東松浦郡(読み)ひがしまつうらぐん

日本歴史地名大系 「東松浦郡」の解説

東松浦郡
ひがしまつうらぐん

面積:三九六・二六平方キロ
厳木町きゆうらぎまち相知町おうちちよう北波多村きたはたむら浜玉町はまたまちよう七山村ななやまむら呼子町よぶこちよう鎮西町ちんぜいちよう玄海町げんかいちよう肥前町ひぜんちよう

県の北西部に位置し、玄界灘に面する上場うわばと称せられる東松浦半島と周辺のむく島・馬渡まだら島・まつ島・加唐かから島・加部かべ島・小川おがわ島などを含み、中心部は松浦川流域である。北東部は背振せふり山地の山嶺地で、この稜線が福岡県との境をなし、東は天山てんざん山系で佐賀郡と接する。東から南東は多久たく市・武雄市と八幡はちまん岳の稜線で接する。南西は上場台地の丘陵が伊万里市との境になっている。西は伊万里湾に面し、陸地の沈降によってできた大小さまざまの湾と岬からなり、無数の島嶼が沿岸にある。北は歴史的に知られた島々が玄界灘の波濤をさえぎり、沿岸には良港が多い。現郡域は唐津市を挟んで北西部と南東部に分れる。

〔原始・古代〕

上場台地からは縄文前期の石器・石鏃のほか縄文土器の破片が出土している。石器の中の黒曜石のものは伊万里市のこし岳山腹のもので、この時代から伊万里地方との交通があったことを示す。鎮西町赤松あかまつ海岸遺跡・唐津市西唐津海底遺跡では海底や汀から多数の遺物が出土している。遺物は縄文前期から後期に及ぶ。また相知町千束せんぞく遺跡は、昭和二四年(一九四九)発見されたが、縄文期の竪穴住居跡としては西九州で最初に確認されたものである。

弥生期に入ると松浦川流域を中心に各地に遺跡がみられる。東松浦半島北端の呼子町大友おおとも砂丘遺跡は昭和四一年発見され、弥生前期から後期にかけての各種の埋葬墓がある。また唐津市葉山尻はやまじり遺跡は支石墓群で国指定史跡である。唐津市宇木汲田うきくんでん遺跡からは大陸渡来の銅剣・銅鉾、同桜馬場さくらのばば遺跡からは後漢鏡が出土して、この頃大陸との往来があったことを示す。

縄文・弥生時代の遺跡の分布をみると、縄文時代の遺跡は、上場台地の丘陵や松浦川流域の丘陵地やうき岳中腹にみられる。弥生期の遺跡は玉島たましま川流域や松浦川流域の当時の海岸線に沿ってみられ、弥生後期になると唐津市のかがみ山周辺に集中している。

古墳時代の遺跡は弥生後期と同じく鏡山周辺が多い。浜玉町大字谷口たにぐち谷口古墳は前方後円墳で、玉島川沿いの浮岳の山麓には多くの古墳遺跡があり、浜玉町大字横田下よこたしもには横田下古墳がある。鏡山周辺にも大字鏡に前方後円の島田塚しまだづか古墳はじめ各所に古墳遺跡が確認される。このことは、当時、玉島川と松浦川河口一帯が大陸渡航への重要な場所で、郡衙の所在も鏡山周辺であると考えられる。

松浦川中流の相知町では、唐津市との境界に近い大字大野おおのや大字伊岐佐いきさ周辺に遺跡が確認されるが、上流地にはほとんど確認されない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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