摩郡(読み)さつまぐん

日本歴史地名大系 「摩郡」の解説

摩郡
さつまぐん

面積:七二一・三六平方キロ(境界未定)
さと村・上甑かみこしき村・鹿島かしま村・下甑しもこしき村・東郷とうごう町・樋脇ひわき町・入来いりき町・答院けどういん町・薩摩さつま町・宮之城みやのじよう町・鶴田つるだ

川内せんだい川流域に位置し、薩摩国の中央部を占める。東は大口市・伊佐郡・姶良あいら郡、西は阿久根市・川内市串木野市、南は日置郡、北は出水いずみ市・出水郡と接する。中央を九州第二の大河川内川が南西流し、出水市との境には紫尾しび山がそびえる。また西方東シナ海上に浮ぶ甑島こしきじま列島を含む。現在の郡域のうち、甑島列島の四村は近世の甑島郡、答院町・薩摩町・鶴田町の全域および宮之城町の過半部は近世の伊作いざく郡域であった。近世の当郡は北は出水郡、東は伊佐郡、大隅国始羅しら郡、南は日置郡、西は高城たき郡のほか、海(東シナ海)に面し、現在の東郷町・樋脇町・入来町の全域、宮之城町の一部のほか、川内市の南半および串木野市の一部にあたる。薩麻・薩万などとも記された。

〔古代〕

和名抄」によれば、避石さりいし幡利はたり・日置の三郷からなる。天平八年(七三六)の薩摩国正税帳(正倉院文書)にみえる隼人十一郡の一。同帳に薩摩郡の郡名記載は欠けているものの、当郡に関する記載が一三行ある。中間表示の終りの部分から末表示および郡司位署が伝わり、郡司は大領が外従六位下の薩麻君福志麻呂、少領が外正七位下勲八等の前君乎佐、主政が外少初位の薩麻君宇志、主帳が外少初位上勲一二等の肥君広龍と外少初位下勲一〇等の曾県主麻多の二人であった。律令の規定によれば、三郷以下の郡は小郡で郡司としては領一人・主帳一人が置かれることになっているが、薩摩郡は一〇世紀段階で三郷の小郡にもかかわらず、その郡司構成は八―一一郷を擁する中郡(大領・少領・主政・主帳各一人)をもしのいでいる。これは隼人の首長層を郡司に任命し、また郡司たちが朝貢に出かけた後も政務を処理できるように前もって増員されていたことによると考えられる。ちなみに「続日本紀」によれば前君乎佐は天平一五年に外正六位上から外従五位下(同年七月三日条)、天平勝宝元年(七四九)に外従五位上(同年八月二二日条)、天平宝字八年(七六四)に外正五位下(同年正月条)、薩麻君宇志は天平宝字八年に外正六位上から外従五位下に(同年正月条)、それぞれ昇叙されている。

摩郡
つかまぐん

「和名抄」記載の古代信濃国一〇郡の一つ。「和名抄」流布本には「筑摩郡」と記し、「豆加万」と訓じている。

信濃国の中央に位置し、東は美ヶ原うつくしがはら山塊を境として小県ちいさがた郡・諏訪すわ郡に隣し、南は善知鳥うとう峠・鳥居とりい峠を経てそれぞれ伊那いな郡・木曾きそ谷に通じ、西はあずさ川・高瀬たかせ川を隔てて安曇あずみ郡に対し、北は風越かざこし峠・花川原はながわら峠を境として更級さらしな麻績おみ川流域(現在は東筑摩郡に編入)に接する。

「筑摩」という地名は「日本書紀」天武天皇一四年一〇月条に「壬午、遣軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂於信濃、令行宮、蓋擬束間温湯歟」とあり、また、正倉院に収める白布の銘文に「信濃国筑摩郡山家郷戸主物部東人戸口小長谷部尼麻呂調并庸壱端長四丈二尺広二尺四寸主当国医師大初位上威上連柑足郡司大領外正七位上他田舎人国麻呂天平勝宝四年十月」と記されている。その後「続日本紀」延暦八年(七八九)五月「庚午、信濃国筑摩郡人外少初位下後部牛養、无位宗守豊人等田河」とあり、「三代実録」の貞観八年(八六六)二月二日条に「以信濃国伊奈郡寂光寺、筑摩郡錦織寺、更級郡安養寺、埴科郡屋代寺、佐久郡妙楽寺並預之定額」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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