鳥越村(読み)とりごえむら

日本歴史地名大系 「鳥越村」の解説

鳥越村
とりごえむら

面積:七四・一五平方キロ

石川郡の中西部に位置し、東はほぼ北流する手取川を境に南から吉野谷よしのだに村・河内かわち村・鶴来つるぎ町に接し、西は小松市、南は尾口おくち村、北は辰口たつのくち町に接する。村の中央部を湾曲しながら北流する大日だいにち川は、下野しもので手取川に合流。同川筋の河原山かわらやまには北陸電力鳥越発電所、大日川上流の阿手あてには大日川ダムがあり、明治期から深雪地帯という立地を利用した水力の電源地帯として知られる。北部の手取川と大日川に挟まれた河岸段丘の北端付近を中心に、縄文中期から晩期の遺跡が分布。上野かみのでは弥生後期の遺跡が確認されており、手取谷地域において確認された唯一の弥生遺跡として注目される。養老二年(七一八)に泰澄によって開かれたとされる白山は、北陸地方の山岳信仰の聖地として脚光を浴び、加賀馬場禅定道のルートにあたる当村には白山七社の一つ別宮が置かれ、現在別宮べつくの地名が残る。中世に入ると、初め越前の影響で曹洞宗が、次いで真宗(一向宗)の教線が及んだ。

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]三島町鳥越

現町域南端、くろ川左岸の丘陵地が東方に緩傾斜する麓にある。南北に与板よいた(現与板町)・長岡を結ぶ道が縦断する。支集落の唐崎からさきが北に、後谷うしろだにが西の丘陵にある。北は七日市なのかいち村、西は蓮花寺れんげじ村。慶長三年(一五九八)堀氏による検地帳には、毛利安田氏の給人須賀右近の名が記載されているという。さらに同検地帳には、唐崎に二日市ふつかいちの地字が記載され、七日市と交互に市が開かれたが、二日市が消滅したため現在に地名が伝わらなかったとしている(三島町史)。元和二年(一六一六)高田藩領、その後幕府領・高田藩領・佐倉藩領・与板藩領・幕府領・上山藩領を経て幕末に至る。正保国絵図に鳥越村と高九二石余の後谷村がみえる。天和三年(一六八三)の検地帳(山田敏郎氏蔵)では田五二町二反余(分米七〇二石五斗余)・畑屋敷一七町五反余(分米一〇五石一斗余)。宝永四年(一七〇七)の新田検地帳(同氏蔵)では田地のみ一反余・分米九斗余を検出。

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]新庄市鳥越

金沢町かねざわまち村の南、羽州街道に沿って集落が続き、西流する新田につた川沿いに枝郷が散在する。新田川下流は角沢つのざわ村。中世の鳥越館の麓集落として発達したと思われる。新田本村鑑に枝郷として谷地やち市野々いちのの休場やすんば兎額うさぎひたい柏木山かしわぎやま大平口おおだいらぐちをあげる。元和八年(一六二二)の御前帳写では高一千一一二石余。寛文四年(一六六四)には高一千一九五石余、うち新田八三石余(新田本村鑑)。明和三年(一七六六)の高八七五石余、うち田方七一三石余、反別九四町三反余、うち田方六七町余(吉村本村鑑)。文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数八五(うち借屋三)、人数四一八、駄馬四二。天保郷帳では高一千二八一石余の当村のほか、枝郷として休場村(高一二四石余)宮田みやた(高一五二石余)が記されるが、宮田村は鳥越村より前に記されており、ほかの史料から考えても角沢村の枝郷であろう。

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]珠洲市宝立町柏原ほうりゆうまちかしはら

弘国ひろくに村の南、鵜飼うかい川流域に立地するが、「三州志」が記す善野ぜんのごうなどは弘国村と同じ垣内で複雑に入組む。ほか坪根つぼね・かしはら助政すけまさなどがある。妙厳みようごん寺蔵の延享三年(一七四六)の古今記録によれば、承応期(一六五二―五五)頃まで当村を栃平とちがひら村と称していたという。明応八年(一四九九)一二月一二日の田地寄進状(須須神社文書)に「直之郷杤平良義子良玄」とあり、良玄が寺家じけ高勝こうしよう寺に三月一五日の斎料米五斗分の田地二ヵ所を寄進しており、在地土豪の栃平氏がいたことが知られるが、この系譜を引くとみられる栃平家は現在も続いている。

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]安心院町鳥越

中山なかやま村の東、深見ふかみ川西岸の台地上にある。北は龍王りゆうおう村。村内に名勝せんノ岩(国指定名勝耶馬渓のうち)があり、けんヶ嶽・屏風びようぶ岩・小屏風こびようぶ岩・まつの岩などの奇岩群が並ぶ。永享二年(一四三〇)一二月九日の大友持直安堵状案(富来文書)に「豊前国鳥越半分」とみえ、同所などが父宝順から相続した富来彦三郎に安堵されている。永正九年(一五一二)三月四日宇佐郡士弥留孫十郎依重は恵良千代房丸に「鳥越」を譲っている(弥留文書)

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]一戸町鳥越

北西流する馬淵まべち川に安比あつぴ川が合流し、南東は一戸村。正保国絵図に村名がみえ、高九〇石余。「雑書」承応元年(一六五二)一〇月一五日条に「平糠通楢山鳥越一戸通御漆攪」とあり、すでに漆の生産が行われている。盛岡藩主(四代)南部重信の代に、神貞武が当地に知行地をもっていた(参考諸家系図)。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付による蔵入高は六七石余で、七ヵ年平均の免は一ツ九分五厘二毛。

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]津幡町鳥越

七黒しちくろ村の北東、笠野かさの川と吉倉よしくら川の合流点北側の台地に位置。集落は近世に背後のちょうちん山とよばれる丘陵から南に移ったという。地名は村の東の「ほそが峰」に生息する各種の鳥が渡り過ぎることに由来するとも(「温故集録」加越能文庫)、修験道に由来するともいわれる。観応元年(一三五〇)弘願ぐがん寺が本願寺三世覚如の真弟玄頓によって当地に創建されたと伝える(貞享二年寺社由緒書上)。「日野一流系図」の玄頓の子玄教に「賀州河北郡鳥越住、文明元六月十五日卒、五十三」とあり、文明一一年(一四七九)四月二三日順如が玄照に下付した阿弥陀如来絵像裏書(「当寺仏御裏書覚」弘願寺文書)に「加州加卜郡笠野鳥越弘願寺常住物也」とみえる。

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]岩美町鳥越

洗井あらい村の南方谷奥に位置する。文明一二年(一四八〇)一一月一九日の室町幕府奉行衆下知状(石清水文書)に山城石清水いわしみず八幡宮領「宇治蒲生庄内」にあった鳥越名の名がみえる。元禄一四年(一七〇一)の変地其外相改目録(県立博物館蔵)に「洗井村之内」として村名がみえ、もとは洗井村に含まれたが、享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」には一村として記載されている。

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]大田市鳥井町鳥越とりいちようとりごえ

鳥井村の東に位置し、北は日本海に臨む。明徳元年(一三九〇)一二月二九日の足利義満御教書(閥閲録)に「鳥居郷内鳥越村」とみえ、鳥越村などの地頭職が鳥越兼家に安堵されている。延徳二年(一四九〇)一一月一六日の足利義尹袖判御教書(同書)には「鳥居鳥越」と併記されているが、鳥居とりい郷内に含まれていたと考えられる。元亀二年(一五七一)三月一一日尼子勝久は、永禄一二年(一五六九)毛利氏が大友氏と戦っている隙をついて但馬国から出雲国に入った際、同舟した松田誠久に「石州鳥越 弐百貫」などを与えている(「山中幸盛・立原久綱連署添状」鴻池家文書)

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]中島町鳥越

羽咋はくい郡に属し、むしヶ峰北麓に位置する。村中を鳥越川が流れて熊木くまき川南岸に流入し、南東は町屋まちや村、東方対岸は藤瀬ふじのせ村。正保郷帳によると鳥越村・古江ふるえ村の高五九三石余、田方三四町余・畑方五町四反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(鳥越区有文書)によれば高四〇八石、免四ツ五歩、小物成は山役一四一匁・苦竹役四匁、鳥役二匁(出来)。貞享元年(一六八四)には高・免ともに同じで、百姓数二〇(「村々百姓持高帳」津梅文書)

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]吉川町東鳥越ひがしとりごえ

吉川左岸にあり、対岸の川崎かわさき村との間に川崎橋(鳥越橋)が架かる。南は片田かたた村、北西は下町したまち村に接する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外九方分鳥越村 下」とみえ、本納三〇石七斗四升六合・縄高二〇一石四斗五升八合、家六軒・二一人とある。正保国絵図に一三五石余とみえる。天和三年郷帳によれば高一五三石四斗余。享保二年(一七一七)糸魚川藩領に属し、幕末に至る。同九年の蝋実定納村々割付帳(石野武教氏蔵)によると、山蝋実三合七勺・里蝋穂七貫五二〇匁を割付けられている。明治二年(一八六九)書写の糸魚川領下美守郷十四ケ村御水帳写(同氏蔵)によると、田方九町七反余・分米一三八石二斗、畑方二町六反余・分米一三石七斗余、漆木一五七本・分米一石五斗余・蝋穂七貫五二〇匁定納であった。

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]小坂町上向うわむき 鳥越

あら川上流域左岸、標高三三二メートルの高寺たかでら山西麓に位置。現一ッ森ひとつもりに縄文中期遺跡がある。

寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出、村高六六石一斗余でうち一〇石六斗余が蔵分、戸数四三軒でうち三軒が二渡にのわたり鹿倉かくら、七軒が藤原ふじわらに分存。

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]厳木町大字鳥越

作礼さくれい山山系の重岩かさねいわ山と高峰たかみね山の間の高原の平坦地。古来、平之ひらの村から天川あまかわ村、平原ひらばる(現浜玉町)から天川村への通路にあたる。もと平之村の枝村であったが、藩政中期、分村して一村となった。天保郷帳に「平之山之内鳥越」と初めてみえる。

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]豊前市鳥越

八屋はちや村の南、四郎丸しろうまる村の南東、なか川右岸に位置する。江戸時代は小倉藩領。元和八年人畜改帳に村名がみえ御姫様分と給人分、家数一八・人数三八(うち百姓六・名子五)、牛五・馬二。延享三年(一七四六)の御案内覚帳(稲葉文書)では免三ツ六分、高五七六石余・新地高四斗余、小物成は竹藪代・茶年貢で米一石余、薪札代銀二七匁余、竈数二七、家数四〇・人数二〇八、牛馬九。寛政七年(一七九五)の村々明細帳(友枝文書)によれば反別田二八町一反余・畠五町五反余、家数四四、うち本村一一・たけなか四・尾崎おざき七・上鳥越二一、人数二一二、牛一三・馬一〇、紺屋札一・薪馬札一、こうも池など池三。

鳥越村
とりごえむら

[現在地名]上越市西鳥越にしとりごえ上宇山分かみうやまぶん

小池おいけ村の南、桑取くわとり川の谷に位置。正保国絵図によると高一〇一石余。天和三年郷帳では鳥越村八三石五斗余と枝村上宇山分二〇石九斗に分けて記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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