日本大百科全書(ニッポニカ) 「映画」の意味・わかりやすい解説
映画
えいが
motion picture 英語
movie 英語
film 英語
cinématographe フランス語
cinéma フランス語
映画とは、写真的方法によってフィルム上に記録した画像を光学的方法でスクリーン上に投影するもので、動きのある映像を見せる装置、またはそれによってつくられる作品をいう。1927年から音響もフィルム上に記録し再生できるようになり、以来映像は音を伴うのが通例となった。日本では初め「活動写真」と名づけられたが、大正初めごろから「映画」ともよばれ、しだいにこれに統一された。英語ではmotion picture(モーション・ピクチャー)、movie(ムービー)、film(フィルム)などが用いられ、フランス語では発明当初の呼称によってcinématographe(シネマトグラフ)、cinéma(シネマ)が使われ、後者は他国でも映画の意に用いられることが多い。またfilmは、写真フィルムの材質を意味するだけでなく、映画そのものを主として文化的側面から意味することばとして国際的に使われるようになった。そのほか、イタリア語でcinematografia(チネマトグラフィア)およびcinema(チネマ)、ドイツ語ではKinematographie(キネマトグラフィ)およびKino(キノ)、スペイン語でcine(シネ)、ロシア語でкино(キノ)、北欧諸国ではおもにBiograf(ビオグラフ)が使われ、中国では電影(ディエンイン)という。19世紀末に誕生した映画は当初珍しい見せ物にすぎなかったが、たちまち大衆の興味をひく娯楽となり、技術の進展につれて一大産業に発展し、芸術的な成果もあげ、それが描き出す世界や出演するスターも含めて独自の社会現象を形成している。なお、各国の映画については独立の項目もあるので参照されたい。
[登川直樹]
映画の歴史
映画の誕生
映画が誕生するためには三つのくふうを組み合わせる必要があった。第一は、同じ位置にすこしずつ違った絵を交代させて示すと、それが「動く絵」になって見えるという仕掛けで、19世紀初めごろから順次登場した「ゾエトロープ」zoetrope、「フェナキスティスコープ」phenakistiscope、「プラキシノスコープ」praxinoscopeなどの装置がそれである。もっとも、これらは構造上から単純な循環運動の動く絵を見せるだけであったために玩具(がんぐ)として普及したにすぎないが、映画発明の基礎になった。第二は「写真」で、19世紀前半に考案された感光乳剤を使って画像を記録する方法は、乳剤が進歩して感度が高まるとともにガラス乾板にかわるセルロイドの感光フィルムの登場によって、1秒間に十数枚の分解写真を長時間にわたって記録し動く画像として再現することを可能にした。第三は「投影」で、動く画像をスクリーン上に投影することで多数の観衆が一度にそれを鑑賞できるようにした。以上三つのくふうを組み合わせて動く写真を投影した最初は、フランスのリュミエール兄弟による「シネマトグラフ」で、初めて一般の観客を集め入場料をとって見せたのは、1895年12月28日、パリのオペラ座に近いグラン・カフェの地下にあったサロン・アンディアンとよばれるホールであった。アメリカではトーマス・A・エジソンがこれより6年ほど前に「キネトスコープ」kinetoscopeを公開していたが、一度に1人しか見られぬのぞき眼鏡式のものであったため、エジソン自身これを改良し、1896年スクリーン投影式の「バイタスコープ」vitascopeを発表した。またドイツではマックス・スクラダノフスキーMax Skladanowsky(1863―1939)が「ビオスコープ」Bioscopeを、イギリスではロバート・ウィリアム・ポールRobert William Paul(1869―1943)が「アニマトグラフ」animatographを発表するというように、各国で独自に考案された「動く写真」が、わずか2、3年のうちに相次いで登場した。つまり、技術的な基礎はできあがっていて、だれかがそれらを組み合わせ改良した新装置として発表すればよかったわけで、その点映画は、19世紀末の技術が生み出したいわば「時代の産物」とみることができる。
発明当初の映画は、国により発明者により名称が異なったように、その規格は一定でなかったが、ジョージ・イーストマンが売り出したセルロイド・フィルムとリュミエール兄弟のシネマトグラフがしだいに規格をリードすることになった。しかし画像は黒白であり、音を伴わなかった。当初それを不自然に思った発明家や映画製作者はいろいろとくふうして、フィルムの一こまずつに彩色を施したり、レコード演奏で音をつけたりしてみたが、技術的にあまりにも不完全であったので、黒白画面で音を伴わない、いわゆるサイレント映画(無声映画)が最初の約30年間の標準となった。
[登川直樹]
映画の草創期
映画はまず「動く写真」というもの珍しさによって客を集めた。写真像が動いて見えること自体が驚きであった。シネマトグラフの初公開に上映されたのは、せいぜい1分間くらいのフィルムが10本ほどで、どれもタイトルはなく、内容に応じてあとから『工場の出口』『列車の到着』『赤ん坊の食事』などと名づけられた。発明者リュミエールの家族が簡単な役割を演じているものもあるが、だいたいは情景をそのままカメラに収めた実写フィルムである。ただ、そのなかの『水をかけられた水撒(ま)く人』(1895)だけは偶然でなく明らかに段取りを決めて演じてもらったと考えられ、劇映画の出発点とさえみられる。やがてストーリーを物語る劇映画が映画の大部分を占めるようになったが、それでも1910年ごろまでは劇映画と実写フィルムを組み合わせて一つの番組とするのが通例とされるほど、実写フィルムはよく使われた。当時の題名をみても『ナイアガラの瀑布(ばくふ)』『パリの大洪水』『ニコライ2世の戴冠(たいかん)式』など、珍しい眺めが観衆の興味をそそったことは十分にうなずける。リュミエールはシネマトグラフを100台製造し100人のカメラマンを養成し、世界各地に派遣して記録フィルムを製作、これを映写機としてのシネマトグラフとセットにして販売した。一方、同じフランスのジョルジュ・メリエスはリュミエールからその特許を譲り受けようとして断られ、ほかの方法で撮影機を入手し、自宅の庭にガラス張りのステージを建てて、さまざまなトリックをくふうして奇抜な映画を数百本つくった。『月世界旅行』(1902)はその代表作とされる。つまり、リュミエールは映画を現実の記録再現の手段と考えたのに対し、メリエスは映画を現実には見られない夢や空想を描いてみせるものと考えた。これらは映画が本来備えている二つの働きを象徴するもので、ともに映画の歴史を通じて重要な役割を演じている。
もの珍しさから出発した映画はたちまち表現のさまざまな技法を会得していったが、その最初は場面から場面を追って物語を展開することであった。アメリカで最初の西部劇とされるエドウィン・S・ポーター監督の『大列車強盗』(1903)は14のカットからなり、各カットごとに場面が変わり、それによってストーリーを物語っていた。しかも最後の1カットは、ストーリーから独立してはいたが、強盗の一人が上半身像で映り、観客に向けてピストルを数発撃つという画面で、これはいまでいう大写しの迫力をもっていた。こうして映画は1910年ごろまでに物語展開や大写し表現の効果を会得し、各国で寸劇的な喜劇や動きを主とした活劇などがしきりにつくられるようになった。
日本ではシネマトグラフもバイタスコープもそれぞれ発明の翌年には輸入公開され、数年後には製作も開始された。多くの国と同じく、実写や単純な舞台劇の記録から出発し、寸劇的な喜劇や活劇を数多くつくり、しだいに文学作品の映画化にも取り組んで表現技術を向上させた。サイレント時代は、スクリーンの傍らから弁士が画面の展開につれて台詞(せりふ)や解説を語る活弁という日本独特の方法が固定化した。なお、日本映画の歴史的展開については「日本映画」の項に譲る。
[登川直樹]
サイレント映画時代
喜劇や活劇は映画のおもしろさを生かすジャンルのものとして数多くつくられたが、それと並行して映画を芸術的に高めようとする動きが目だってきた。たとえばフランスではその名もフィルム・ダール(芸術映画)とよばれる製作会社が生まれ、文学者や演劇人が参加して『ギーズ公の暗殺』(1908)のような映画が試みられた。しかし舞台劇をそのまま撮ったような、いわゆる「芝居の缶詰」は芸術的な試みとしてはあまり成功しなかった。著名な文学作品の物語を借りて映画にしたり、舞台俳優に演じてもらうなどしても、それだけではかならずしも優れた映画が約束されないことを知り、映画作家たちは映画独自の表現効果を発揮する方向を探し求めた。その一つは壮大な歴史劇や戦争映画などのスペクタクル映画のジャンルであった。イタリアの『カビリア』(1914)やアメリカの『イントレランス』(1916)などはその代表とされる。後者の作者デイビッド・ウォーク・グリフィスは『国民の創生』(1915)をはじめ数々の長・短編で、大写し、追っかけ、並行描写などさまざまな映画的技法を駆使して「アメリカ映画の父」とよばれたが、それらの技法はやがて各国の作家の習熟するところとなり、映画の水準を高めることになった。
喜劇と活劇とメロドラマは娯楽映画の主要なジャンルだったが、1920年前後からは文芸映画を中心とする新しい芸術映画への試みがおこり、それまでの単純な物語映画や芝居のフィルム化にかわって、充実した表現をもつ優れた作品が各国でつくられた。たとえば、スウェーデンではビクトル・シェーストレームの『霊魂の不滅』(1920)、マウリッツ・スティルレルの『吹雪(ふぶき)の夜』(1919)など、ドイツではロベルト・ウィーネRobert Wiene(1881―1938)の『カリガリ博士』(1919)、フリッツ・ラングの『ニーベルンゲン』二部作(1924)、フリードリヒ・ウィルヘルム・ムルナウの『最後の人』(1924)など、フランスではアベル・ガンスの『鉄路の白薔薇(ばら)』(1923)、カール・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』(1928)、ジャック・フェデーの『雪崩(なだれ)』(1923)など、アメリカではエリッヒ・フォン・シュトロハイムの『愚かなる妻』(1921)、キング・ビダーの『ビッグ・パレード』(1925)、チャップリンの『黄金狂時代』(1925)、ジョゼフ・フォン・スタンバーグの『救いを求める人々』(1925)などがつくられて、内容・表現ともに豊かさを増した。またソ連では、革命後のプロパガンダ的意図に刺激されて、エイゼンシュテインの『ストライキ』(1924)や『戦艦ポチョムキン』(1925)、フセウォロド・プドフキンの『母』(1926)など、モンタージュの表現力を存分に発揮した作品がつくられ、世界的に注目された。
一方、初期の実写フィルムが影を潜めたあと、記録映画が改めて一つのジャンルを形成しつつあった。ソ連のジガ・ベルトフDziga Vertov(1896―1954)は、事実を記録することこそ映画の本領との立場から記録映画論を展開、自ら『これがロシアだ』(原題『カメラを持った男』、1929)などをつくった。アメリカではロバート・フラハーティがカナダのイヌイットの特異な生活を記録する『極北の怪異』(別題『極北のナヌーク』、1922)を製作、未開地の記録に文化資料的な意義をもたらした。
1920年代の映画は、こうして優れた作品がそれぞれの国で数多く生み出され、いわゆるサイレント映画末期の芸術映画爛熟(らんじゅく)時代を形成したが、これと並行して、理論的に映画の芸術的性格を追究する点でも成果をあげた。リッチョット・カニュードRicciotto Canudo(1877―1923)、ヒューゴー・ミュンスターバーグら初期の映画理論家は、映画が在来の芸術に比べていかに独自の新しい形式であるかを指摘したが、ジャン・エプステイン、レオン・ムーシナックLéon Moussinac(1890―1964)、ルドルフ・アルンハイムRudolf Arnheim(1904―2007)、ベラ・バラージュらは、映像のもつ特性をとらえて映画特有の写真性、リズム性、大写し効果などを細かく分析した。またプドフキンやエイゼンシュテインは、カットをつなぎ合わせる「モンタージュ」が映画独自の創造的表現力をもつことを論じ、作品のうえでもそれを実践した。さらにサイレント映画末期を特色づけたもう一つの傾向は、いわゆるアバンギャルド映画(前衛映画、実験映画ともいう)の活発な試みであった。これは絵画など他の芸術からの影響もあったが、ストーリーと俳優の演技に拘束された映画をそれらから解放して自由な映像作品としようとするもので、フランス、ドイツではとくに大胆な試みがなされた。このようにサイレント末期はまさしく映画芸術爛熟の一時期であった。
[登川直樹]
トーキー時代
1927年に公開されたアメリカ映画『ジャズ・シンガー』は、パート・トーキーの長編映画で、主演したアル・ジョルソンの歌う声を聞かせる映画として大ヒットした。これを発端として本格的トーキー映画が次々に製作され、アメリカでは1929年から、ヨーロッパでは1930年ごろからトーキー時代に入った。この技術革新はたちまち欧米の大衆に歓迎され、わずか数年でサイレント映画はほとんど姿を消すほど一挙にトーキー時代に転換した。この急激な切り換えは、俳優や監督や技術者を一時とまどわせたが、トーキーのための新しい表現方法はさまざまなくふうによって成熟していった。登場人物の台詞(せりふ)が字幕に頼ることなく俳優の声で聞かれることは、いきおい自然な話し方による表現となり、音楽や効果音まで伴うことから、従来の映像中心主義、モンタージュ主義は修正を余儀なくされ、映画は演劇的になり、あるいは演劇以上に自然描写的になった。またトーキー時代に入っての重要な変化は、各国の言語の違いとともに、映画がよくその国情を反映するようになったことで、それぞれの国の映画に国民性や社会的状況をみることができた。
アメリカでは、スタンバーグの『モロッコ』(1930)、キング・ビダーの『南風(なんぷう)』(1933)などとともにギャング映画、ミュージカル、西部劇などのジャンルで力作が生まれ、エルンスト・ルビッチ、フリッツ・ラング、フランク・キャプラ、ジョン・フォード、ウィリアム・ワイラー、ジョージ・キューカーら多くの監督が活躍したが、とくにこの時期に監督やスターがヨーロッパから多数集まり、ハリウッドは国際映画都市の様相を呈した。
フランスでは、ルネ・クレールが『巴里(パリ)の屋根の下』(1930)、『自由を我等(われら)に』(1931)などでトーキー技法をすばやくマスターしてのびやかに人間風刺をうたい、ジャン・ルノワールは『大いなる幻影』(1937)、『ゲームの規則』(1939)などで人間の本性を鋭くついた。フェデーは『ミモザ館』(1934)、『女だけの都』(1935)などで人間喜劇をうたい、ジュリアン・デュビビエは『にんじん』(1932)、『我等の仲間』(1936)、『舞踏会の手帖(てちょう)』(1937)などでペシミスティックな人生観を展開してみせた。
ドイツでは、ゲオルク・ウィルヘルム・パプストの『三文オペラ』(1931)、エリック・シャレルErik Charell(1895―1974)の『会議は踊る』(1931)などの音楽映画を開拓、またスタンバーグの『嘆きの天使』(1930)やレオンティーネ・ザガンLeontine Sagan(1889―1974)の『制服の処女』(1931)などは冷徹な人間観察を示した。ヒトラー体制下のオリンピック記録としてレニ・リーフェンシュタールの『民族の祭典』『美の祭典』(ともに1938)は賛否両論の傑作となった。オーストリアでは、ウィリー・フォルストが『未完成交響楽』(1933)、『たそがれの維納(ウィーン)』(1934)などにロマンチシズムをうたった。イギリス、イタリア、ソ連などの映画はそれぞれの国情をよく反映し、国際的にはともかく、国民大衆にとっては身近な娯楽として浸透した。
この時期の記録映画はイギリスで目覚ましい進展をみせた。ジョン・グリアスンJohn Grierson(1898―1972)は自ら『流し網漁船(流網船)』(1929)を監督したのち、政府機関の映画製作部で多くの作家を育て、記録映画に「ドキュメンタリー・フィルム(ドキュメンタリー映画)」なる新語をあてて、これを明快に理論づけた。
映画の色彩化は1930年代から実用段階に入り、ディズニーの漫画映画『森の朝』(1932)など短編で率先して採用されたのに始まり、ルーベン・マムーリアンの『虚栄の市』(1935)以来劇映画にも逐次採用されたが、三原色3本のネガを同時に撮るテクニカラー方式には技術や能率のうえで限界があり、普及はアメリカ映画の一部にとどまった。のちイーストマン・コダック社が1本のカラー・ネガに撮影する技術を開発、『風と共に去りぬ』(1939)などテクニカラー方式にかわって急速に普及し、第二次世界大戦後は日本の富士写真フイルム(現富士フイルム)など同種の方式を開発した国もあって、1950年代から世界の映画はカラー化に進んだ。もっとも、第二次世界大戦は各国の映画界を混乱させた。ナチス・ドイツや日本の映画は当然軍国色を強めたし、フランスでは多くの監督が国外に逃避しアメリカなどで製作を続ける者もあった。アメリカでは戦時下の国情を背景にした映画が増えるほか、イギリス出身のヒッチコックに代表されるスリラー映画やサスペンス映画が多くつくられ、大衆の不安定な心情にこたえた。
[登川直樹]
第二次世界大戦以後
一般に第二次世界大戦中の映画は疲弊したといえるが、国によっては新しい局面を開いたところもある。イタリアの第二次世界大戦末期からおこったネオレアリズモは、敗戦下の人間を直視する鋭い作風で世界の注目を浴びた。ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』(1945)、ビットリオ・デ・シーカの『自転車泥棒』(1948)、ルキーノ・ビスコンティの『揺れる大地』(1948)など悲惨なイタリアの現実に目を向けた作品が、いずれも重々しく荒廃の時代的様相と人間の深刻な対決を描き出していた。多くの作家が申し合わせたように同じ角度から現実を眺めていたのはネオレアリズモの特色といえるが、それも、のちに祖国の復興が進むにつれて題材は多様化して地方色に富み、また作家たちも個性的な方向に分散していった。第二次世界大戦後の復興期を過ぎるとイタリア映画は、戦中・戦後の荒廃した現実から平和な社会に背景を置くようになり、そのなかから現実社会よりもそれと対決する人間の内面を問題にする作家が現れ、フェデリコ・フェリーニの『道』(1954)、『甘い生活』(1960)、ミケランジェロ・アントニオーニの『情事』(1960)、『太陽はひとりぼっち』(1962)などにみるように、内面的リアリズムとよぶべきものがネオレアリズモの精神を受け継いだ一方、フランチェスコ・ロージの『シシリーの黒い霧』(1961)など社会派もまた同じ精神を受け継いでいるとみられる。
フランスは、第二次世界大戦中を描いたルネ・クレマンの『鉄路の闘い』(1945)などのレジスタンス映画が孤塁を守っていたが、戦後はクレマンの『禁じられた遊び』(1952)、アンドレ・カイヤットの『裁きは終りぬ』(1950)、マルセル・カルネの『嘆きのテレーズ』(1953)など多様な作家による多様な作品の時代を迎え、やがて1958年ごろからヌーベル・バーグの新時代に入る。若い作家たちがアンチ・ロマンやアンチ・テアトルに呼応する形で、在来の形に縛られた映画を否定し、自由で新しいスタイルの映画に踏み出したもので、フランソワ・トリュフォーの『大人は判(わか)ってくれない』(1959)、ジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)、クロード・シャブロルの『いとこ同志』(1958)、アラン・レネの『二十四時間の情事』(1959)などにその特色をみることができる。このヌーベル・バーグ出現の意義は大きく、他の多くの国々の若い世代へ影響を与えていった。
これ以前に、ポーランドでは、悲惨な戦争体験から人間の尊厳を見つめ直すような作品が新しい流れを形成した。ワンダ・ヤクボフスカWanda Jakubowska(1907―1998)の『アウシュウィッツの女囚』(1948)を発火点として、イエジー・カワレロビチの『影』(1956)、アンジェイ・ワイダの『地下水道』(1957)や『灰とダイヤモンド』(1958)が相次いでつくられ、いわゆるポーランド派として国際的にも注目を浴びた。第二次世界大戦後のスウェーデンでは『野いちご』(1957)などの秀作を発表したイングマール・ベルイマンの活躍が目だち、イギリスでもデビッド・リーンの『逢(あい)びき』(1945)、キャロル・リードの『第三の男』(1949)などの傑作が生まれた。また黒澤明(あきら)の『羅生門(らしょうもん)』(1950)、溝口健二(みぞぐちけんじ)の『西鶴一代女(さいかくいちだいおんな)』(1952)などがベネチア国際映画祭で受賞したのをはじめ、多数の映画が相次いで各地の映画祭で受賞し、日本映画がようやく海外に広く知られるようになった。
第二次世界大戦後のアメリカ映画はテレビの普及によって打撃を受け、ハリウッドはその巻き返しに大作主義をもって臨んだ。『地上最大のショウ』(1952)などはそれであったが、さらにテレビをぬきんでる方策として大型映画の技術を取り入れた。1952年に3本のフィルムを横に並べて映写する大型映画「シネラマ」cineramaが公開され、続いて『聖衣』(1953)に始まるシネマスコープ、『ホワイト・クリスマス』(1954)などによるビスタビジョン、『オクラホマ!』(1955)から採用された70ミリ映画などの大型映画が開発された。これら大型画面の技術は立体音響の採用と相まって、アメリカ映画伝統のスペクタクル大作主義をより威力あるものとして、失いかけた大衆を映画館に取り戻すことに成功した。しかし作品内容からみれば、ハリウッドはまた別の革新に迫られていた。時代とともに社会風俗や大衆の意識にも変化が起こり、従来のハリウッド映画がかならずしもそれに対応していないことに気づき始めたからである。映画製作業界の自主検閲機関である映倫は、第二次世界大戦前から続けてきた倫理規準(プロダクション・コード)の修正を迫られ、製作陣にも新しい人材の投入が要求された。演劇界やテレビ界から脚本家や演出家が映画に進出して新しい風を吹き込み、またニューヨークなどハリウッド以外で映画をつくる人々も現れた。いわゆるニューヨーク派やオフ・ハリウッド派の台頭である。
そしてイギリスでも新人の登場が注目を集めていた。ジョン・オズボーンの『怒りをこめてふり返れ』の上演(1956)が演劇界に革新をもたらし、これが映画界にも影響した。中産階級あるいはさらに貧しい階級を描く点でそれまでのイギリス映画の枠を破り、その人々の幸福よりむしろ不幸や悲惨を見つめた点で、やはり新しい写実を意味するものであった。イギリスの新しい波は記録映画とも関連があった。第二次世界大戦前の流れをくむ戦後の記録映画の再興はフリー・シネマとよばれたが、その一派から劇映画に転じたトニー・リチャードソンTony Richardson(1928―1991)、リンゼイ・アンダーソンLindsay Anderson(1923―1994)らが新しい波の中核となったからである。そしてフランスでも同じころシネマ・ベリテとよばれる記録映画の新しい流れが始まった。人類学者ジャン・ルーシュJean Rouch(1917―2004)によって開かれたその手法は、同時録音とインタビュー形式の採用で人間を内面からとらえようとするものであった。劇映画も記録映画も1950年代から1960年代にかけては各国に新しい波が起こった大きな革新期であった。
映画の理論的追究も、時代とともに様相を変えた。トーキー映画の展開に対応して、アレクサンドル・アストリュックAlexandre Astruc(1923―2016)やアンドレ・バザンらがモンタージュよりも画面それ自体に重きを置いたのは自然であったし、ジークフリート・クラカウアーが映画を本質的に、また社会学的にとらえようとしたのも興味深い。さらに美学、言語学、記号学などの援用が映画の本質を解き明かすうえで注目すべき成果を示し、エティエンヌ・スリオ、クリスチャン・メッツChristian Metz(1931―1993)らの論究は、映像の機能を正確にとらえようとした。
[登川直樹]
現状と今後
世界の映画は1960年代から相次いで地域ごとに変貌(へんぼう)した。アメリカでは1960年代後半に『俺(おれ)たちに明日はない』(1967)と『2001年宇宙の旅』(1968)が登場したのを契機に、スタンリー・キューブリック、アーサー・ペン、スティーブン・スピルバーグらの活躍で新時代の幕が開けた。キューブリックの映画は宇宙に題材を求める作品群の出発点を意味し、アーサー・ペンの映画は冒険、恐怖、極限状況などの緊張を一段と高めるダイナミック映画の始まりであった。宇宙ドラマはその後ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』(1977)、スピルバーグの『未知との遭遇』(1977)、『E.T.』(1982)をはじめ多くのSF映画が続き、スペクタクル映画の特殊なジャンルを形成した。ダイナミック映画はコッポラの『ゴッドファーザー』(1972)に代表される大作映画となって続き、アーウィン・アレンIrwin Allen(1916―1991)、ジョン・ギラーミンJohn Guillermin(1925―2015)の『タワーリング・インフェルノ』(1974)、スピルバーグの『ジョーズ』(1975)などに引き継がれた。またアメリカ映画伝統の大作主義はさらに強化され、ジェームズ・キャメロンの『タイタニック』(1997)などにもみられるように、スペクタクル+ラブ・ロマンス+パニックの充実感を生み出した。ここではCG(コンピュータ・グラフィクス)による画面の造成が効果をあげ、電子技術によって映像を加工する時代がきたといえる。CGを駆使した代表作としては、リドリー・スコットの『グラディエーター』(2000)、ピーター・ジャクソンPeter Jackson(1961― )の『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(2003)、『キング・コング』(2005)などがあげられる。
世界的にはこうしたグローバルな方向を目ざす映画と、地域文化に根ざした映画に二極化が進む。後者は減少する映画観客、フィルムによる製作条件の悪化といった条件も克服しなければならず、国際的に名声を得た監督でさえ、たとえばタル・ベーラBéla Tarr(1955― )は『ニーチェの馬』(2011)を最後に、映画製作をやめると発表し、エミール・クストリッツァ(『白猫黒猫』1998年、『ライフ・イズ・ミラクル』2005年)は、映画より音楽活動の比率を高めているかにみえる。
アメリカでは1995年前後からテレビドラマが高度に発達しはじめ、従来の娯楽映画が受け持っていた喜劇、サスペンス、シチュエーションコメディ、社会派ドラマなどを浸食するようになった。映画とテレビ両者の競合による緊張感のもと、メジャー映画はますます多数の観客を対象とする大がかりなものとなり、また一方ではテレビが踏み込まない内容を扱うインディーズ系の映画が増える、といった二極分化が進んだ。
メジャー作品はさらにそれらの成果を吸収し、従来のハリウッドの型通りのドラマを、商業性を失わずにいかに崩すかを競っている。とくに作り手が関心をもっているのは、すでに1990年前後にデビッド・クローネンバーグが先鞭(せんべん)をつけた、主観あるいは心のなかの現実を題材とする傾向で、デビッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』(2001)、『インランド・エンパイア』(2006)、ラリー・ウォシャウスキー(Larry Wachowski、1965― )とアンディ・ウォシャウスキー(Andy Wachowski、1967― )兄弟(のちに二人とも性転換を行い、ラリーはラナ、アンディはリリーと改名し姉妹となる)の『マトリックス』(1999)、『マトリックス・リローデッド』(2003)、クリストファー・ノーランChristopher Nolan(1970― )の『メメント』(2000)、『インセプション』(2010)、スパイク・ジョーンズSpike Jonze(1969― )の『アダプテーション』(2002)、『脳内ニューヨーク』(2008)などである。
西部劇映画の沈滞と交代するように、アメリカの大作主義は世界的に強力な娯楽作品をつくりあげる点で功を奏したが、アメリカの国民性、風土性からは離れてしまった。これに反してヨーロッパでは、映画はそれぞれの国のものとして国民性を色濃く反映している。フランスではヌーベル・バーグの若々しい革新的な身構えは消えて、ゴダール、トリュフォー、エリック・ロメールなどのヌーベル・バーグ世代は作家ごとに自分の個性に身を沈めていった。ロメールは『クレールの膝(ひざ)』(1970、ルイ・デリュック賞)などの「六つの教訓話」シリーズを連作し、トリュフォーは『恋のエチュード』(1971)など多彩な作品を次々と発表した。ゴダールは商業映画との決別を宣言、政治映画を製作するようになった。一方、このころからポスト・ヌーベル・バーグの作家が登場、『ママと娼婦(しょうふ)』(1972)のジャン・ユスターシュJean Eustache(1938―1981)、『一緒に老(ふ)けるわけじゃなし』(1972)のモーリス・ピアラMaurice Pialat(1925―2003)などが注目を集めた。1980年代以降も、『ディーバ』(1981)のジャン-ジャック・べネックスJean-Jacques Beineix(1946―2022)、『秘密の子供』(1982)、『恋人たちの失われた革命』(2004年、ベネチア国際映画祭銀獅子賞)のフィリップ・ガレルPhilippe Garrel(1948― )、『ポンヌフの恋人』(1991)のレオス・カラックス、『デリカテッセン』(1991)、『アメリ』(2001)のジャン・ピエール・ジュネJean-Pierre Jeunet(1953― )、『そして僕は恋をする』(1995)、『キングス&クイーン』(2004)のアルノー・デプレシャンArnaud Desplechin(1960― )、『スパニッシュ・アパートメント』(2002)のセドリック・クラピッシュCedric Klapisch(1961― )、『レオン』(1994)のリュック・ベッソンなど才能豊かな監督を輩出している。
そのなかでとくに存在の際だつのは、ジャン・リュック・ゴダールである。1980年に商業映画に復帰したゴダールは、その後音と映像を複合させ映画の情報伝達と表現の可能性を極限まで探求しつづけ、6部からなる『ゴダールの映画史』(1988~1998)を発表、以後も『愛の世紀』(2001)、『アワーミュージック』(2004)、『ゴダール・ソシアリスム』(2010)などを発表している。
イタリアではビスコンティのあと、『父 パードレ・パドローネ』(1977、カンヌ国際映画祭パルム・ドール)のタビアーニ兄弟、『木靴の樹(き)』(1978、カンヌ国際映画祭パルム・ドール)、『聖なる酔っぱらいの伝説』(1988、ベネチア国際映画祭金獅子賞)のエルマンノ・オルミ、『暗殺のオペラ』(1970)、『ラストエンペラー』(1987、アカデミー監督賞他)のベルナルド・ベルトルッチらの個性派が重厚な人間観察を前面に押し出した作品を製作した。さらに20世紀末から21世紀初頭にかけて多様な作品がつくられ、ジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988、カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ他)、『シチリア!シチリア!』(2009)、『いつか来た道』(1998、ベネチア国際映画祭金獅子賞)のジャンニ・アメリオGianni Amelio(1945― )、『息子の部屋』(2001、カンヌ国際映画祭パルム・ドール)のナンニ・モレッティNanni Moretti(1953― )、べテランでは『夜よ、こんにちは』(2003、ベネチア国際映画祭芸術貢献賞)、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(2009)のマルコ・ベロッキオMarco Bellocchio(1939― )らが国際的にも高い評価を得た。
ドイツでは、1960年代に若い映画作家たちが登場し、1970年代にはニュー・ジャーマン・シネマが開花した。『アギーレ・神の怒り』(1972)のウェルナー・ヘルツォーク、『都会のアリス』(1974)、『パリ、テキサス』(1984、カンヌ国際映画祭パルム・ドール)のビム・ベンダース、『ブリキの太鼓』(1979、カンヌ国際映画祭パルム・ドール)のフォルカー・シュレンドルフら力のある作家が幻想的にあるいは写実的にドイツ人の情緒をとらえた。また、『シュタムハイム裁判』(1986、ベルリン国際映画祭金熊賞)のラインハルト・ハウフReinhard Hauff(1939― )や、『Uボート』(1981)のウォルフガング・ペーターゼンWolfgang Petersen(1941―2022)らも国際的な評価を得た。東西ドイツ統一後は、複雑な社会状況を投影した作品が多く現れた。シュレンドルフ、ヘルツォーク、ベンダースら巨匠のほか、『ラン・ローラ・ラン』(1998)、『パフューム ある人殺しの物語』(2006)のトム・ティクバTom Tykwer(1965― )、『グッバイ、レーニン!』(2003、ベルリン国際映画祭最優秀ヨーロッパ映画賞)のウォルフガング・ベッカーWolfgang Becker(1954― )、『愛より強く』(2004、ベルリン国際映画祭金熊賞)、『ソウル・キッチン』のファティ・アキンFatih Akin(1973― )、『白バラの祈り――ゾフィー・ショル、最期の日々』(2005、ベルリン国際映画祭最優秀監督賞)のマルク・ローテムンドMarc Rothemund(1968― )らが活躍した。同じドイツ語圏のミヒャエル・ハネケMichael Haneke(1942― )は『白いリボン』(2009)、『アムール』(2012)で国際的な場で決定的な評価を確立した。
イギリスでは『眺めのいい部屋』(1986)のジェームズ・アイボリーJames Ivory(1928― )をはじめとする文芸派が気を吐いていた。1990年代になると質の高い映画が多くつくられ、アンソニー・ミンゲラAnthony Minghella(1954―2008)の『イングリッシュ・ペイシェント』(1996、アカデミー賞作品賞)、ジョン・マッデンJohn Madden(1949― )の『恋におちたシェイクスピア』(1998、アカデミー作品賞)、マイク・リーの『ネイキッド』(1993、カンヌ国際映画祭監督賞)、『秘密と嘘』(1996、カンヌ国際映画祭パルム・ドール)、『ヴェラ・ドレイク』(2004、ベネチア国際映画祭金獅子賞)、『家族の庭』(2010)、ポール・グリーングラスPaul Greengrass(1955― )の『ブラディ・サンデー』(2002、ベルリン国際映画祭金熊賞)、ケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』(2006、カンヌ国際映画祭パルム・ドール)など多くの作品が国際的に高い評価を受けた。ダニー・ボイルDanny Boyle(1956― )はインドを舞台に『スラムドッグ$ミリオネア』(2008)で、アカデミー賞では作品賞を含む8部門を受賞した。
1970年代以降、さまざまな国に力作作家が台頭してきた。スペインでは『カラスの飼育』(1975、カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ)、『フラメンコ』(1995)、『フラメンコ・フラメンコ』(2010)などのカルロス・サウラや『ミツバチのささやき』(1973、サン・セバスティアン国際映画祭グランプリ)、『マルメロの陽光』(1992、カンヌ国際映画祭審査員賞他)などのビクトル・エリセらの様式的な演出家が活躍した。さらに『オール・アバウト・マイ・マザー』(1999、カンヌ国際映画祭監督賞他)、『トーク・トゥー・ハー』(2002、アカデミー賞脚本賞他)、『私が、生きる肌』(2011)などのペドロ・アルモドバル、『オープン・ユア・アイズ』(1997)、『海をとぶ夢』(2004、ベネチア国際映画祭外国映画賞他)などのアレハンドロ・アメナバルAlejandro Amenábar(1972― )など若い世代の作家が次々と登場している。ギリシアには極端に長いカットで独自のスタイルを築いた『旅芸人の記録』(1975)のテオ・アンゲロプロスがいた。アンゲロプロスは後に『永遠と一日』(1998)でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞している。ポルトガルでは、100歳を超えてますます創作意欲旺盛(おうせい)なマノエル・デ・オリベイラ(『家宝』2002年、『夜顔』2006年、『ブロンド少女は過激に美しく』2009年)から、若手のペドロ・コスタPedro Costa(1959― )(『ヴァンダの部屋』2000年、『コロッサル・ユース』2006年)まで、多彩な監督が活躍している。ベルギーでは、ジャン・ピエール・ダルデンヌJean-Pierre Dardenne(1951― )とリュック・ダルデンヌLuc Dardenne(1954― )の兄弟が、『ある子供』(2005、カンヌ国際映画祭パルム・ドール)、『ロルナの祈り』(2008)、『少年と自転車』(2011、カンヌ国際映画祭審査委員特別グランプリ)などの作品で国際的な評価を得た。
フィンランドのアキ・カウリスマキ(『過去のない男』2002年、『ル・アーヴルの靴みがき』2011年)、デンマークのラース・フォン・トリアー(『ドッグヴィル』2003年、『アンチ・クライスト』2009年、『メランコリア』2011年)などの活躍も見落とすことはできない。
また2000年代以降のルーマニアが躍進著しく、『4ヶ月、3週と2日』(2007)、『汚れなき祈り』(2012)などのクリスチャン・ムンギウCristian Mungiu(1968― )、『ブカレストの東、12時8分』(2006、カンヌ国際映画祭カメラ・ドール)のコーネリウ・ポルンボユCorneliu Porumboiu(1975― )、日本では、フランス映画として公開された『オーケストラ』(2009)のラデュ・ミヘイレアニュRadu Mihǎileanu(1958― )、『ラザレスク氏の最期』(2005)のクリスティ・プイウCristi Puiu(1967― )らの気鋭が一斉に活躍し始めた。
ロシアでは『僕の村は戦場だった』(1962、ベネチア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞)、『惑星ソラリス』(1972、カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ)のアンドレイ・タルコフスキーのあと、『ウルガ』(1991、ベネチア国際映画祭金獅子賞)、『太陽に灼(や)かれて』(1994、カンヌ国際映画祭グランプリ)、『戦火のナージャ』(2010)のニキータ・ミハルコフ、『チェチェンへ アレクサンドラの旅』(2007)、『ファウスト』(2011)のアレクサンドル・ソクーロフ、『父、帰る』(2003、ベネチア国際映画祭金獅子賞他)のアンドレイ・ズビャギンツエフ(1964― )らが活躍した。ジョージア(グルジア)では『ピロスマニ』(1969)のゲオルギー・シェンゲラーヤGiorgi Shengelaya(1937―2020)といった情緒派が活動していたし、最近では『シビラの悪戯(いたずら)』(2000、ブリュッセル映画祭審査員特別賞)をつくった女性監督ナナ・ジョルジャーゼNana Dzhordzhadze(1948― )が注目されている。さらにトルコには『路(みち)』(1982、カンヌ国際映画祭パルム・ドール)のユルマズ・ギュネイのような風土に根ざした作風を主張する監督をはじめ、トルコの民族問題をテーマにした『遥かなるクルディスタン』(1999、ベルリン国際映画祭最優秀ヨーロッパ映画賞他)を製作したイェシム・ウスタオウルYesim Ustaoglu(1960― )などトルコの民族問題をテーマにする作家の一方で、『卵』(2007)、『ミルク』(2008)、『蜂蜜(はちみつ)』(2010)の三部作で注目されたセミフ・カプランオールSemih Kaplanolu(1963― )がおり、多くの国に優れた映画作家が輩出し、互いに異なる様式を競っていた。
アジアの国々でも、1985年ごろから、各国で政治経済体制の変化が起こり、優れた映画がつくられ注目されるようになった。なかでも中国映画の興隆は目覚ましいものがある。俗に第五世代といわれる若い作家たちが競って活躍した。たとえば中国本土では、陳凱歌(チェンカイコー)の『黄色い大地』(1984)、『子供たちの王様』(1987)、『さらば、わが愛/覇王別姫(はおうべっき)』(1993、カンヌ国際映画祭最高賞)、張藝謀(チャンイーモウ)の『紅(あか)いコーリャン』(1987、ベルリン国際映画祭金熊賞)、『菊豆(チュイトウ)』(1990)、『秋菊の物語』(1992、ベネチア国際映画祭金獅子賞)、『あの子を探して』(1999、ベネチア国際映画祭金獅子賞)、田壮壮(ティエンチュアンチュアン)の『盗馬賊』(1986)、『青い凧(たこ)』(1993、東京国際映画祭グランプリ)などがあげられる。また第六世代の監督の作品としては、賈樟柯(ジャジャンクー)(1970― )の『一瞬の夢』(1998、ベルリン国際映画祭最優秀新人監督賞)、『長江哀歌(エレジー)』(2006、ベネチア国際映画祭金獅子賞)、張元(チャンユアン)(1963― )の『ただいま』(1999、ベネチア国際映画祭銀獅子賞・監督賞)、姜文(チアンウェン)の『鬼が来た!』(2000、カンヌ国際映画祭グランプリ)、『さらば復讐(ふくしゅう)の狼たちよ』(2010)、王全安(ワンチュアンアン)(1965― )の『トゥヤの結婚』(2006、ベルリン国際映画祭金熊賞)などがあげられる。さらに下の世代では王兵(ワンビン)(1967― )の『無言歌』(2010)が力をみせた。
台湾では侯孝賢(ホウシャオシェン)の『童年往事』(1985)、『悲情城市』(1989、ベネチア国際映画祭金獅子賞)、『戯夢人生』(1993)、『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』(2007)、またハリウッドで活躍する李安(アン・リー、1954― )の『ウェディング・バンケット』(1993)、『ブロークバック・マウンテン』(2005、アカデミー監督賞)、楊徳昌(エドワード・ヤン)の『ヤンヤン 夏の想い出』(2000、カンヌ国際映画祭監督賞)などが注目され、蔡明亮(ツァイミンリャン)(1957― )の『西瓜』(2005)、『黒い瞳のオペラ』(2006)なども力作である。
香港(ホンコン)では程小東(チンシウトン)(1953― )の『テラコッタ・ウォリア 秦傭(しんよう)』(1990)、関錦鵬(スタンリー・クワン、1957― )の『阮玲玉(ルアンリンユィ)』(1991、シカゴ国際映画祭最優秀監督賞)、王家衛(ウォンカーウァイ)の『ブエノスアイレス』(1997、カンヌ国際映画祭最優秀監督賞)などがあげられる。彼らの活躍は、国際映画祭でもしばしば受賞を重ねていることでも認められる。中国返還後は、『桃(タオ)さんのしあわせ』(2011)の許鞍華(アン・ホイ、1947― )のように香港で製作を続ける映画人もあれば、程小東のように、アメリカや中国との合作も手がけつつとどまって制作を続ける映画人もおり、また関錦鵬や王家衛など、外国へ拠点を移す監督も現われている。
韓国をみると林權澤(イムグォンテク)の『キルソドム』(1985、シカゴ国際映画祭人類平和賞)、『風の丘を越えて 西便制(ソピョンジェ)』(1993)、『春香伝』(2000)、李長鎬(イジャンホ)(1945― )の『旅人(ナグネ)は休まない』(1987)、朴鐘元(パクジョンウォン)(1958― )の『九老(くろ)アリラン』(1989)、金裕珍(キムユジン)(1950― )の『あなたが女というだけで』(1990)、『ワイルドカード』(2003)、姜帝圭(カンジェギュ)(1962― )の『シュリ』(1999)、金基徳(キムギドク)の『サマリア』(2004、ベルリン国際映画祭銀熊賞)、『アリラン』(2010)、ナ・ホンジンNa Hong-jin(1974― )の『チェイサー』(2008)など注目される監督・作品は多い。1998年、韓国は日本の大衆文化を解禁、少しずつ日本映画が韓国で一般公開され始めるとともに、日本でも韓国映画の一般公開が進展した。テレビドラマともども、韓流の名のもとに、裵勇俊(ペヨンジュン)(1972― )から張根碩(チャングンソク)(1987― )までのスターが日本でとくにもてはやされている。
タイでは、アピチャポン・ウィラセータクンApichatpong Weerasethakul(1970― )が『ブンミおじさんの森』(2010)でタイ映画として初めて第63回カンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受賞し、かねてからの評価が国際的に承認される形となった。
インドでは早くから国際的に知られた民族映画作家ともいうべきサタジット・ライのほか、『魔法使いのおじいさん』(1979)のアラビンダンAravindan(1935―1991)などが相次いで他界し、世代交代の様相をみせ、『ボンベイ』(1995)のマニ・ラトナムMani Ratnam(1956― )、『ムトゥ 踊るマハラジャ』(1995)のK・S・ラビクマールRavikumar(1958― )、『クロスファイアー』(1997)のリトゥポルノ・ゴーシュRituparno Ghosh(1963―2013)、『モンスーン・ウエディング』(2001、ベネチア国際映画祭金獅子賞)のミーラー・ナイールMira Nair(1957― )ら、自国以外の各地の撮影所を拠点とする監督が登場している。これら娯楽性の強い映画を作るインド映画界は、ボリウッドとよばれ、その代表作アディティヤ・チョープラーAditya Chopra(1971― )の『シャー・ルク・カーンのDDLJラブゲット大作戦』(1995)はムンバイで現在も上映が続いている。
前述のように、中国、台湾、香港などで外国に拠点をすえる監督が増えているが、他の国でも、エチオピアのハイレ・ゲリマHaile Gerima(1946― )(『テザ 慟哭(どうこく)の大地』2008年)はアメリカに、オランダのロルフ・デ・ヒーアRolf De Heer(1951― )(『バッド・ボーイ・バビー』1993年、『アレクサンドラの企て』2003年)はオーストラリアに拠点を移し、ボスニア・ヘルツェゴビナのダニス・ダノビッチDanis Tanović(1969― )(『ノー・マンズ・ランド』2001年、『美しき運命の傷痕(しょうこん)』2005年)も、自国を離れて活動している。
イスラエルのアモス・ギタイAmos Gitai(1950― )は、『キプールの記憶』(2000)、『フリー・ゾーン』(2005)など、精力的にアラブと対立してきたイスラエルの現代史を描いている。一方、パレスチナでは『D.I.』(2002)、『セブン・デイズ・イン・ハバナ』(2012)などのエリア・スレイマンElia Suleiman(1960― )らが自国の視点を押し出している。
イランでは、風土に根ざす作家として知られるアッバス・キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』(1987)、『桜桃の味』(1997)、『トスカーナの贋作(がんさく)』(2010)、マジッド・マジディの『運動靴と赤い金魚』(1997、モントリオール国際映画祭グランプリ)、『少女の髪どめ』(2001)のほか、モフセン・マフマルバフMohsen Makhmalbaf(1957― )の『ギャベ』『パンと植木鉢』(ともに1996)、『カンダハール』(2001)、モフセンの娘であるサミラ・マフマルバフSamira Makhmalbaf(1980― )の『りんご』(1998)、『午後の五時』(2003)、ジャファル・パナヒJafar Panahi(1960― )の『白い風船』(1995、カンヌ国際映画祭カメラ・ドール他)、『チャドルと生きる』(2000、ベネチア国際映画祭金獅子賞)、『オフサイド・ガールズ』(2006、ベルリン国際映画祭銀熊賞)などがあげられる。
アフリカではセネガルのウスマン・センベーヌの『母たちの村』(2004、カンヌ国際映画祭ある視点部門グランプリ)、南アフリカのマーク・ドーンフォードメイMark Dornford-May(1955― )の『U・カルメン・イ・カエリチャ』(2005、ベルリン国際映画祭金熊賞)、スティーブ・ジェイコブスSteve Jacobs(1967― )の『ディスグレース』(2008)、ギャビン・フッドGavin Hood(1963― )の『ツォツィ』(2005)、ニール・ブロムカンプNeill Blomkamp(1979― )の『第9地区』(2009)などのほか、チュニジア、モロッコなどで映画製作が進められており、他国に影響を及ぼしており、ナイジェリアがエンタテインメント製作の拠点になろうとしている。またタイ、インドネシア、フィリピン、ベトナムなど多くのアジアの国々やトルコなど中近東の国々が、それぞれの国情を反映する映画で個性を発揮して関心を集め、映画が国情を写す鏡として世界に広がりつつある。
日本映画は前述したように、1951年(昭和26)に黒澤明の『羅生門』がベネチア国際映画祭でグランプリを獲得したのを手始めに、彼の『七人の侍』(1954)、『蜘蛛巣(くものす)城』(1957)、溝口健二の『雨月物語(うげつものがたり)』(1953)、新藤兼人(かねと)の『裸の島』(1960)、市川崑(こん)の『ビルマの竪琴(たてごと)』(1956)、大島渚(なぎさ)の『少年』(1970)、小林正樹(まさき)の『人間の條件(じょうけん)』(1959~1961)、今村昌平の『楢山節考(ならやまぶしこう)』(1983)、熊井啓の『海と毒薬』(1986)、三國連太郎(みくにれんたろう)(1923―2013)の『親鸞(しんらん) 白い道』(1987)などの海外受賞が続いて、日本映画の芸術的声価は定まった観がある。しかし、言語や風俗の壁もあって、興行的な成果がこれに伴うところまではいっていない。今後の課題であろう。ただし、その後の動向をみると、伊丹十三(いたみじゅうぞう)の『マルサの女』(1987)、周防正行(すおまさゆき)の『Shall We ダンス?』(1996)などのアメリカでのヒット、北野武の『HANA-BI』(1997)のベネチア国際映画祭グランプリ受賞、今村昌平の『うなぎ』(1997)のカンヌ国際映画祭最高賞受賞、宮崎駿(はやお)のアニメ作品『もののけ姫』(1997)の国内大ヒット、『千と千尋(ちひろ)の神隠し』(2001)の興行収入・観客動員日本新記録達成およびベルリン国際映画祭金熊賞・アカデミー賞長編アニメーション映画賞受賞、河瀬直美(1969― )の『殯(もがり)の森』(2007)のカンヌ国際映画祭グランプリ(審査員特別大賞)など、日本映画の新しい訴求力がみえてきた。また、『ザ・リング』(2002)、『Shall We Dance?』(2004)、『THE JUON 呪怨(じゅおん)』(2004)、『HACHI 約束の犬』(2008)など、アメリカ映画による日本映画のリメイクも行われるようになった。日本映画は大きく変わろうとして、その過渡期にあるようにみえる。
また、1990年代以降、サタジット・ライ、アラビンダン、ジョン・ヒューストン、ビリー・ワイルダー、黒澤明、ベルイマン、アントニオーニなど、長らくその国の国際的な顔となった監督が他界した。そのあとの世代のクロード・シャブロルやエリック・ロメール、ラウル・ルイスRaoul Ruiz(1941―2011)、さらに若いテオ・アンゲロプロス、アンソニー・ミンゲラ、楊徳昌(エドワード・ヤン)らも逝き、映画が大きくさま変わりする要因となった。
しかし全体としてみると、映画を製作する国や作家たちは急速に増え、新しい時代に入ったといえる。世界映画の動向をみると、アメリカ映画の娯楽価値が一段と高まり、世界の映画市場に大きな勢力を占めつつあるのが目だち、国民文化の反映を特色として優れた映画の伝統を守ってきたフランス、イタリア、イギリスなどが自国の市場をアメリカ映画に侵食されつつある点が問題視されている。一方、国際的な映画人の交流や合作が活発に行われる点でも新しい傾向がみられる。世界の映画はますます底辺が広がり、交流が活発化する方向を示している。
[登川直樹・出口丈人]
産業としての映画
映画は、それが創作され鑑賞されるという基本の形で他の芸術と異なるものではないが、大掛りな装置や精密な機械の操作を組み入れており、いろいろな専門分野を担当する芸術家や技術者が協力して一つの作品を生み出す点で、それまでの芸術と大きく違っている。とくに、通常の映画が多額の資金を投じて製作され、その回収のために多数の観客を対象として上映される点では、りっぱに産業の形態をなしている。歴史的にみても、動く写真として珍しがられた当初から映画は大衆の関心を集め、同じ作品が多数のプリントに複写されて、各地の劇場で繰り返し上映されることでたちまち大きな興行の対象物となり、有利な娯楽産業に発展した。もちろん、そのために宣伝が重要な役割を負う。映画事業は大別して三つある。製作、配給、興行。これを一般の商品に当てはめれば、製造業、卸売業、小売業に相当する。
[登川直樹]
製作
題材を選びシナリオにし、製作スタッフや出演者の配役を編成し、必要な準備ののちロケーションやセットで撮影し、そのフィルムを意図した展開や表現に沿ってつなぎ、音をつけて1本の作品に仕上げる。資金や技術者を集め設備・機材を用いて映画を製作する仕事はプロダクションによって行われる。アメリカやかつての日本では、必要な設備を整えた撮影所をもち、多くの技術者を抱えて、それを円滑に回転させて映画製作を量産的に行ってきた。これを大手の製作会社(メジャー)とよぶ。これに対し、撮影所をもたず、必要なスタッフをその期間だけ集めて製作する組織を独立プロダクションとよぶ。フランスをはじめヨーロッパの多くの国はこの方式をとるが、年とともに日本やアメリカでも独立プロによる作品が増えている。多数の映画を継続的に製作する場合は、メジャーのほうがスタッフの技術者や労働者をフルに回転させる点で資金的に効率がいいという利点がある。しかし1本ずつ別の作品をつくる立場からみれば、個々の企画にふさわしい陣容をそのつど編成する独立プロのほうがむしろ内容を生かすことになる、といった長所がある。メジャーとしては量産システムを安定させるために、同じ俳優の人気を高めて繰り返しその主演映画をつくるスター・システムや、同じ企画のもとに連作するシリーズ製作などの方法をとることにもなり、思いきった企画の冒険が困難になるという事情もある。映画はいわば無から有を生じるもので、芸術的ないし娯楽的に優れた作品をつくることと、投じた資金を回収できることという二つの要求にこたえなければならない。内容上の責任をとるべき立場にあるのは監督だが、経済的責任を負うのは製作者で、両者の円滑な調整が成功の鍵(かぎ)となる。企画の選択、投下すべき製作費の策定、優れた映画にするためのスタッフや出演者の編成などは製作者の重要な仕事である。また、本来の製作作業である撮影を経て、編集や音をつけ効果を加えるポストプロダクションの比重が近年とくに高まっている。
日本でも、大手の撤退を受けて、独立プロダクションをメインにした制作体制がようやく整備され始めた。映画ファンドの誕生と運用、文部科学省の助成、実際の街をロケ地に使うために問題を解決し運営していくフィルム・コミッションなどである。また映画製作のためのテレビの出資が大きいのも日本の特徴である。
[登川直樹・出口丈人]
配給
映画を製作者から提供され興行者に提供する、つまり製作者と興行者の仲介をとる仕事を配給という。配給を事業として効率的に行うためには、契約する映画館を番線に編成し、各プリントがむだなく映画館から映画館を流れていくようにしなければならない。当然大都市の大劇場から順次地方の映画館にプリントは流れていく。興行者との契約にあたっては、映画館であげた興行収入のうち一定の割合を配給料金として徴収するものを歩合契約といい、大都会の上位番線の劇場ではこの方式をとることが多い。一方、下番線では、フラットといって興行収入にかかわらず一定金額の配給料金を徴収する定額制をとることが多い。配給会社では、集めた配給収入のうちから、すでに投じたその映画のための宣伝費、宣材費、プリント費、配給手数料などを差し引き、契約に従って製作者に還元する。配給事業を安定させるためには多数の劇場と契約し、これを番線に組んで多数のプリントが効率よく稼動するように劇場網を編成し、同時にその劇場網に興行が絶えることのないように作品を提供することが望ましい。こうして毎週ないし毎興行の番組を提供することを「全プロを組む」といい、大手の配給会社ではこれを行っている。大手の映画会社は配給業のみならず製作業も兼ねている場合が多いが、自社の製作する映画だけでは不足する場合、独立プロの作品を組み入れて全プロを編成することになる。
宣伝は、製作段階でも、興行者によっても行われるが、配給宣伝がもっとも大きな力をもつので、この段階で多額の宣伝費が使われる。宣伝はそれに費やされる金額も問題だが、作品内容に応じた宣伝の質も問題であり、新聞広告、ポスター・デザイン、テレビCMなどの広告媒体の使い方も含めて、高度に専門的で微妙な側面をもつとされる。
[登川直樹]
興行
料金をとる見せ物はすべて興行とよばれるが、映画はその誕生から興行の形をとった。他の多くの興行が、1回ずつ演じることを必要とするのに対し、映画は、映写という機械的作業の繰り返しによって興行ができ、その効率によって有利な興行物とみられる。昔は芝居小屋や寄席(よせ)を兼ねたが、たちまち映画上映を主目的とする劇場、つまり映画常設館が増えた。映画館はその大きさや立地条件、さらには上映する映画の新しさなどによって自然と格が備わる。新しい映画が最初に上映される封切館、あるいは一般の封切りに先だって上映されるロードショー劇場などは高い入場料金をとることができる。封切りから日がたつにつれて入場料金は低くなり、上映する劇場も地方の下番線に移るので、配給収入は減少していく。しかし、封切り後、時を経るにしたがってその作品の評価が定まり、新しい価値をもって名画座クラスの映画館に登場することもある。
1960年代以降、欧米では生活実態の変化を反映し、深夜まで映画を上映するミッドナイトシアターや、過去の作品を上映する専門館などが人気をよぶようになった。また商業的には輸入されることのない作品を紹介する映画祭も盛んになった。日本でも1981年(昭和56)に開催された東京国際映画祭を境に、興行と非興行の境界が崩れ始めた。そのような場でみいだされた映画を小規模に輸入・公開する場としてミニシアターが盛んになった。その間、欧米の大都市では広い客層の選択にこたえるため、数個の劇場を一つの建物に収めたシネコン(シネマ・コンプレックス=複合型映画館)が増え、従来の興行街にかわる新しい形態として発展し、日本も遅れてこの道を歩んだ。
これらの動きと並行して、ビデオテープ、DVD、ブルーレイディスク、衛星放送など、興行にかわるメディアも現れ、二次使用、三次使用、あるいは劇場未公開作品の商品化など、消費形態の複雑化により興行は相対的に重要性を失っていった。近い将来、デジタルデータによる映画配信も想定されるようになってきている。そうしたなかで、映画館は映画上映だけでなく、スポーツのライブ映像やコンサート映像の放映・上映を楽しむ催しの場として利用されるようなことも起こっている。
[登川直樹・出口丈人]
輸出入
今日映画を活発に製作しつつある国には、アメリカ、インド、日本、中国、韓国、フランス、イタリア、イギリスなどがあげられる。このうちアメリカ、インド、中国、韓国は、自国の映画が、国内で上映される映画の半数以上を占めている。日本は邦画、外国映画ともに公開本数が多いが、その興行成績は1985年までは邦画優位(ただし1975~1976、1978、1984年は外国映画が優位)、1986年から逆転して外国映画が優位、しかし2006年にはふたたび逆転、邦画優位となったが、2007年には外国映画が再逆転で優位。その後、ほぼ拮抗(きっこう)しつつも日本映画優位で推移したが、2012年には日本映画の興行収入は全体の65.7%となり、外国映画に大差をつけた。
アメリカは第一次世界大戦以後、量産に励み、世界に輸出するようになった。世界からスターや監督を集め、国際的に人材を求めながら大衆性の強い映画を大量に製作して各国の映画市場に進出していった。第二次世界大戦後、映画祭などで国際交流が盛んになり、優れた映画国や映画作家が国際的な注目を集めるようになり、芸術映画もアート・シアターの出現などで紹介の道は開けたが、言語や風俗などの相違もあって商業的な映画の流れが支配的である。
1980年代以降、映画祭は芸術的な映画作家の新作発表会という性格を強めたが、その後映画が各国で娯楽としての力を失うにつれ、若い才能を発掘する方向に転換した。映画祭自体が情報の中心となり、評価を得た作品の作風を追う若手も多く、個性化が進むばかりとは限らない。他方、映画製作にかかわる資金が多国籍化することで、製作国の区別がしだいに曖昧(あいまい)になり始めるにつれ、映画祭は作品のセールス、国際提携の商談など、ますます商業的性格に特化している。とはいえ、映画は商品として需要に応じて買われるだけではなく、積極的にキャラクターグッズなどの関連商品を集めたり、舞台になった地域に旅行するような熱烈な消費者を生むことも起こる。それは経済的利益をもたらすだけでなく、その国の文化を他国の人々になじませ、興味をもたせ、愛好させるソフトパワーとなる可能性も秘めているであろう。
[登川直樹・出口丈人]
著作権
映画の著作権は複雑な問題をかかえている。日本では映画の著作権者は製作者、つまり資金を供給し製作を実行した製作会社と定めている。これはアメリカと同じ考え方だが、ヨーロッパではその映画の監督などにも著作権を認めている。日本では映画の監督、カメラマン以下は著作者として、著作権者とは区別する立場をとっている。また著作権を営業権と人格権に分けて、監督には人格権を認め、営業上の理由から作品を映画会社が勝手に短縮したり編集し直したりすることはできないとしている。しかし映画がテレビ放映されビデオ化されるなどの、いわゆる二次使用、三次使用が増えると、その営業収益の配分をめぐって大きな問題がおきている。現在、認められた部分著作権の権利者としては、シナリオ執筆者、音楽担当者がいる。それらは脚本、楽譜など形に残るものがあって認められたわけだが、カメラマン、俳優などの権利はまだ製作会社側と製作参加者側との間で合意できず議論の渦中にあり、困難な問題とされている。
国際間の著作権を取り決めたベルヌ条約によれば、加盟国は、著作権の保護期間を、著作者の死亡から最低でも50年としている。ヨーロッパ連合諸国およびアメリカ合衆国は、いずれも1990年代に保護期間を死後70年に延長する法改正を実施した。またそれ以上の期間にわたって著作権を保護する国もある。映画に関しては、従来日本では、著作物の著作権が公表後50年を経過するまで存続するものと定めていた。その後、欧米と同水準の期間延長を主張するコンテンツ業界や権利者団体と、著作物の利用促進の観点からの反対派の論争が続き、著作権法は2004年(平成16)1月1日に改正施行され、映画の著作物の著作権は公表後70年存続することになった。しかし2004年1月1日の時点ですでに著作権が消滅している映画は該当しない(つまり保護期間は50年となる)。この結果、1953年(昭和28)につくられた『ローマの休日』や『シェーン』などの権利が、日本国内では、2003年12月31日で消滅する事態が起きた。著作権の保護期間は、著作物が公表されるか創作された日の属する年の翌年(前記の場合1954年1月1日)から起算するため生じた事態である。
[登川直樹・出口丈人]
文化としての映画
絵画、彫刻、文学、音楽、演劇、舞踊など、映画が誕生する以前にすでに長い歴史をもっていた芸術は、その多くが個人の創作によって形を表していた。たとえ集団による創作でも、それに至る作業は人間的な、いわばソフトな作業であった。しかし映画はまったく異なる。カメラ、フィルム、撮影、現像、編集、録音といったような、まったくハードな科学技術的な機材や資材を用いなければ映画はつくれない。したがって当初は、このように科学技術的な手段を不可欠とする映画は芸術とは認めがたいとする考えが強かった。事実1910年代までは、ドイツの美学者コンラート・ランゲが論じたように、芸術的表現の余地はないものとする意見が是認されていた。たとえR・カニュードのように映画を新しい芸術として認めるにしても、現在はまだ幼稚だが将来は偉大な芸術となろうといって、未来の可能性に託するという認め方であった。
確かに初期の映画はたあいなく、動く写真の域をあまり出なかった。にもかかわらず、その珍しさは大きな魅力となって大衆をひきつけた。そして、大衆が動く写真の珍しさに飽きる前に、映画はもっと魅力あるものを見せるように成長していた。動くものをそのままに記録し再現する力を利用して、一つの話を物語って楽しく見せるという方法で多くの映画がつくられた。また映画の表現は無限の豊かさをもっていることを作者たちは認識し、さまざまな映画をつくっていった。
映画はまず「記録」であった。単に動くものを再現してみせるだけでなく、見知らぬ世界を映し出して見せる点で威力を発揮した。地球上のありとあらゆる事象が撮影の対象となり、観客を探検の旅に誘った。またエベレストの山頂でも、アフリカの奥地でも、紅海の海底でも、南極大陸でも、およそカメラの持ち込める所はすべて記録し再現することができた。そればかりでなく、遠く地球外の情景を望遠レンズで写し撮ってくることも、顕微鏡下の極微の世界をスクリーン上に拡大して見せることもできる。ときには、数時間を要する天体の動きをわずか十数秒に短縮して見せることもできれば、火薬の爆発のような一瞬のできごとを緩慢な動きに引き延ばして見ることもできる。映画の記録再現の機能は科学映画の分野で大いに発揮された。また社会のできごとを映画によってとらえ、そのとらえ方を通してそのできごとに対する見方や解釈を表明することができた。
そのような記録の働きを利用して映画を「教育」に役だてることも活発に行われた。生物の生態を観察したり、科学的な現象を認識したりするために、それらをわかりやすく説き明かして見せる映画が教材として使われた。社会現象の認識に関する映画も同様である。教育映画はさらに発展して学校教育のあらゆる教科に及び、また社会教育のうえでも多くの映画が製作され利用されるようになった。
映画はまた「宣伝」の有力な媒体でもある。映画館やテレビで映しだされる大量のコマーシャル・フィルムはその事実を物語っているが、単に商業上の宣伝にとどまらず、政府によって公共PRにも使われれば、戦時にあっては思想宣伝や国家のプロパガンダにも利用される。記録、教育、宣伝といった機能は、映画全体からみればごく一部を占めるにすぎないと考えられがちだが、大部分を占める娯楽映画のなかでさえ、これらの機能は働いている。ただの娯楽として見たはずの映画でさえ、なにかの知識を伝えてくれたり、人間や社会について格別の認識や判断を与えてくれることが無意識のうちにもあるもので、そこに映画の目に見えない大きな働きがある。
「娯楽」としての映画をみると、実に多くの作品がつくられ、その題材もテーマも表現のスタイルも限りなく変化に富んでいるが、その豊かさが観客大衆に与える影響は非常に大きい。また映画は「芸術」でもあって、人生について深い真実を語り、それも感動的に物語る力をもっていて、昔から名作、傑作とよばれる数多くの作品がそのことを証明してきた。ただ映画は娯楽や芸術でありながら同時に産業でもあるために、製作者にとっては両者の兼ね合いがむずかしい問題となりがちである。
映画は社会に影響を与え、社会はまた映画に影響を及ぼす。この相互の関連はほかの芸術や娯楽の文化現象と変わらない。しかし、映画は映像による表現という、より具体的で直接的な訴え方をするために、ほかの芸術・文化よりも社会的影響が問題になりやすい。そのために早くから検閲の対象にされてきた。国や地方は、社会の秩序に適しないとの理由から映画の表現内容に干渉する。国を単位として政府が行う国家検閲の制度をもつ国が多いが、なかには自治体の行政に任せているアメリカのような国もある。日本では国の検閲は第二次世界大戦後廃止され、これにかわるものとして映倫(映倫管理委員会)という映画界の自主的な規制の制度が設けられた。国家検閲がとかく思想統制や表現拘束に走りがちな過去の実情からみれば、それを防ぐ意味でも映倫の自主規制は尊重されねばならないが、一方には作家の側に表現の自由という権利があり、これを制限する以上は、社会の秩序や世論の判断をどう策定するかの問題があって、しばしばその間に摩擦が生じる。こうした規制は、時代によっても国情によっても大きな違いがあるが、時代とともに社会通念は変化するもので、歴史的にみれば規制はしだいに緩和される方向に移っている。しかし時代とともに性と暴力の表現がエスカレートする傾向にあり、作品によっては裁判事件に発展したこともある。
社会風俗に与える映画の影響は、性や暴力に限らず大きいものがある。たった1本の映画が大ヒットすることで、その主人公の服装やしぐさが流行を巻き起こしたという例もあれば、1本の映画がそれに反対する人々の暴動を引き起こした例もある。また優れた映画がその感動によって大衆を感化させたという場合は数えきれない。国際的な映画の交流は、映画の輸出入や映画祭の上映などでますます活発になったが、映画によって大衆の間に植え付けられる知識や判断もけっして小さなものではない。私たちは未知の国や人々について、映画からいつのまにか豊富な認識を抱いていて、いわばパリの街角からアフリカの奥地まで、なんとなく知っているような印象をもつが、それらはほとんど映画やテレビなどの映像から得たものである。日本人がいつのまにか欧米流の握手やデートの仕方をするようになったのも同様の影響であろう。こうして映画は、その後に普及したテレビとともに、知識や風俗に影響し、さらにはものの考え方にまでも目に見えぬ力となって働いていることがわかる。
映画がこのように時代時代で大衆の欲望を先取りし、反映してきたことの積み重ねは、映画の歴史が100年を超えた現在では、過去を読み解く有力な文化的資料でもある。こうした共有の財産としての映像に対し、映像による教育ではなく、映像についての教育、映像への教養が不可欠となろう。そのような可能性を支える映像アーカイブの重要性も増している。2008年4月、FIAF(国際フィルム・アーカイブ連盟)は設立70周年を機に、世界に向けて映画フィルムの重要性を喚起する活動を始めた。
[登川直樹・出口丈人]
映像メディアの多様化
映画の歴史はようやく100年を超えたが、その間に技術的にはトーキー化、色彩化、大型化など次々に革新がおこり、産業としても、娯楽、芸術としても目覚ましく発展し、ひろく大衆の心に浸透してきた。しかしテレビが普及し、続いてビデオをはじめDVDや衛星放送など数々の映像メディアが登場し、またデジタル・カメラや撮影機能のある携帯電話などの映像機器の普及によって、映像は多様化し、その質も変わってきた。これに加えてコンピュータの普及とともにCGソフトが一般化したことが、映画のあらゆる面に大きな影響を及ぼしている。
映画製作への影響は、だれもが低予算で簡単に作品作りに手をつけられ、それぞれの発想を視覚化できるため、まず映画の多様化として現れる。メジャーの製作会社による、多数の観客を想定した一般的な内容というモードに限られていた時代から、作り手の個人的表現意欲を優先させるインディペンデント系の作品がつくられるようになって、映画は多様化したが、さらに、最初から一般観客を切り捨てて、特殊なテーマや趣味を前面に押し出すカルト映画(一部の熱狂的ファンに支持される映画)が数を増やすこととなった。それらはさらに細分化し、身近なグループや個人的な記録ともいえるような作品までが映画としてひしめいている。一方、メジャー系の作品では、電子技術によって映像を加工するポストプロダクションの比重も高まっている。
映像の多様化により、映画の受容形態の多様化も進んでいる。2011年にデジタル放送に移行したテレビ放送では、地上波だけではなく、多チャンネル化した衛星放送やCATVなどを通して多くの映画が放映されており、またインターネットでの映画配信が始まるなど、鑑賞のあり方自体が多様化してきた。その結果、映画の製作は映画館の観客だけを想定するものではなく、劇場用映画のテレビ放映や、各種映像メディアによる二次使用、三次使用を前提とするようになった。
日本の場合、映画館の入場者数は最盛期の1958年(昭和33)では11億2745万2000人であったが、1990年(平成2)には1億4600万人と1割近くに激減し底を打った。かわって1980年代前半に登場したレンタルビデオ店が、全国で1万3000店(1990)を超えた。その後、店舗間料金競争の激化、レンタル主体のビデオテープからセル中心のDVDへの移行等の影響により、大手チェーン店が勢力を拡大し小規模店が廃業、業界内で淘汰が進んだため店舗数は減少し、2012年の時点で約3600店となった。映画館の入場者数は2000年代に入りやや増加し2012年の時点で1億5515万9000人。また劇映画の映像ソフト(DVDビデオ・ビデオカセット)の小売店舗売上は年間3030億円(2011)、メーカーの売上は1914億円(2011)、映画鑑賞人口推定6億3694万人に達した(2011)。この数字は映画館の上映よりもはるかに大量の映画が映像ソフトで鑑賞されている事実を物語っている。
娯楽産業としての映画製作はますます巨大化し、アメリカ映画が世界の娯楽映画をリードする形勢がさらに広がってきたが、一方では各国で国民性に根ざした映画の重要性が叫ばれ、作家の個性を尊重する傾向も強い。またビデオカメラの普及によってアマチュアのビデオ撮影が盛んになり、プロの作品を見ることと並んでアマチュアの映像づくりが広まった。さらに電子技術が多様化し、われわれを取り巻く映像表現手段は、ますます多様かつ身近なものになりつつあって、当然、現代人の映像認識にも大きな影響を与えている。
テレビはハイビジョン化し、画質の印象は映画に近づいた。CGはアニメーションと実写の境界を曖昧にしている。かつてアニメーションをさした「動画」という言葉が現在ではサイト上の断片的映像をさすことばとして使われるようになっている。このことは、21世紀に入ってからの映像状況の大きな変化を物語っていよう。
このように、映像の多様化とともに映像の断片化も進んだ。ユーチューブのような動画投稿サイトや各種のホームページでは、ある映像作品の一部のみを見ることができる。そこに現れる映像は、本来の作品では、組み立てられた作品の一部であったが、作品から切り離された断片であり、そこには作品の文脈が見えるわけではない。こうして映画を見るという行為の輪郭が揺らいできている。おそらく観る者はそうした意識をもたないだろう。映像は、もはや「作品」としての特別な存在ではなく、われわれの内で空気のように当たり前なものとして環境化しているからである。
こうして映画はデジタル化という大きな波に洗われているわけであるが、アメリカ映画芸術科学アカデミーは2007年12月「ザ・デジタル・ジレンマ」というレポートを発表し、映画作品を保存するもっとも合理的な媒体として、フィルムを選び、フィルムで保存することを決めている。映画の今後は、どのような展開になっていくか注目されよう。
[登川直樹・出口丈人]
『ダニエル・アリホン著、岩本憲児・出口丈人訳『映画の文法――実作品にみる撮影と編集の技法』(1980・紀伊國屋書店)』▽『ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定訳『世界映画史1』第2版(1980・みすず書房)』▽『岩本憲児・波多野哲朗編『映画理論集成──古典理論から記号文学の成立へ』(1982・フィルムアート社)』▽『ジェイムス・モナコ著、岩本憲児・内山一樹他訳『映画の教科書』(1983・フィルムアート社)』▽『リチャード・プラット著、リリーフ・システムズ訳『ビジュアル博物館34 映画』(1992・同朋舎出版)』▽『ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定・村山匡一郎・出口丈人・小松弘訳『世界映画全史』全12巻(1992~2000・国書刊行会)』▽『ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定訳『世界映画史2──映画の発明 初期の見世物 村山匡一郎』(1993・みすず書房)』▽『ポール・ローサ著、厚木たか訳『ドキュメンタリィ映画』(1995・未来社)』▽『佐藤忠男著『世界映画史』上下(1995、1996・第三文明社)』▽『浜口幸一・村尾静二・編集部編『現代映画作家を知る17の方法』(1997・フィルムアート社)』▽『岩本憲児編著『ビジュアル版日本文化史シリーズ 日本映画の歴史 写真・絵画集成』全3巻(1998・日本図書センター)』▽『岩本憲児・武田潔・斉藤綾子編『「新」映画理論集成1 歴史・人種・ジェンダー』『「新」映画理論集成2 知覚・表象・読解』(1998、1999・フィルムアート社)』▽『佐藤忠男著『日本映画史』全4巻・増補版(2006~2007・岩波書店)』▽『デヴィッド・ボードウェル、クリスティン・トンプソン著、藤木秀朗監訳『フィルム・アート――映画芸術入門』(2007・名古屋大学出版会)』▽『『映画年鑑』各年版(キネマ旬報社)』▽『『ぴあシネマクラブ1 日本映画編』『ぴあシネマクラブ2 外国映画編』各年版(ぴあ)』▽『田中純一郎著『日本映画発達史』全5巻・決定版(中公文庫)』▽『『映画ガイドブック2001』(ちくま文庫)』