東津軽郡(読み)ひがしつがるぐん

日本歴史地名大系 「東津軽郡」の解説

東津軽郡
ひがしつがるぐん

面積:六五五・三〇平方キロ
平内ひらない町・蓬田よもぎた村・蟹田かにた町・平舘たいらだて村・今別いまべつ町・三厩みんまや

青森県の中央に位置し、東は平内町で上北郡に、南は奥羽山脈・那須火山帯の八甲田はつこうだ山塊を占め、西は中山なかやま山脈で北津軽郡と境し、中央に青森市があって東の平内町と上磯かみいそ地域とに二分され、陸奥湾の中央から津軽半島の東岸、さらに津軽海峡に面して半島の先端竜飛たつぴ崎に至る。山が海岸に迫る地帯が多いため、大きな河川はなく、平内地区は清水しみず川・小湊こみなと川、中央の青森平野は野内のない川・つつみ川、上磯地区では蟹田川・今別川をみる程度である。気候は夏にはやませの影響で冷温・霖雨になることがあり、冬には季節風の影響で降雪が多い。

明治一一年(一八七八)郡区町村編制法施行により、津軽郡が東・西・南・北・中津軽郡に分割された時に現郡名となり、現在の青森市域を含んだ地域が成立した。

〔原始〕

長い海岸地帯をもつため遺跡がかなり多く、旧石器時代の蟹田町大平山元おおだいやまもとのほか、縄文時代前期の平内町一本松いつぽんまつ、前期・中期・後期の三厩村中ノ平なかのたいら、前期・中期が主体の今別町山崎やまさき、晩期の平内町槻ノ木つきのき・三厩村宇鉄うてつ・平舘村今津いまづ遺跡があり、弥生時代の宇鉄II遺跡、縄文時代後期から奈良・平安時代にまで及ぶ蓬田村小館こだて遺跡など数多い。郡を二分して中央にある青森市には三内さんない遺跡を代表に熊沢くまざわ近野ちかの細越ほそごえなどの諸遺跡が連なり、とくに蓬田村に隣接する後潟うしろがたには伝尻八館しりはちたての中世城郭遺跡がある。

〔古代・中世〕

この地域は外ヶ浜そとがはまの名でよばれ、生産・文化ともに遅れていた。青森県自体が古代の記録が少なく、当郡の古代に関してはほとんど明らかにすることができない。古代末期に外ヶ浜を詠み込んだ歌が西行の「山家集」にある。

吾妻鏡」文治五年(一一八九)九月一七日条に「清衡管領六郡之最初草創之、先白河関、至于外浜、廿余ケ日」とあり、外ヶ浜まで平泉ひらいずみ(現岩手県西磐井郡平泉町)藤原清衡の勢力が及んでいたとされる。また「吾妻鏡」同六年二月一二日条に、大河兼任の乱に関した記事があり、「而於外浜与糠部間、有多宇末井之梯」とあり、外ヶ浜や青森周辺の旧称善知鳥うとうに関連すると思われる地名が出てくる。古代から中世にかけてやっと日本史のなかに顔を出す程度で、ほかには伝承であるが義経・弁慶がこの地域を経て松前に渡ったという伝説が当郡一帯にある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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