アニメーション映画(読み)あにめーしょんえいが(英語表記)animated film

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アニメーション映画」の意味・わかりやすい解説

アニメーション映画
あにめーしょんえいが
animated film

それ自体は動かない絵や人形を、わずかに変化したポーズのものと置き換えては、1こま(ときには2こま以上)撮影し、それを繰り返したものを映写すると、動いて見える、一種のトリック映画の総称。つまり、普通の映画フィルムの画像に対応するような、1秒間24こまの動きの分解図を順次撮影すればいいわけである。アニメーション映画の特殊性は、たとえばミュージカル、アクション、コメディ、ミステリーといった区分の一つとして扱われることにも表れている。内容的分類に技法的分類が混じるのは奇妙なようだが、かりに宮崎駿(はやお)の『となりのトトロ』(1988)を、俳優による劇映画としてつくったら、観客に与える印象はまるで違ったものになるだろう。アニメーションの語源にあたるラテン語のanimāreには、「生命を吹き込む、活気づける」という意味があるのだが、分類上の混乱にも、「トリックそれ自体がキャラクターになる」アニメーションの特質があるといえよう。

[森 卓也]

アニメーション映画の種類

アニメーション映画を大まかに分類すると、動画(平面)と、人形アニメーション(立体)に分かれる。

動画

動画には、次のような技法が含まれる。

(1)セル・アニメcel animation 透明なセルロイド板(現在は不燃性のプラスチック系の板)に描き、背景に重ねる。これでつくられる漫画映画は商業ベースにのりやすいこともあって、広く使用されたが、近年、日進月歩のコンピュータが製作システムに導入されてきた。手仕事はアニメーターの動画までで、以後の作業はすべてデジタル化の方向に進み、伝統的なセル画も過去のものになりつつある。

(2)切紙アニメ キャラクターの切り抜きをいくつも用意して置き換えるというセル・アニメ的手法と、キャラクターに関節をつけてポーズを変える人形アニメ的手法とがある。さらにガラス板にのせて逆光線を当てれば影絵アニメになる。千代紙、色セロファンなどを使う場合もある。

(3)ピン・スクリーンpinscreen(またはピン・ボードpinboard) 板面に立てた無数の針に斜めから光を当て、その針の高低を変えると、板面の影絵が白→灰色→黒と微妙に変化する。それで絵を描き、アニメートするという特異な手法である。

(4)カメラレス・アニメーションcameraless animation フィルムの露光済みの膜面を針先で削ったり、着色したりする。フィルム面に直接描く方法で、実験的な個人作家が試みた。

[森 卓也]

人形アニメーション

人形アニメーション(モデル・アニメーション、ストップモーション・アニメーションなどともよばれる)は、その質感、量感が、SF映画やファンタジー映画の特殊効果として生かされる例も少なくない。アニメ人形のモンスターを人間の演技者と合成する方法で、名作『キング・コング』(1933)のウィリス・オブライエンWillis H. O'Brien(1886―1962)を筆頭に、その高弟のレイ・ハリーハウゼンRay Harryhausen(1920―2013)、続いてジム・ダンフォースJim Danforth(1940― )、デービッド・アレンDavid Allen(1944―1999)らが台頭したが、1990年代に入ると、コンピュータ・グラフィクス(CG)による3D(スリーディー)アニメーションが、特殊効果の主流を占めるようになった。竹ひご状の図形が回転するだけのレベルから、長足の進歩を遂げたCG3Dアニメに「生命を吹き込んだ」のは、ディズニー・スタジオのアニメーター出身のジョン・ラセターJohn Lasseter(1957― )で、『ルクソージュニア』(1986)は、2分強の、電気スタンドの親子のユーモラスなスケッチで、そのパーソナリティーがみごとだった。

 人形アニメ特殊効果のフィル・ティペットPhil Tippett(1951― )は、『スター・ウォーズ』シリーズ(1977~1983)や『ロボコップ』(1987)などでは人形アニメ技法を用いたが、『ジュラシック・パーク』(1993)以後、CG3Dアニメの監修者となった。だが、ラセターの『トイ・ストーリー』(1995)も、ティペット担当の『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997)も、まだCG独特の無機質な滑らかさが、とりわけ皮膚の伸縮に残っている。これが払拭(ふっしょく)されたとき、コンピュータのオペレーターは、初めてアニメーターとよぶことができるだろう。

 なお、人形アニメーションは、あやつり人形劇を流し撮りした映画と混同されることがある。最近ではデンマークの『ストリングス~愛と絆の旅路~』(2004)がそれにあたる。被写体はどちらも人形なので間違える人がけっこういるから注意を要する。

[森 卓也]

アニメーション映画の始まり

その起源は映画の発明以前にまでさかのぼる。17世紀にドイツの修道僧アタナシウス・キルヒャーAthanasius Kircher(1601―1680)が幻灯(マジック・ランタン)を発明した。もともとキリスト教の布教の道具としてつくられたもので、たとえば、テーブルを挟んで山のような料理をむさぼり食っている男2人の頭が、瞬時にブタとヒツジに変わる。これは種板(たねいた)が二重になっていて、本体に固定した種板には、テーブルと胴から下だけの人物が描かれ、それに組み込まれた左右に滑り動く二連の種板には、1枚には男2人の、もう1枚にはブタとヒツジの首だけが描いてある。これを手早く左右にスライドすると、動いたように見えるのである。この幻灯はやがて長崎から日本にも入り、関西で「錦影絵」、関東では「写し絵」の名で上演。記録によれば、江戸での初公開は1803年(享和3)。説経浄瑠璃(じょうるり)の出語りで『道成寺(どうじょうじ)』などのドラマを展開するという、日本独自のくふうを加味した華麗なからくり芸能である。

 一方ヨーロッパでは、19世紀前半に「ソーマトロープ」「フェナキスティスコープ」などの、目の残像効果を利用した「絵」の玩具(がんぐ)が発明された。1877年にはフランスのエミール・レノーCharles-Émile Reynaud(1844―1918)が「プラクシノスコープ」を発明。さらにそれを投影式に改良して、1892年からパリで興行した。600こま以上のカラー手描きの絵を使用し、上映時間は15分前後であった。映画フィルムを使用しないだけで現在のアニメとまったく同じである。

 だが1895年フランスのルイ・リュミエールによって映画が発明されるや、人々の関心はたちまち「動く絵」から「動く写真」へと移り、レノーの「光の劇場(テアトル・オプティーク)」は数年で姿を消した。映画における「こま撮り」の開祖には諸説あり、1899年から1905年にかけてイギリス、スペイン、フランスなどですでにつくられたとする記録がある。しかし、いま実際に見られるのは、アメリカのスチュアート・ブラックトンJames Stuart Blackton(1875―1941)の『魔法のペン』(1900)以後の数作で、代表作『愉快な百面相』では、黒板にチョークで描いた顔が動いたり(一部を消し変えては撮る)、白紙に黒で描いたり、置き換えて動かしたり、つまり切紙や人形(立体)などの基本的技法をひととおり試みている。『幽霊ホテル』(1907)では、人形アニメの技法で、たんすや机が階段を上り、箒(ほうき)やちり取りが自分で動いてごみを集める。『ニコチン姫』(1909)の合成技術なども含めて、傑出したアイデアの持ち主だったことがわかる。この技法は、フランスのエミール・コールEmile Cohl(1857―1938)によってさらに洗練された。黒バックに白(ネガ映写)の人物が、流動的に変わる状況に対応して千変万化のメタモルフォーゼを見せるユーモラスな漫画で、この2分程度のシリーズは「ファンタスマゴリー」とよばれた。

[森 卓也]

アニメーション映画の展開

アメリカ

やがて漫画映画の本場となるアメリカで、新聞漫画でも人気の高かったウィンザー・マッケイWindsor Mackay(1869―1934)が、『恐竜ガーティ』(1909)を発表した。作者自身も猛獣使いならぬ恐竜使いとして舞台の袖(そで)に立ち、スクリーンのガーティ嬢(?)とかけ合いを演ずるというショーである。

 1914年にジョン・R・ブレイJohn Randolph Bray(1879―1978)とアール・ハードEarl Hurd(1880―1940)が、二人のアイデアを組み合わせ、動画を透明なセルロイド面に描いて背景の上へ重ねるというシステムの特許をとる。これによって、従来の1枚ごとに背景まで描き込むという手数は解消し、さまざまな手法が可能になった。たとえば、フライシャー兄弟Max Fleischer(1889―1972)、Dave Fleischer(1894―1979)は、光学的な合成でなく、実写フィルムを1こまごとに伸ばした上へ動画のセルを重ねるという方法で、漫画と実写の共演シーンをつくった。アニメのサイレント時代はアイデアの黄金時代でもあった。

 1920年代末に才能を開花させたウォルト・ディズニーも、技術のパイオニアである。「ミッキー・マウス」シリーズからは、最初のトーキー漫画『蒸気船ウィリー号』(1928)を生み、短編シリーズ「シリー・シンフォニー」からは最初のカラー作品『花と木』(1932)を世に送った。さらに最初のカラー長編『白雪姫』(1937)のためにマルチプレーン・カメラ(多層式撮影台)を開発した。1940年代以降も、漫画と劇映画の合成、アニメでのシネマスコープと立体(3D)映画の試作、さらに、事務用のコピー機を改良して、動画のセルへの転写を可能にした(現在のテレビ漫画の量産はその恩恵による)。その作風はユーモラスで暖かく、いわゆる「家族向き」であり、技術面での完全主義とともに大衆の好みにぴったりであった。その後1930年代の作家の多くがディズニーの亜流に甘んじたなかで、エロ、グロ、ナンセンスに徹した「ベティ・ブープ」「ポパイ」などのフライシャー兄弟が個性を貫いた。

 人形アニメでは、ポーランド生まれのラディスラフ・スタレビッチLadislav Starewitch(1882―1956)が、ロシアで『麗しのリュカニダ』(1911ごろ)、『映画カメラマンの復讐(ふくしゅう)』(1912ごろ)などで注目されたが、革命による混乱で、多くの映画人と同様フランスに移り、『マスコット』(1934)、『狐(きつね)物語』(1939、長編)などを発表した。人形の緻密(ちみつ)な造型が、少々グロテスクだが、動きの流麗さに驚嘆させられる。

 ハンガリー生まれのジョージ・パルGeorge Pal(1908―1980)は、人形の顔や手足を1こまごとにすげ替えるという手間をかけ、動作を漫画的に誇張する方式を開発、「パペトーン」と名づけた。ナチスから逃れつつ各国を転々とし、1939年にアメリカへ渡り、腰を据えて人形アニメを連作。1950年の『月世界征服』以降、SFファンタジー映画のプロデューサーとなった。

 1940年代、第二次世界大戦の拡大につれて、漫画映画も暴力と狂気の笑いへと移行した。ワーナー漫画の「バッグス・バニー」「ロードランナーとコヨーテ」、ウォルター・ランツWalter Lantz(1900―1994)の「ウッディ・ウッドペッカー」、ウィリアム・ハンナWilliam Hanna(1910―2001)とジョセフ・バーベラJoseph Barbera(1911―2006)による「トムとジェリー」などが、奇想天外な「辛口のギャグ」を競う。なかでもテックス・エイブリーTex Avery(1907―1980)の『呪(のろ)いの黒猫』(1949)を頂点とする一連の作品は傑出していた。

 このころ、スティーブン・ボサストウStephen Bosustow(1911―1981)が主宰するUPA(United Productions of America)は、グラフィック・アート風の造形を取り入れ、動きを省略、制限したリミテッド・アニメーションの旗手として、当時のユーゴスラビアのアニメなどに大きな影響を与えた。1958年以降はテレビ漫画が主流になり、ハンナ&バーベラ製作の『強妻天国(フレッドとバーニー)』『クマゴロー(ヨギ・ベア)』などのシリーズがブラウン管の人気者となった。

 一方、メジャー各社は劇場用短編漫画映画のスタジオを相次いで閉鎖。漫画映画はテレビ用が主流になる。

 1960年代以降は、世界的に、個人作家による多様なアニメーションの製作が活発になったが、ピンからキリまであまりにも多く、持続しない場合もあるため、実情がつかみにくくなった。

 1990年代以降は、一見手描きや人形、切紙風でも実はCGという作品が多くなった。ディズニーも伝統の手描きアニメは事実上20世紀で終わり、フルCGアニメは、ジョン・ラセター(前述)をいただくピクサー社(ディズニー配給)の『トイ・ストーリー』(1995)、『トイ・ストーリー2』(1999)、『モンスターズ・インク』(2002)、『ファインディング・ニモ』(2003)、『Mr.インクレディブル』(2004)、『カーズ』(2006)などがトップをきり、その対抗馬としてドリームワークス社がおとぎ話パロディの「シュレック」シリーズ(2001~2007)で奮闘している。ただし、CG頼みの傾向は、一つ間違えば「ハリー・ポッター」「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズなどの特殊効果の類似品になりかねない。そんななかで、ディズニーのアニメーター出身のファンタジー映画の異才、ティム・バートンTim Burton(1958― )が製作した、ヘンリー・セリックHenry Selick(1952― )監督の人形アニメ『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1993)の流麗な動きと、逆説的なクリスマス讃歌は、特筆に値する。

[森 卓也]

ヨーロッパその他

ヨーロッパなどには優れたアニメの個人作家が多いが、商業ベースにのるものは少ないためCMで生計をたてている。一方、カナダ、旧ソ連、第二次世界大戦後の東欧諸国など、映画製作が国営化された国々では、作家は経営的な悩みはない反面、表現の点で大なり小なり「国営」の枠のなかで仕事を続けてきた。

 フランスにはピン・スクリーンの長老であるアレクサンドル・アレクセイエフAlexandre Alexeieff(1901―1982)がいた。絵画アニメの巨匠ポール・グリモーPaul Grimault(1905―1994)は、彼にとって不本意な形で公開された名作長編『やぶにらみの暴君』(1952)の改訂版『王と鳥』(1979)を完成し、宿願を果たした。近年は、アニメーション映画演出家の高畑勲(たかはたいさお)(1935―2018)が評価しているミッシェル・オスロMichel Ocelot(1964― )の『キリクと魔女』(1998)、『プリンス&プリンセス』(1999)、『アズールとアスマール』(2006)がある。また、シルヴァン・ショメSylvain Chomet(1963― )は、短編『老婦人とハト』(1996)の好評に続き、これも奇妙で皮肉がきいていて温かい『ベルヴィル・ランデブー』(2002)で、日本でも予想を超えるミニシアターヒットとなった。ジャック・タチに心酔しているショメの新作『イリュージョニスト』(2010)は、タチの遺稿のアニメ化だが、作家が作家にあまりほれ込むのは考えものかもしれない。ドイツにはオスカー・フィッシンガーOskar Fischinger(1900―1967)をはじめ、アニメによるアブストラクト作家が目だつ。イギリスのアブストラクト作家レン・ライLen Lye(1901―1980)は、カメラレス・アニメーションの先駆者でもある。

 カナダ映画局のアニメ部門の責任者であるノーマン・マクラレンNorman McLaren(1914―1987)は、『線と色の即興詩』(1954)などの多彩なカメラレス・アニメーション作品をつくりつつ、新進の育成に努めた。レン・ライは彼の在英当時の師であった。そして、ライアン・ラーキンRyan Larkin(1943―2007)のカラフルな『ストリート・ミュージック』(1970)と、キャロライン・リーフCaroline Leaf(1946― )の息詰まるような黒白の『ザムザ氏の変身』(1976)という、対照的な作風に代表される新人の時代を迎えた。その技法も、前者は水彩で紙に直接描いたもの、後者はガラス絵(部分的に描きかえながら撮り進む手法なので、よほどのデッサン力が必要)で、素材も、絵の具、パウダー、油など多種多様。コ・ホードマンCo Hoedeman(1940― )の『砂の城』(1977)は、砂人形のアニメという異色編である。一方、ラジオ・カナダ(SRC)で40代なかばからアニメーションに着手したフレデリック・バックFrédéric Back(1924―2013)は、『クラック』(1981)、『木を植えた男』(1987)、『大いなる河の流れ』(1993)と、エコロジーを主題にした感動作で、国際的な評価を得ている。

 国営色のもっとも濃かった旧ソ連では、児童向けの民話アニメが主流であったが、1960年代から、東欧の逆影響を受ける形で多様化し、素朴な味はやや薄れたが、やがてユーリ・ノルシュテインYuri Norshtein(1941― )という切紙の天才を生んだ。『あおさぎと鶴(つる)』(1974)、『霧につつまれたハリネズミ』(1976)、『話の話』(1979)は、いずれも繊細な技法による豊潤な映像詩で、その作風は劇映画のアンドレイ・タルコフスキーAndrei Tarkovskii(1932―1986)を思わせる。

 人形アニメのメッカだったチェコスロバキアは、東洋的幽玄美の巨匠イジィ・トルンカJiří Trnka(1912―1969)の没後、かわいい縫いぐるみ人形を好んで用いたヘルミーナ・ティールロバーHermína Týrlová(1900―1990)、ガラス人形のアニメで知られたカレル・ゼーマンKarel Zeman(1910―1989)のうち、ゼーマンはトリック劇映画のほうへ進んだ後に切紙アニメ長編『クラバート』(1977)を発表した。

 中国には、萬籟鳴(1904―1997)の長編『西遊記』(1941)という古典があるが、第二次世界大戦後は、水墨画をアニメートした康澄の『おたまじゃくしがお母さんを探す』(1960)が絶品。1991年末のソ連崩壊で、本国はもとより、東欧などの国営スタジオの作家たちは、表現の自由と引き換えに経済的な保証を失い、加えて国自体の内戦による分裂などで、アニメーションどころではなくなってしまった。世界的にみても、傑出した作品を携えて登場した個人作家で、その後の噂(うわさ)を聞かないという例は昔からいくらでもあったが、ますますそういう状況になり、映画史的な流れでとらえにくくなった。そんななかで、ロシアのアレクサンドル・ペトロフAlexander Petrov(1957― )の、ガラス板に直接描き、一部を消しては描き変えて、こま撮りするガラス絵の手法による『雌牛』(1989)、『おかしな夢を見る男』(1992)、『マーメイド』(1997)、『老人と海』(1999)、『春のめざめ』(2006)が、高く評価されている。

 このところ目覚ましいのはイギリスで、CG画像の立体感にとってかわられそうな人形アニメが活気づいているのは、「ウォレスとグルミット」シリーズ(1989~ )のニック・パークNick Park(1958― )が所属するアードマンアニメーションズの活況に刺激されてのことかもしれない。特色は、あくまで主体は人形で、CGは特殊効果にとどめていること。これまでの最高作は、中編『ウォレスとグルミット ペンギンに気をつけろ』(1993)だが、長編も『チキンラン』(2000)、『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』(2006)と、高水準を保っている。セル・アニメでは、マーク・ベーカーMark Baker(1959― )の『丘の農家』(1988)、『ヴィレッジ』(1993)が、軽妙な画風で、ムラ社会のいやらしさなどを、いかにもイギリス的に描いている。

[森 卓也]

日本

日本では、1916年(大正5)ごろからエミール・コールの作品などに刺激されて、漫画映画が家内工業的につくられ始めたが、そのほとんどが児童教育映画の範疇(はんちゅう)に入るものであった。政岡憲三(まさおかけんぞう)(1898―1988)の佳作『くもとちゅうりっぷ』(1943)や、大藤信郎(おおふじのぶろう)(1900―1961)の千代紙、色セロハンなどを用いた作品などは、例外的な存在であった。アニメの企業化は第二次世界大戦後で、東映動画は長編漫画を商業ベースにのせ、手塚治虫(おさむ)主宰の虫プロ(現、手塚プロ)は、『鉄腕アトム』などの一連のテレビ漫画で一時代を画した。一方、久里洋二(くりようじ)(1928― )ほかの「3人のアニメーションの会」の実験は、いわば日本でのUPAの役割を務めた。人形アニメでは、川本喜八郎(1925―2010)の『鬼』(1972)、『道成寺』(1976)、『死者の書』(2005)などに描かれた東洋的幽玄美は、国際的に第一級の名人芸であった。

 昨今の漫画アニメを内容的にみると、宮崎駿の『未来少年コナン』(テレビシリーズ、1978)、『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)、『風の谷のナウシカ』(1984)、『となりのトトロ』(1988)、『紅(くれない)の豚』(1992)、『もののけ姫』(1997)、『千と千尋(ちひろ)の神隠し』(2001)、『ハウルの動く城』(2004)、『崖の上のポニョ』(2008)などの、ユーモラスななかに人間的な悩みを抱えたヒーローや、人間対自然の相克の、苦渋に満ちたファンタジーが、評価でも観客数でもトップを切っている。一方、その対極にあるのが押井守(おしいまもる)(1951― )で、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)、『機動警察パトレイバー』(1989)、『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』(1995)など、つねにかくありたいとの希求を失わぬ宮崎に対し、理想を信じないというネガティブな情念を描き、『イノセンス』(2004)ではさらに観念的な境地へ踏み込んだ。そこへ今敏(こんさとし)(1963―2010)が加わり、『千年女優』(2001)、『東京ゴッドファーザーズ』(2003)、『妄想代理人』(テレビシリーズ、2004)、『パプリカ』(2006)と、リアルとファンタジーの両輪でエネルギッシュにつくり続けたが、46歳で早世した。

 加えて、山村浩二(やまむらこうじ)(1964― )の、落語を素材にした『頭山』(2002)、『カフカ 田舎医者』(2007)など。昨今人気の高い細田守(ほそだまもる)(1967― )の『時をかける少女』(2006)、『サマーウォーズ』(2009)など。また加藤久仁生(かとうくにお)(1977― )は、『つみきのいえ』(2008)で第81回アカデミー短編アニメーション賞を受賞した。

 こう列記しても、作者も作品もまだまだ限りなくある。アニメーションは、隅々まで作者が支配できるものだから、作り手の性格が如実に反映され、それだけに見る側の好き嫌いも分かれる。たとえば、私の近年の1本は、フランスのコンスタンティン・ブロンジットKonstantin Bronzit(1965― )の短編『地球の果てで』(1999)。とがった三角山地帯の頂きの揺れる家で、人々が超然と暮らしている。サタイア(風刺)ともとれるが、私はナンセンスの極致、久々の漫画映画の快作として大いに笑った。アニメーションは、かくのごとく定義も評価もしにくいのである。

[森 卓也]

『森卓也著『アニメーション入門』(1966・美術出版社)』『山口且訓・渡辺泰著『日本アニメーション映画史』(1977・有文社)』『森卓也著『アニメーションのギャグ世界』(1978・奇想天外社)』『伴野孝司・望月信夫著『世界アニメーション映画史』(1986・ぱるぷ)』『今村太平・杉山平一著『今村太平映像評論5 漫画映画論』(1991・ゆまに書房)』『津堅信之著『日本アニメーションの力――85年の歴史を貫く2つの軸』(2004・NTT出版)』『山口康男編著『日本のアニメ全史――世界を制した日本アニメの奇跡』(2004・テン・ブックス)』『今村太平著『漫画映画論』(2005・スタジオジブリ、徳間書店発売)』『森卓也著『定本 アニメーションのギャグ世界』(2009・アスペクト)』『レナード・マルティン著、権藤俊司監訳『マウス・アンド・マジック アメリカアニメーション全史』上・下(2010・楽工社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「アニメーション映画」の意味・わかりやすい解説

アニメーション映画 (アニメーションえいが)
animated film
film d'animation[フランス]

ラテン語のanima(霊魂)から出たanimation(生命を吹き込むこと)の語源どおり,少しずつ変化させた絵(動画)を1コマずつ撮影し,映写することによって,それ自体は静止している絵を動いているように見せるトリック撮影およびそのようにして撮影されたトリック映画の総称。分解撮影によって現実の動きを定着する〈映画〉とは逆の工程がアニメーションの原理である。撮影素材は,絵,写真,切紙,また立体素材として人形や粘土細工など無数に考えられる。例えば人形劇をそのまま撮ったり,漫画や画集をモンタージュしたものは,アニメーションとは呼ばない。

〈動画〉への衝動は,1万年以上前のアルタミラの洞窟壁画にすでに見られ,また絵を投影することによって動きのイリュージョンを味わいたいという欲求はインドやジャワの〈影絵〉にあった。1644年,ドイツのイエズス会の神父A.キルヒャーが〈幻灯機〉を発明,セットされた2枚のガラス絵を左右に手早くスライドさせ,大食いの人物がブタに変わるといった〈動き〉のある映像が写し出された。日本では,江戸時代にオランダ人がもたらした幻灯機を使った〈おらんだエキマン鏡〉なる見世物に触発された小石川の染物上絵職人亀屋熊吉が,友人の医者高橋玄洋の助けで,その仕掛けの原理を利用した自前の器械を完成,池田都楽と名のって,1803年(享和3)に江戸で〈写絵〉と称する種板式幻灯を寄席で上演した。これはガラスに彩色絵をかいたもの(種板)を数台の幻灯機(フロ。熱をもった箱の表面が結露することからついた呼称)にセットし,それをかかえた数人の〈写絵師〉が種板を操って絵の動きを出すもの。光源は灯明からランプに移行。祭文語りや浄瑠璃語りがついて上演された。一方,光源を使わない,つまり映写をしないアニメーションの原初の形として,19世紀イギリスで発明された〈ソーマトロープ〉をはじめ,網膜の残像現象を利用した一連の科学玩具,〈ストロボスコープ〉〈フェナキスティスコープ〉〈ゾーエトロープ〉などがあり,さらにフランス人レノーÉmile Reynaudがゾーエトロープを改良した〈プラキシノスコープ〉に映写装置をつけ加え,92年,パリの蠟人形館で〈テアトル・オプチック(光学劇場)〉,または〈光の無言劇〉と称して,長いセルロイド・ベルトに600コマ以上の絵をカラーでかいたものをスクリーンに映写する大仕掛けな動く幻灯を興行した。フィルムに撮影してそれを映写する〈映画〉が発明される以前に,アニメーションの起源があったといえる。

フランスのL.リュミエールとアメリカのT.A.エジソンによって〈映画〉が発明された後,最初のアニメーション映画がアメリカのJ.S.ブラックトンによって作られたというのが通説になっている。黒板にチョークで顔をかいては消し,表情の変化やギャグを与えた《愉快な百面相》(1906)がそれである。ブラックトンはまた,1コマ撮りの技法によって家具が室内を駆け回る《幽霊ホテル》を作り,〈立体アニメ〉の先駆者の一人ともなった。《愉快な百面相》を見て,そのトリックを見破ったフランスのコールÉmile Cohl(1857-1938)は,フランス最大の映画会社ゴーモンのトリック撮影部主任となり,白紙に黒インキでかいた〈マッチ棒で組み立てたような〉単純なデザインのキャラクターによる動画を撮影し,ネガのまま映写して黒地に白の画面を作った。これが世界最初の〈漫画映画dessin animé〉の《ファンタスマゴリー》(1908)で,上映時間はわずか1分57秒だった。その後もコールは〈ファントーシュ〉という世界最初のアニメ・キャラクターを主人公にしたシリーズ(1908-10)を数多く作り,これが最初のアニメーション・シリーズとなった。アメリカでは1909年に《リトル・ネモ》で知られる人気漫画家マッケーWindsor McCay(1869-1939)が,コールの漫画映画に触発されて《恐竜ガーティ》(1909)を作った。白地に黒の線で背景まで同じ1枚の紙にかき込まれ,作者(実写)の命ずるままに恐竜がサーカスのゾウのように芸をする〈漫画映画animated cartoon〉である。その後もマッケーはアニメーションによるSF映画,怪奇映画,文化映画などの実験を続け,1918年には動画枚数2万5000枚に及ぶ世界最初の長編《ルシタニア号の沈没》(ニュース,記録映画の代りともいうべき再現アニメーション)を作った。

1914年に,アメリカでジョン・R.ブレイとアール・ハードが透明なセルロイド板に動画をかく〈セル・アニメ〉を考案し,これによって初めてアニメーションの技術が完成される。このセル・アニメの発明により,動画部分を静止した背景から切り離してかけるようになったため,流れ作業による分業が可能となり,アニメーション映画の飛躍的な発展の礎が築かれた。

初期のアメリカの漫画映画は新聞雑誌連盟Newspaper Syndicatesのスポンサーを得て発展した。コミック・ストリップと呼ばれた新聞連載漫画のキャラクターが,サイレント時代の漫画映画の主流になったのもそのためであった。まずパット・サリバンの《フェリックス・ザ・キャット》(1917-22)がある。ほぼ同時期にジョン・ブレイの,世界初の色彩(二色カラー)漫画映画《ザ・デビュー・オブ・トーマス・キャット》(1916)が作られている(この後,色彩漫画映画は1930年の《キング・オブ・ジャズ》のオープニングのウォルター・ランツによるアニメーションまで作られていない)。次いでフライシャー兄弟の《道化師ココ》(1916-29),ポール・テリーの《アルファルファじいさん》(1921-29)等々が登場。こうして,スタートの時点で新聞漫画の映画化や漫画的キャラクターを主人公にしたシリーズが,笑いを好むアメリカの国民性に適合して,20年代には漫画映画は劇場の番組の一部として定着するようになった。セル・アニメの開発も早く,したがって企業化も早かった。その中でW.ディズニーは,アブ・アイクークスの協力を得て永遠のキャラクター,ミッキー・マウスを創造,その主演第4作《蒸気船ウィリー号》(1928)が世界最初のトーキー・アニメとなった。ディズニーはまた,世界最初のテクニカラー(三色法)によるアニメーション《花と木》(1932。クラシック音楽に合わせて自由奔放なアニメーションを展開した,有名な《シリー・シンフォニー》シリーズの1編)を,さらに37年には《シリー・シンフォニー》の1編《風車小屋のシンフォニー》で,最初のマルチプレーン・カメラを試用。背後を多層化した撮影台によって画面に奥行きを出すことに成功した。次いで世界最初の色彩長編漫画映画《白雪姫》(1937)を発表し,興行的にも大ヒットさせ,〈メリエスからチャップリンを含む映画的魔術の後継者〉とみなされ,〈アメリカ国民の神話と夢の担い手〉といわれるまでになる。ディズニーの開発・完成した音楽,色彩,ギャグ,物語性などにその後のアニメーション作家の大半が追随することになるのだが,ディズニー以前から独自の道を歩いていたフライシャー兄弟のみが,ニューヨークのナイトクラブの人気歌手ヘレン・ケーンをモデルにした《ベティ・ブープ》(1932-39),E.C.シガーの雑誌連載漫画の主人公である怪力の水夫《ポパイ》(1933-42)といった強烈なキャラクターの漫画映画シリーズを作り,荒っぽくナンセンスな笑いを提供し続けた。しかし,2本の長編漫画映画《ガリバー旅行記》(1939),《バッタ君町に行く》(1941)および劇画(コミック・ストリップ)の画調を生かした最初のアニメ《スーパーマン》(1941-42)を最後の輝きとして消えていった。質的には優れていた《バッタ君》の興行的失敗が直接の原因である。一方,ディズニーのほうは,さらに《シリー・シンフォニー》の集大成である空前の長編《ファンタジア》(1940)で世界最初のステレオ・サウンドを使用,音楽と動画の融合という壮大な野心作を完成する。

 第2次世界大戦が始まろうとする1930年代末から40年代にかけて,ウォルター・ランツ製作の《ウッディ・ウッドペッカー》(1940-72),ウィリアム・ハンナとジョゼフ・バーベラ演出の《トムとジェリー》(1940-58),ロバート・マッキンソン,チャック・ジョーンズ,フリッツ・フリーレングらの演出による〈ワーナー漫画〉の《バッグス・バニー》(1938-64),《ロードランナー》(1949-68)等々,ほのぼのとしたディズニー漫画とは打って変わって猛烈な暴力性,破壊性をもち込んだ短編アニメが隆盛を極め,〈ハリウッド・カートゥーン・コメディ〉(ドタバタ漫画)の黄金時代を迎えた。この傾向はついにディズニー作品(《ドナルド・ダック》シリーズなど)さえもまき込んで50年代まで続く。

 ディズニー・プロに反旗をひるがえして独立したスティーブン・ボサストウ,ジョン・ハブリー,ロバート・キャノン,アーネスト・ピントフらが,彼らのプロダクションUPAを結成したのも第2次大戦中である。ディズニーが完成した〈フル・アニメ〉に対し,意識的に動画数を省略した〈リミテッド・アニメ〉と呼ばれる技法によるロバート・キャノンの《ジェラルド・マクボインボイン》(1951-56),グラフィック・アートの中に詩情を漂わせたジョン・ハブリーの《ムーンバード》(1958)などの作品によって,従来のアニメとは異なる質のデッサンと動きを開発することに成功した。UPAのグラフィックな手法は,《八十日間世界一周》や《悲しみよ今日は》等々数多くの映画のタイトル・バックのアニメーションで知られるソール・バスをはじめ,ロバート・ブリア,スタン・バンダービーク,カーメン・ダビーノらの仕事に受け継がれているが,その一方では〈動き〉を省略する技術だけが,高騰する人件費の節約のためにのみ安易にテレビ時代のアニメに引き継がれた。

 戦時中に隆盛を極めた暴力と破壊のギャグに満ち満ちた劇場用短編アニメは,狂気の極限ともいうべきテックス・アベリーの作品群(《太りっこ競争》1947など)を頂点とし,次いでフリッツ・フリーレングのパントマイム漫画《ピンク・パンサー》シリーズ(1964-69)を最後に衰退していく。

 70年代に入って,ラルフ・バクシがポルノと暴力というアクチュアルな要素をとり込んだ,おとな向けの《フリッツ・ザ・キャット》(1972)や,登場人物のライブ・アクション(実写)をグラフィックに処理して,新しい映像効果をねらった〈ロートスコーピング技法〉による《指輪物語》(1978)などで試行錯誤を重ねつつも長編アニメに挑戦している。

フランスでは,漫画映画のジャンルを確立したE.コールのあと,1920年代にアバンギャルド運動とともに,画家のF.レジェによる実験アニメ《バレエ・メカニック》(1925)などが生まれ,同じ時期にドイツのオスカー・フィッシンガー,ワルター・ルットマン,ハンス・リヒター,ユリウス・ピンシェウワー,スウェーデンのビギング・エゲリングといった画家たちが,例えば音楽と図形がシンクロナイズするようなアブストラクト・アート(抽象映画)を発表した。これは,以降のドイツのロッテ・ライニガーの世界最初の影絵アニメ《アクメッド王子の冒険》(1926),フランスのアレクサンドル・アレクセイエフの〈ピン・スクリーン〉《禿山の一夜》(1933),エクトル・オッパンとアントニー・グロスの実験的な《生きる歓び》(1936)などへと続く流れの源流で,アニメーションを漫画=大衆娯楽として発達させたアメリカとは対照的に,あくまでも純粋な美術的表現技術として受け止めたヨーロッパ的傾向が,このあたりからすでに際だって見られる。

 その後もフランスでは,ポール・グリモーの独裁者を風刺した童話的な漫画映画《やぶにらみの暴君》(1953)およびその完全版として手直しされた《王様と鳥》(1979)や,ポーランド生れのワレリアン・ボロフチクの,単純なモノクロのデッサンの中に,時として強烈な赤を用いたりする残酷アニメ《カバール夫妻の芝居》(1967),ロラン・トポールの原画を〈切紙〉で動かしたルネ・ラルーのSFアニメ《ファンタスティック・プラネット》(1973。チェコとの合作)等々,いくつかの劇場用長編アニメが製作されたが,いずれも興行的な成功には至らなかった。ただ,フランス最初の長編アニメ《勇敢なジャンノオ》(1950)を作ったジャン・イマージュだけが,テレビも含めた数多くの商業性のある短編アニメを作り続けているが,質的には見るべきものはない。現在では《お嬢さんとチェロ弾き》(1965),《ノアの方舟》(1967)などの〈切紙〉短編作家ジャン・フランソワ・ラギオニーが,レベルの高い作品を作り続けている。

50年代には,ディズニー・スタイルから脱却しようとする動きが世界各国のアニメーション映画を活性化した。とくにイギリスでは,ドキュメンタリー映画の大家J.グリアソンが主宰する郵政局(GPO)映画班でその傾向の作品が積極的に試みられ,そこから,カメラを使わずにフィルムにじかにかくことによって映像を作った最初の抽象映画作家レン・ライの《カラー・ボックス》(1935)や,ライの影響を受けたN.マクラレンの短編《恋は翼に乗って》(1938)が生まれた(マクラレンは,この後カナダに渡って実験アニメの巨匠となった)。また,〈何も固有のスタイルにとらわれることはない。その作品のテーマに応じて選択すればよいのだ〉というジョン・ハラスとその夫人のジョイ・バチェラーが,ジョージ・オーウェルの風刺小説をアニメ化した《動物農場》(1954),UPA出身のカナダ人リチャード・ウィリアムズ(のちにブレーク・エドワーズ監督の劇映画《ピンク・パンサー》シリーズのタイトル・アニメを手がける)が,イギリスに定住して3年がかりで作った中編《小さな島》(1958),ザ・ビートルズを漫画的キャラクターおよび声の出演で登場させたポップ・アート的なジョージ・ダニングの《イェロー・サブマリン》(1967)などがあり,その後もディズニー漫画の動物キャラクターとは異なる,〈絵本的な〉イメージによるマーティン・ローゼンの《ウォーターシップダウンのうさぎたち》(1978)等々の劇場用長編アニメの成功作がある。

ソ連,ポーランド,チェコスロバキア,ユーゴスラビア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,東ドイツ,中国などの社会主義国では,国営スタジオをもち,国民の思想教育,児童の情操教育を前提として製作を続けてきた。国策という制約はあるものの,商業ベースに乗ることが絶対条件となる資本主義国の映画製作とはちがって,営利を度外視した自由な製作の場を作家たちに提供するというケースも多くなるために,それぞれの国民性を反映しながらも数々の実験的な作品が生まれていた。とくに東欧圏のアニメーションは,戦後の国際映画祭の賞をことごとく独占して,いちやく注目を浴び,その後のアニメーション映画史を書きかえるほど目覚ましい発展ぶりを示した。

 ユーゴでは,〈残酷モダニズムの結晶〉といわれる短編《銀行ギャング》(1958)などのデュシャン・ブコチッチを中心としたザグレブ派のモダン・アートの作品群がある。

 帝政ロシア期に世界最初の人形アニメといわれる《麗しのリュカニダ》(1912)をはじめ,ウラディスラフ・スタレビッチの一連の作品を生んだソ連では,イワン・イワノフ・ワーノの《せむしのこうま》(1947),レフ・アタマノフの《雪の女王》(1957)などの長編や,雪どけ以後のユーリ・ノルシュテインの作品群(《あおサギと鶴》1974,《霧につつまれたハリネズミ》1976,《話の話》1979)など,メルヘン的な夢幻の魅力に満ちたものが注目される。ポーランドでは,不条理劇の〈切紙〉作品で知られるヤン・レニツァ,陰惨なイメージの漫画映画の作家ワレリアン・ボロフチクなどがあげられる。この2人には,《むかしある時》(1957),《ドム》(1958)などの共作があるが,60年代にレニツァは西ドイツに,ボロフチクはフランスに移住。ボロフチクは劇映画に転向した。さらにナチ強制収容所を背景に,極限状況下の人間性をえぐり出した〈切紙アニメ〉の《点呼》(1970)の作家リシャルド・チェカワも注目されたが,のち劇映画に転じた。

 〈ヨーロッパの人形芝居のゆりかご〉といわれるチェコでは,みずから人形劇団を主宰していたJ.トルンカが,1945年,国立映画アニメ・スタジオ(プラハ)の主任となって独自の人形アニメの世界を築き上げ,長編《皇帝のナイチンゲール》(1948),《バヤヤ王子》(1950),《真夏の夜の夢》(1959)や《二等兵シュベイク》シリーズ(1951-55),中編《天使ガブリエルと鵞鳥夫人》(1965)などで,人形映画のアニメートの壁を破ったみごとなテクニックを開拓して,〈第四次元の映画世界〉〈第8芸術〉(ジョルジュ・サドゥール)とまで呼ばれ,彼の下からは,チェコ人形劇の代表的キャラクターであるシュペイブルとフルビーネックをアニメ化した《探偵シュペイブル氏》(1956),《フルビーネックの夢》(1955)の演出を担当したブシェティスラフ・ポヤールが育った(ポヤールは59年に一本立ちし,《猫の話》(1960)などで〈切紙アニメ〉にも手を染めた)。首都プラハの国立映画アニメ・スタジオを本拠地としたトルンカ,ポヤールらに対し,モラビアのゴットワルドフ(現,ズリーン)に設立された国立人形映画スタジオを拠点とするカレル・ゼーマンと女流作家ヘルミナ・ティルロバは,実写の人間と人形を〈共演〉させる作品に独自のスタイルを築いた。ティルロバは人形がベビーベッドの赤ちゃんのまわりで,ほほえましいいたずらを重ねる短編《子守歌》(1947),ハンカチが持主の少年のあとをついていく《ハンカチの冒険》(1958)などで知られている。ゼーマンは,この〈虚実共演〉の方向をさらに発展させ,実写とミニチュア・セットを合成して画面全体を銅版画の調子に統一した,〈おとなの絵本〉ともいうべき長編特撮劇映画《悪魔の発明》(1957),《ほら男爵の冒険》(1961),《狂気の年代記》(1964)等々で,チェコ映画の名を世界的に高めた。トルンカの死後,やや沈滞ぎみのチェコ・アニメ界にあって,ゼーマンがアニメ(〈切紙〉)に戻り,長編《クラバート》(1977)などで,依然,活躍を続けている。

 ルーマニアにはイオン・ポペスコ・ゴーポ(《教養七科》1958,《ホモ・サピエンス》1959),ハンガリーにはマッカシー・ギーラ(《ロマンチックな物語》1966)などがいる。

 中国では,《西遊記》をもとにした中国最初の長編アニメ《鉄扇公主》(1941)を作った万籟鳴と万古蟾の双生児兄弟からアニメ史が始まる。革命後(1949),上海に設立された映画製作所に末弟の万超塵とともに入った兄弟は,それぞれ〈セル・アニメ〉〈切紙アニメ〉〈人形アニメ〉各部門の責任者となって中国アニメ界をリードする。万古蟾の京劇風長編《大あばれ孫悟空》(1962)の完成後,文化大革命が始まり製作は圧迫されたが,文革後,再建されたスタジオからは,初のシネマスコープによる長編《ナーザの大あばれ》(1979)が生み出され,国際的評価を得た。そのほか,〈水墨画アニメ〉という中国独特のジャンルがあり,例えば斉白石の水墨画を動画化した康澄の《おたまじゃくしは蛙の子》(1960)や,特偉の田園詩《牧笛》(1963)が秀作とされている。

1939年,カナダに国立映画局が設立され,初代局長にJ.グリアソンが就任。その下で動画部主任となったN.マクラレンは,〈シネ・カリグラフ〉(《ヘン・ホップ》1942,《線と色の即興詩》1954)をはじめ,人間のコマ撮り(《隣人愛》1953),1枚の絵ができ上がるまでのプロセスを微速度(コマ撮り)撮影の手法で追ったもの(《灰色の若いめんどり》1948),サウンド・トラックの手がきによる〈音のカリグラフ〉(《算数あそび》1956)等々,前人未踏の作品群を世に送り出して〈実験アニメの魔法使い〉と呼ばれ,同時に後進の育成にあたり,のちにイギリス・アニメ界の代表的作家となるジョージ・ダニング,軽快な作風のライアン・ラーキン,重厚なスタイルのキャロライン・リーフ,立体アニメのコ・ホードマン,油粘土とビーズを素材として使うインド人のイシュー・パタル,晩年のバスター・キートンを主演に短編劇映画《レールロッダー(キートンの線路工夫)》(1965)を撮ったジェラルド・ポタートンら,多彩な人々がその門下から輩出した。一方,近年は商業的なアニメも盛んになり,ロック,オペラを使ったニルバーナ社製作の長編テレビアニメ《悪魔とダニエルねずみ》(1978)といった作品もある。

国産漫画映画の誕生は,〈活動写真〉の輸入から18年後の1916年,北沢楽天を中心にした漫画雑誌《東京パック》の同人下川凹天,幸内純一と,洋画家の集りフュウザン会の企画経営者北山清太郎の3人から始まる。当時《凸坊新画帖》という肩書で公開されたE.コールらの作品の現物を分析して,手探りでそのトリックを解明するところからスタートした。次いで幸内純一門下の大藤信郎の〈千代紙映画〉(《馬具田城の盗賊》1926)が生まれ,やがて洋画,日本画を学びマキノ・プロを経てきた政岡憲三が登場し,《森の妖精》(1935),《べんけいとウシワカ》(1939)などの意欲作を発表するとともに,家内工業スタイルだったこの世界に,近代的な製作スタイルを導入して合理化を進めた。瀬尾光世をチーフ・アニメーターとする政岡映画の製作スタッフが,今日の日本のアニメ製作者の源流を形成したといえる。大部分のアニメは教育映画,国策PR映画の一端として製作され,作品として一人前扱いされないというのが当時の状況であった。戦時中に作られたアニメの中では,政岡憲三の珍しく時局色のない《くもとちゅうりっぷ》(1943),瀬尾光世の長編《桃太郎の海鷲》(1943)が出色で,それぞれ平和と戦争のシンボルとして今日なお命脈を保つ名作とされている。

 戦後は,次の三つの事件を経て日本のアニメーションは大きく転換した。(1)藪下泰司の《白蛇伝》(1958)を最初とする〈東映動画〉による長編漫画がコンスタントに(年1回,夏休み用に)製作され,上映され始めたこと。(2)60年,久里洋二,柳原良平,真鍋博が〈三人のアニメーションの会〉を設立して,積極的な実験アニメの製作に乗り出したこと。(3)63年,漫画家の手塚治虫の虫プロが,毎週,国産テレビアニメの30分番組(《鉄腕アトム》)をスタートさせたこと。とくに虫プロ作品はテレビアニメの隆盛を促し,しだいに30分のテレビアニメはギャグからストーリー中心に移行し,やがて《アルプスの少女ハイジ》など,一年連続の児童文学ものが登場。この名作児童文学のアニメ化と並んで,同じ74年にSF宇宙戦争もの《宇宙戦艦ヤマト》が半年連続シリーズとして作られ,その後の連続テレビアニメの二大路線を築いた。《ヤマト》の総集編が77年に劇場公開されて大ヒット,これが劇場用長編アニメ競作の口火となり,松本零士原作,りんたろう演出の《銀河鉄道999》(1979)のような劇場の大画面を生かした映像美をたんのうさせる作品や,宮崎駿演出,大塚康生作画監督の《ルパン三世・カリオストロの城》(1979)のような緩急自在の作劇,痛快なアニメート,奇想天外なギャグなど,おとなも満足させる内容と技術をそなえた冒険アニメの快作も生まれた。製作本数だけは世界一という日本の商業アニメの濫作状況の中で,実験的な自主アニメも活発に製作され,久里洋二の一連のナンセンス・ギャグ・アニメ(《人間動物園》1962,《殺人狂時代》1967など)がまず海外で注目され,次いで古川タク(《Head Spoon》1970,《驚き盤》1975など),J.トルンカに師事した〈人形アニメ〉の川本喜八郎(《鬼》1972,《火宅》1979,など),岡本忠成(《ふしぎなくすり》1965,《虹に向って》1977,など)らが,各地の国際映画祭で受賞して世界的な名声を得た。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアニメーション映画の言及

【マクラレン】より

…スコットランド生れ。実験的なアニメーション映画の第一人者で,脱色フィルムに直接彩色した色のパターン変化のアニメ,感光ずみのフィルムの黒い膜面に針で描いたアニメ,サウンド・トラックに針や絵筆で加工した人工音などによるカメラを使わないアニメの開発で有名である。そのような創造のきっかけは,抽象的アニメの先駆者オスカー・フィッシンガーやレン・ライの作品に強く影響されたものの,カメラが買えなかったためだといわれる。…

※「アニメーション映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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