外帯に属し、吉野川の北側を東西に中央構造線が走っている。北の竜門りゆうもん山塊は、東と南に急傾斜して北西に緩く傾き、奈良盆地の南限をなす。年雨量四〇〇〇ミリを超える大台おおだいはら山に源を発して吉野山地の北岸を削りながら西流する紀ノ川の上流吉野川の急流は、岩をかみながら南の吉野山地と北の竜門山塊を区切って吉野の河谷をつくる。吉野山地は古生層・壮年期の地質構造をなす険峻な山岳地帯で、山脈全体の方向は東西であるが、南流する東の北山きたやま川と西の十津川によって、中央に大峰山脈、左右に台高だいこう伯母子おばこの両山脈に三分されている。南北に縦走する三山系は一〇〇余キロにわたる紀伊きい山脈となって連なり、和歌山・三重の県境をなしている。山上さんじようヶ岳(一七一九・二メートル)仏経ぶつきようヶ岳(一九一四・九メートル)釈迦しやかヶ岳(一七九九・六メートル)をはじめとして、一〇〇〇メートルを超える山々が連なり、いわゆる近畿の屋根ともよばれる。南太平洋の湿気を含む大気が北上して凝結するのに適した高地であるため、気候は海洋の影響を受けた山岳性気候である。とくに夏は雨が多く、森林がよく茂り、水資源が豊富である。

郡名は「和名抄」に吉野郡と記し、刊本に「与之乃」と訓ずる。吉野の名は古く「古事記」の神武天皇東征の条に「吉野川の河尻」、「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午年八月条に「吉野の地」とみえる。芳野とも、余思努(「万葉集」巻一八)、美曳之弩能曳之弩(「日本書紀」天智紀一〇年一二月条)とも書かれた。「続日本紀」大宝二年(七〇二)六月六日条に「大倭国吉野宇知二郡」、同書の和銅四年(七一一)四月九日条に「大倭国芳野郡」とみえる。

現吉野郡の郡域は古来の吉野郡とほぼ等しい。現郡域に現宇陀郡大宇陀町の上竜門地区七大字を併せ、現大淀町大字佐名伝さなてを除いたものが旧吉野郡である。

〔原始〕

縄文時代の遺跡は、吉野川と支流の高見たかみ川・四郷しごう川・鷲家わしか川などの河岸段丘上に営まれたものが主である。東吉野村の大字鷲家・三尾みお、川上村の大字大滝おおたき五社ごしや峠周辺、吉野町大字南国栖みなみくず焼神やきがみ、大字国栖のタイノウエ・井戸いどもとなどに縄文式土器片やサヌカイト片などが小規模に散布するが、いずれも遺跡の実体は明らかでなく、発掘調査も実施されていない。

吉野郡
よしのぐん

美作国北東部、吉野川上流域に立地。史料上、明確な行政単位としてみられるのは近世からで、明治三三年(一九〇〇)英田あいだ郡と合併して新たに英田郡となるまで存続する(→英田郡。その間の郡域を正保郷帳に載る村名でみると、現在の英田郡西粟倉にしあわくら村・東粟倉村大原おおはら町、作東さくとう町の北部、美作町の北端部、勝田かつた郡勝田町の南端部、さらに兵庫県佐用さよう郡佐用町の北部に及ぶ。南は英田郡、西は勝北しようぼく郡に接し、北は因幡国境、東は播磨国境である。古代は英多あいた郡に含まれ、「和名抄」東急本では同郡内に吉野郷がみえ、中世には吉野保(現作東町か)が成立している。英田郡から分れた時期は未詳。応仁二年(一四六八)一二月二九日の後花園上皇院宣(案文消息類)に「美作国吉野郡粟井庄」とみえ、天正一七年(一五八九)書写の「拾芥抄」に郡名が載る。なお文化年間(一八〇四―一八)成立の地誌「東作誌」によれば、文明三年(一四七一)英田郡の七郷を割いて成立したという。また文安四年(一四四七)銘の田殿たどの八幡宮(現美作町)古鐘に「吉野郡田殿庄」と刻まれるが、この鐘は再鋳のものとされる。

慶長八年(一六〇三)森忠政が美作に入国し、拝領高一八万六千五〇〇石で津山城主となり、当郡もその支配下に置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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