山添村(読み)やまぞえむら

日本歴史地名大系 「山添村」の解説

山添村
やまぞえむら

面積:六七・五二平方キロ

大和高原東部を占める。東は名張なばり川によって三重県名張市と境し、西は奈良市に接する。南はつげ村と宇陀郡室生村、北は添上郡月ヶ瀬村に連なる。名張川笠間かさま遅瀬おそせ堂前どうまえなどの諸川を合わせV字谷を刻んで北流し、木津きづ川支流の布目ぬのめ川と深江ふかえ川が村内西部を流れる。村の東南隅、室生村・名張市との境界に茶臼ちやうす(五三五・八メートル)、西南部の都村境に神野こうの(六一八・八メートル)がある。昭和四〇年(一九六五)開通の名阪国道が村内を通過している。

明治二二年(一八八九)四月一日、町村制施行により、現村域内にあった村々は合併して、山辺郡波多野はたの村・豊原とよはら村、添上郡東山ひがしやま村の三ヵ村にまとめられた。

山添村
やまぞえむら

[現在地名]緑町山添

みや村の北、初尾はつお左岸にある。北東はおさめ(現洲本市)福良ふくら街道が北東から南西に通る。正保国絵図に山添村とあり、高六二三石余。天保郷帳では高六三六石余。金屋組に属した。「味地草」では家数六九。反別戸数取調書によれば反別一四町一反余、高六三二石余、うち蔵入高四七石余・給知高五七〇石余。給人は岩間恒次郎ら一三名。ほかに宮村八幡宮領一斗余があった。家数七四・人数二五七。溜池うわ池など七ヵ所があった(味地草)。天明二年(一七八二)の縄騒動には当村民も参加。なかでも清左衛門は指導者の一人だということで打首となった(「縄納入を拒否蜂起の記録一件」新見貫次氏収集文書)

山添村
やまぞえむら

[現在地名]松阪市山添町

安楽あんらく村の南、櫛田くしだ川の左岸にある。村域の西側と南側は山に囲まれ、「五鈴遺響」に「山林ニ副フテ民居スルノ名ナリ、旧記ニ山副ト録ス」とある。天文一五年(一五四六)書写の神服部内戸納帳(「神服大神部・神部家文書」神宮文庫蔵)に「一段 ノラ田 百文 山ソイ大義寺」と記される。天正四年(一五七六)の北畠具親挙兵の際、六呂木・山副・波多瀬の三氏は具親に味方して敗れ、船江ふなえの本田氏に預けられ、後に殺された(勢州軍記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山添村」の意味・わかりやすい解説

山添〔村〕
やまぞえ

奈良県北東部,大和高原の東部を占める村。 1956年東山村波多野村,豊原村が合体して成立。東部を名張川が流れ,茶,野菜抑制栽培が行われる。西部の神野山山腹には奇勝鍋倉渓,南部には史跡毛原廃寺跡がある。国道 25号線,名阪国道が村内を縦貫インターチェンジがある。観光および産業開発が進んでいる。面積 66.52km2人口 3226(2020)。

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