広瀬町(読み)ひろせまち

日本歴史地名大系 「広瀬町」の解説

広瀬町
ひろせまち

面積:二〇四・三二平方キロ

能義郡の西部に位置し、北は八束やつか八雲やくも村・東出雲町、東は伯太はくた町・安来市、南は仁多にた横田よこた町と鳥取県日野ひの日南にちなん町、西は大原郡大東だいとう町・仁多郡仁多町。ほぼ四周を山地に囲まれており、飯梨いいなし川の上流西比田にしひだ川や支流の東比田川・山佐やまさ川などの流域は山間農村地帯である。中流に位置する大字富田とだ・広瀬一帯は中世の富田城、近世の広瀬藩陣屋(広瀬藩御殿)城下町として古い歴史と多くの史跡をもつ。おもな交通路は国道四三二号、主要地方道安来―木次きすき線、県道布部ふべ―安来線。

古代には「出雲国風土記」に記す意宇おう郡飯梨郷に属していたとみられ、同書記載の夜麻佐やまさ(二社)加豆比乃かつひの社・加豆比乃高かつひのたか社・布弁ふべ社などが鎮座していた。のち能義郡が設置されて同郡に属するが、飯梨郷は「和名抄」の同郡管下の郷としては記載がない。平安時代後期には富田庄が成立、その後開発が進んで新庄(比田地域)もでき、現町域一円はほぼ富田庄の本・新庄に含まれた。富田庄は摂関家領(摂渡庄)で、年貢としておもに鉄を納めていた。承久の乱後、同庄地頭職は出雲守護佐々木氏に与えられ、佐々木泰清の時その子四郎義泰に譲られた。義泰は富田庄を名字の地とし富田氏を名乗り、建武政権下で有力な御家人として活動した。しかし観応の擾乱以後は伯耆の山名氏との関係を強め、反幕府方となった。

広瀬町
ひろせまち

[現在地名]広瀬町広瀬

寛文六年(一六六六)飯梨いいなし(富田川)洪水によって同川右岸にあった中世以来の富田とだ城下町が壊滅状態となり、その代りに翌年左岸の広瀬村内に経営された陣屋町。初代松平近栄系譜(県立図書館蔵)によると、寛文七年松平近栄は広瀬村に居所を置くことを幕府に願出ており、併せて富田城下町に残っていた五町ほどの居屋敷を引越しさせたいといっている。その後の経緯は不明だが、延宝二年(一六七四)の糀室之覚(国令正編)に平田町など六町とともに広瀬町があげられているので、藩邸・侍屋敷などとともに町人町も形成されていた。天保年間(一八三〇―四四)に成った広瀬藩中及市街之図(天野家蔵)によれば、町方は南北に長く連なっていた。

広瀬町
ひろせまち

[現在地名]倉吉市広瀬町

江戸期の町人町。旧名は土手どて町と称したと伝えられる。天正一〇年(一五八二)岩倉いわくら城落城後、同城付近にあった久米くめ郡広瀬村の住民が移住して開かれたことにちなむ町名と考えられる。鍛冶かじ町とともに鍛冶屋などの職人が多く、稲扱千歯・農具などの生産が行われた。寛延(一七四八―五一)頃の倉吉絵図(県立博物館蔵)に町名がみえ、竈数二一、間数七八間余。同絵図によると、北東の越中えつちゆう町から南西に延びる通りの片側町で、北西を鉢屋はちや川が限る。

広瀬町
ひろせちよう

[現在地名]岡山市広瀬町

外堀北方の津山(倉敷)往来の西側で、往来に沿って南北に発達した両側町。往来の城下出入口の町。東は東照宮御旅所土手を隔てて旭川、南は小畑おばた町・伊勢宮、西と北は南方みなみがた村など。寛永と慶安の両城下絵図には町名の記載はない。正保(一六四四―四八)頃から商家が建ち始めたが、当時は南方と称した。その後しだいに繁栄して町並ができ、延宝元年(一六七三)町方支配となった。当地は古代広瀬郷(和名抄)の地であったことから広瀬町と称したという(吉備温故秘録)。同年一〇月の「諸用留」(国富文書)に「広瀬町検地改ニ十七日十九日両日ニ改仕廻し申候」とみえ、このとき町組に入れられたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報