白山神社(読み)ハクサンジンジャ

デジタル大辞泉 「白山神社」の意味・読み・例文・類語

はくさん‐じんじゃ【白山神社】

白山比咩しらやまひめ神を祭る神社。総本社は石川県の白山比咩神社

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「白山神社」の意味・読み・例文・類語

はくさん‐じんじゃ【白山神社】

白山比咩(しらやまひめ)神をまつる神社。総本社は石川県白山市三宮町にある白山比咩神社で、白山信仰の中心となっている。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本歴史地名大系 「白山神社」の解説

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]土佐清水市足摺岬

金剛福こんごうふく寺の西方にある。祭神は伊邪那岐命伊邪那美命。旧郷社。当社はもと岬の海食洞門上に祀られていたが、大正五年(一九一六)白皇しらおう山上の白皇神社と併せて祀られることになり、現在地に社殿が造営された。なお当所は白皇神社の遥拝所があったところである。両社とも享禄五年(一五三二)に金剛福寺住持尊海によって書かれた蹉山縁起(金剛福寺蔵)に本尊の「鎮護には熊野三所権現・愛満・宝満・白皇・白山等を勧請し奉る」とみえる。しかし正嘉元年(一二五七)の前摂政一条実経家政所下文案(「蠧簡集」所収金剛福寺文書)が金剛福寺の開創経緯を述べるなかには、本尊の守護神として熊野三所権現を勧請したことは記されているが、当二社のことはみえない。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]根尾村能郷

能郷白のうごはく山の南東山麓字松原まつばらに鎮座。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命・菊理姫命、旧郷社。社伝によれば、養老二年(七一八)泰澄が北陸に七ヵ所の白山を開いた折、最南の白山として立花たちばな(能郷の古名か)白山を開き、白山権現を山頂に祀ったという。現在かつて本社であった山頂の宮を奥宮と称し、御旅所であった当地の宮を本社としている(神社明細記)。しかし当社が白山修験の神社となるのは室町時代に入ってからと推定される。地元の旧社家溝尻家蔵の明応九年(一五〇〇)の神田帳「白山社僧山の帳」に「(先カ)年より白山神僧やまにあいき(ま欠カ)り申処(真カ)正也」とみえ、この頃であろう。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]武生市二階堂町

山干飯やまかれい盆地を見渡す丘上にあって、山干飯郷四八ヵ村の総社であった。祭神は伊弉冊いざなみ尊。旧村社。白山神社縁起によれば、百済王の娘自在女が尼となって海を渡り、干飯崎(現福井県越前町の米浦)に上陸して二階堂にかいどうの地に至り、悪病を祈祷によって平癒させたため、その守神を当地の産土神にしたのが白山妙理大権現と伝える。中世・近世には白山大権現と称した。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]仙台市木ノ下三丁目

陸奥国分寺の北東に鎮座する。伊邪那岐神・伊邪那美神・菊理比神を祀り、旧郷社。天平一三年(七四一)聖武天皇の勅願によって建立された陸奥国分寺一八伽藍のうちの一つで、鎮守として祀られたのが始まりと伝える。同寺は文治五年(一一八九)源頼朝の奥州合戦の時兵火にかかったのを天正年間(一五七三―九二)に国分盛重が再興し、さらに藩祖政宗が慶長一〇年(一六〇五)から同一二年にかけて薬師堂を再建して寺格を着座格とした(封内風土記・仙台市史)。当社に対しては仙台の総産土神と定め、別当の院主坊に寺領二貫文、当社の祭料として一貫五〇〇文を寄付した(延宝八年「寺社領寄付牒」仙台市博物館蔵)

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]若松区小竹 白山

小竹おだけの西部にそびえる白山(小嶽山)にある。菊理媛尊・伊弉冉尊・速玉男命・事解男命などを祀り、旧村社。山上に菊理媛尊・伊弉冉尊を祀る上宮(白山神社・白山権現社)、南面中腹に伊弉冉尊・事解男命などを祀る下宮(熊野神社・熊野権現社)があり、現在は両宮を合せて白山神社と称している。中世には麻生氏の崇敬が厚く、近世には上宮は小竹本村(鮎川を除く)、および同村枝郷わき(御浦を除く)の産土神であった(続風土記拾遺・地理全誌)

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]春日井市白山町

白山しらやまの西にあり、丘陵にかかる森にある。祭神は伊弉冊命・菊理姫命・大己貴命で旧村社。神社の境内から中世の瓦・須恵器・古銭・山茶碗などが出土している。宝暦九年(一七五九)の白山村家並改帳(小林克夫氏蔵)には「氏神白山社 長三間半、横弐間、但シ板葺」とあり、境内は東西八〇間・南北一一〇間である。文明九年(一四七七)から天文年間(一五三二―五五)の寄進の状況を伝える円福寺寄進田帳(円福寺蔵)に「加州白山養老元年勧請、当地白山養老二年勧請、殿様御問被成候其通リ申上候白山ハ観音奥院也」とある。寛永元年(一六二四)の棟札によると、白山しらやま庄名しような神明しんみよう松本まつもと出川てがわ久木ひさき足振あしぶり廻間はさま上野うえの和泉いずみ一色いしき一一ヵ村の総鎮守で、東の宮といった。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]君津市俵田 天神台

古くは田原たわら神社と称し、祭神は菊理媛命および弘文天皇。旧郷社。社域は五千二二〇坪、樅・杉・松などの巨木が鬱蒼として茂る。本殿のほかに拝殿・幣殿・随身門などがある。たわら大明神ともよばれた。小櫃山白山大権現御縁起(石井家文書)などの伝えによれば、天武天皇一三年(六八四)勅使が下向し社殿を造営して弘文天皇を祀り、白山大権現と称した。「三代実録」元慶八年(八八四)七月一五日条に「上総国(中略)田原神」とみえ、従五位下を授けられているのは当社にあたるとされる。文政一〇年(一八二七)の白川殿雑掌書状(社蔵文書)によると、社前に掲げられている田原神社の扁額は神祇伯雅寿王の直筆という。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]朝日町大谷

大谷おおや集落の西部、みやしたにある。祭神は伊邪那岐尊・伊邪那美尊・菊理姫尊・与茂津言解之男命。承和七年(八四〇)加賀国白山権現を勧請したとされ、近世には一九石四斗余の朱印地をもち、大谷おおや村をはじめ大暮山おおぐれやま村・川通かわどおり村・栗木沢くりきさわ村・船渡ふなと村・新左中しんさちゆう村・本左中もとさちゆう村・粧坂けはいざか村・中沢なかざわ村、富沢とみざわ(現大江町)の総鎮守であった。別当南蔵なんぞう院の系図(社蔵)によれば、初代玄長坊は宝徳二年(一四五〇)の生れで文明一七年(一四八五)に没している。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]柳田村柳田

社叢の茂る高台を背にして集落中央にあり、主祭神は久久利姫神・大物主神・大日貴神・軻遇突智神・金山彦神。旧郷社。社伝によれば、養老二年(七一八)の創立、天平勝宝年間(七四九―七五七)白山比神を勧請、延喜六年(九〇六)社殿造営、その後歴代国司の崇敬厚く、文治二年(一一八六)地頭長谷部氏より総社白山神社と記した大幟奉納、応永五年(一三九八)守護畠山氏より大般若経六〇〇巻と社領二〇〇石を与えられ、江戸時代には藩主より社領一九石余を奉ぜられ、社殿造営・神宝寄進などが行われたという。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]飯田市丸山

飯田市の西北にあり、里宮は風越ふうえつ(一五三五メートル)山麓に、奥社は風越山の山頂に鎮座する。頂上の社前にある随神門の傍らに立つ町石「五十町」は麓の遥拝所から五〇町あることを示し、里宮からでも四二町あるといわれる。祭神は伊弉諾命・菊理姫命・大己貴命。仏教的色彩の濃い神社で、里宮にある本社の別当天台宗巌戸山白山寺と不離一体の関係にあった。

歴代の領主の尊崇厚く、慶長六年(一六〇一)朝日受永は白山寺の寺領一〇石を安堵した(白山寺文書)

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]田辺町宮津 宮ノ口

鳥居前の広場に拝殿兼仮屋があり、鳥居をくぐり石段を登ると瓦葺の上屋(覆屋)の中に南面して板葺の二社がある。正面本社には事代主ことしろぬし命、左脇の小社に大国主おおくにぬし命を祀る。旧村社。明治一〇年代の「京都府地誌」は継体天皇の代に勧請と記す。所伝を近世に図示したと考えられる筒城郷朱智荘佐賀荘両惣図(田辺町史)にはみやくち(現田辺町)の山麓に「宮」とあり、これが当社にあたるかもしれない。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]紫波町赤沢

赤沢あかざわの北部、赤沢川中流右岸の音高おとたか山頂に鎮座。祭神は伊弉那冊命で旧郷社。もとは白山権現社・白山宮・白山堂などと称され、延暦年中(七八二―八〇六)坂上田村麻呂の勧請とか、永承二年(一〇四七)藤原経清の勧請という伝承がある(紫波郡誌)。盛岡藩主南部家累代の尊崇厚く、東長岡ひがしながおかの牛頭天王社(現八坂神社)と並び称された。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]飯山市大字照岡 桑名川

名立なだち神社裏山中腹に鎮座。覆屋内に本殿。祭神伊弉奈美尊という。重要文化財

棟札に「白山大権現御廟奉建立時応永卅二八月十二日、総領式部大夫入道沙弥道畔、願主四郎左衛門丞藤原経吉」と記され、応永三二年(一四二五)の建立。本殿向拝化粧裏板に「白山妙理、滋野宗厚、生年四二才、応永三十二年八月」、本殿登裏甲板に「さいしき(彩色)の僧しなの国み□□こをり かみさかい(上境)入道沙見□□(花押)」と墨書がある(白山神社蔵)

一間社・隅木入・春日造。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]高山市若達町

江名子えなこ川の右岸、安川やすかわ通東端の高台に建つ雲竜うんりゆう寺の裏山に鎮座する。祭神は伊弉諾命・伊弉冊命・菊理姫命。東山ひがしやま白山神社と通称される。大門だいもん町・若達わかたつ町・鉄砲てつぽう町などの氏神。「飛州志」によると養老四年(七二〇)加賀国白山権現を勧請したと伝える。当地が天神山てんじんやま城の城下の頃、安川通にあって氏神として崇敬されたといわれ(白山廟記)、金森氏の城下経営のときに雲竜寺の背後へ移され、同地が城の鬼門にあたることから鬼門除けとして金森氏の尊崇を得たという。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]和良村宮代

宮代みやしろ集落の北西に鎮座し、祭神は伊弉那美尊で、右に菊理媛命、左に伊弉諾尊を合祀。神体は阿弥陀如来像・聖観音菩薩像・十一面観音菩薩像。社伝では養老年中(七一七―七二四)越の白山より勧請したという。現存する弘安三年(一二八〇)二月二八日の遷宮棟札には「大□師舜入□□」「大施主沙弥行兼(橘)□□」とあり、遷宮儀式や神仏混淆の跡が知られる。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]西伯町下中谷

下中谷しもなかたにの北端、賀祥かしよう集落の西方山腹にあり、伊弉冊命・菊理媛命などを祀る。草創時期については不詳であるが、加賀白山の白山比しらやまひめ神社(現石川県鶴来町)の分霊を勧請したと伝える。近世には白山権現と称し、社殿は縦七尺・横三間の規模であった(伯耆志)。明治初年白山神社と改称。境内近くに阿弥陀堂がある。同所は当社神宮寺であった豊寧寺の寺跡といい、また同寺を「三代実録」貞観七年(八六五)八月二四日条にみえる玄賓建立の会見あいみ郡阿弥陀寺の後身とする説もある。当社に伝わる鉄造聖観音立像の光背(現在は西伯町立歴史民俗資料館保管、国指定重要文化財)には元応二年(一三二〇)四月一一日の年紀と「大願主藤原氏女 大檀那藤原泰親 院主宗賀 大工道覚」の銘がある。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]菊川町大字田部 洗川

北に山を望む田部たべの台上にあって、東北に田部平野が展開する。表参道と東参道があり、東参道側には灌漑用の溜池があって、御旅所がある。境内は広く後ろに奥院がある。祭神は伊邪那岐・伊邪那美の二神。旧村社。

社伝によれば、元寇の頃、海上鎮護・武運長久のために加賀国の白山権現を勧請、田部の白山に祀ったのに始まる。もとは、上田部の八幡宮の末社で、白山宮・蔵王権現などともよばれたが、明和年中(一七六四―七二)白山権現と改め、寛文二年(一六六二)に現在地に移された。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]新潟市一番堀通いちばんぼりどおり

白山堀を隔てて新潟町の最も上手(南端)に鎮座し、町の総鎮守とされる。祭神は菊理媛命・伊弉諾尊・伊弉冊尊。加賀の白山権現を勧請したというが草創の年代は未詳。旧県社。元亀年中(一五七〇―七三)宝亀ほうき院の住僧憲海が十一面観音と宝鏡を安置したと伝え、寛永一五年(一六三八)同院は領主の長岡藩牧野氏により、当社別当に任じられた。正保四年(一六四七)宝亀院賢尊により社殿再興。承応二年(一六五三)平島へいじま村のうち三〇石が社領として牧野氏から寄進された。うち二〇石は別当宝亀院領(新潟市史)。例祭は三月に神式で、六月に仏式で行うを例としたが、明治初年の神仏分離で廃された。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]八王子市中山

中山なかやまの北部、宮ノ前みやのまえにあり、本殿は社前の急峻な石段を登った高幡たかはた丘陵の高みに建つ。旧村社。創建年代は未詳だが、文政九年(一八二六)境内から仁平四年(一一五四)銘の経筒が出土している。これに納められた法華経奥書によれば、これらの写経は僧弁智が主導者となり、仁平四年九月九日から二〇日にかけて船木田ふなきた庄内の長隆ちようりゆう寺で行われた。この写経には在地の有力者と思われる小野氏・清原氏などが参加しているが、小野氏は武蔵国の官牧の一つ小野おの牧を管理する別当の一族で、彼らはやがて小野氏の系譜を引く横山氏を中心に武士団を形成し、武蔵七党の一つ横山党に成長していく。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]高富町東深瀬

笹倉ささぐらの北部を西に突き出る丘陵の南側山麓に鎮座する。旧村社。祭神は伊邪那美尊。創建は不明だが、神護景雲二年(七六八)という伝えもある。文保二年(一三一八)九月八日の棟札があったと伝えるが(山県郡志)、現存しない。応安六年(一三七三)安倍吉則が玉殿を建立した棟札がある。文亀二年(一五〇二)源守元が拝殿を建立した。拝殿は檜皮葺・入母屋造(桁行五間、梁間三間)で、簡素な建物だが室町時代の様式をよく伝え、棟札とともに国指定重要文化財。寛永七年(一六三〇)本殿・拝殿が、寛文八年(一六六八)拝殿が修復された。寛文八年の拝殿修復費用の寄進者は四八人おり、その筆頭は西深瀬にしふかせ村の永井九郎左衛門で(「棟札写」林文書)、以来永井家は中興神事の主宰同様の役目を元治元年(一八六四)までつかさどった。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]美並村梅原 水田切

梅原うめはら集落の北に位置し、本殿裏側に樫の古木がある。旧郷社。祭神は伊弉冊尊・伊弉諾尊・菊理姫神。由緒によれば、泰澄が養老五年(七二一)創建したとされ、天長三年(八二六)から社領寄進が増え、建久九年(一一九八)白谷入道法享が鳥居を再建し剣鉾を奉納。正嘉元年(一二五七)旅僧が鉄下駄一足を奉納。永禄七年(一五六四)斎藤龍興が越前への途上立寄り、鳥居を再建させた。文禄年中(一五九二―九六)豊臣秀吉に社領を没収され、その後高二石六升五合を下付されたという。現存する最古の棟札は天和二年(一六八二)のもので、「白山三所」とみえる。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]福井市八重巻東町

祭神は伊弉諾いざなぎ尊・伊弉冊いざなみ尊。旧村社。社伝によれば、寛平元年(八八九)勧請、のちに河合かわい荘の惣社になったといい、別当は白山重陽ちようよう寺と号した。「越前地理指南」に「後鳥羽院文治元年頼朝に詔りして河合の庄惣社と定、御供田七十五町の社領を寄附せられ再興アリ。後深草院正嘉年中鎌倉の最明寺百貫文の地を寄られ再営す。暦応二年源尊氏治国の時、足利高経当国守護として再興す。文正元年当国の朝倉敏景入道英林悉ク造営す。神田寺社領先例に准て寄附す。天文年中朝倉弾正左衛門孝景堂塔再興。しかるを天正年中一揆悪逆として国中の神社仏閣尽ク滅却す」と記している。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]明方村寒水

寒水かのみず川右岸の字宮の上みやのうえに鎮座する。祭神は伊邪那美尊・伊邪那岐尊・菊理姫尊。寺組家頭記(明方小学校蔵)では、文正元年(一四六六)建立とあるが、現存する最古の棟札は寛永四年(一六二七)のもの。摂社の天神宮は鎌辺かまべ村の常妙じようみよう寺の開山鎌倉五郎左衛門が長久元年(一〇四〇)氏神として奉納したという(寺組家頭記)。西隣の母袋もたい(現大和町)から観音像を守ってほしいと頼まれ、十一面観音を譲り受け、掛踊も伝授されたという口伝がある。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]関川村土沢 下土沢

土沢つちざわ集落の南西山裾に鎮座する。祭神は白山姫命。かつては東の谷地林やちばやし地内の通称白山平はくさんたいらに鎮座していたが、明和三年(一七六六)現在地へ遷され、神明社・地蔵堂・薬師堂とともに祀られたという。勧請の時期は不明。「延喜式」神名帳にみえる磐船いわふね郡八座のうちの「蒲原カマハラノ神社」に比定する説もある。社蔵の杉材の棟札には「元慶二年八月拾五日 白山大権現 武運長久 願主吉武」と墨書されている。「白川風土記」には蒲原神社としてみえる。白山権現を相殿に祀り里人は白山社とのみいうとあり、関川郷の総鎮守で、境内社は諏訪社・八千戈神・羽黒権現が記される。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]桂村赤沢 白山

白山の山上に鎮座。祭神は伊弉那岐命・伊弉那美命・菊理比命。旧村社。社伝によると永正一二年(一五一五)の創建と伝え、初め下穴沢の竜谷しもあなざわのりゆうこく院の北の峰に日光につこう・白山の両社を勧請、白山妙理はくさんみようり大権現と称したが、のち現在地に移り文政八年(一八二五)白山大明神と称し、弘化元年(一八四四)徳川斉昭の命で白山神社と改称した。大山おおやま城主大山義長が天正一二年(一五八四)に社殿を造営、また城主大山義勝も社殿を造営し除地二石余を寄進した。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]大桑村大字殿 延沢

白山神社は殿との集落、小川おがわの谷の入口右岸の山の中腹にある。祭神は菊理姫命。覆屋の中に右から伊豆・白山・熊野・蔵王と並び、現在四社殿とも旧国宝として重要文化財に指定されている。元弘四年(一三三四)建立の棟札も現存し、重要文化財。「永享一一年」の銘のある鰐口も現存している。

棟札によれば、元弘四年、藤原光友の勧進で、大工橘宗重によって建てられたことが知られる。なお同社所蔵の鰐口には、「北美州小木曾殿村白山奉宝前。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]中区丸の内一丁目

さくら通の北側。ほり川へ下る坂の上に鎮座。祭神は菊理媛命。旧村社。もとは桜の町筋の南側(現錦一丁目)にあった。白山社・白山宮・白山権現とよばれた。かつての境内は一一三坪余。勧請年月は不明。応永―永禄(一三九四―一五七〇)の頃は泥江県ひじえあがた神社(広井八幡)の境域に続く末社。慶長一七年(一六一二)の検地で両社の間に伝馬てんま町筋が通じて二分された(名古屋神社誌)

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]浦川原村虫川 鳥越

保倉ほくら川左岸、支流の細野ほその川沿いの鳥越とりごえにある。祭神は伊弉冊尊、配祀は伊弉諾尊。祭礼は四月二九日・八月一五日・一一月五日、旧村社。寛元三年(一二四五)八月日・正安元年(一二九九)一一月一四日・寛永五年(一六二八)および文化六年(一八〇九)の棟札が遺存する。これらによれば、寛元三年から二〇〇余年以前、来善聖人が馬頭観音の霊地として当地に一宇を建立、寛元三年再興、正安元年「地頭沙弥道□」を大旦那として宝殿を造営。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]文京区白山五丁目

薬師やくし坂中腹の西方、白山台地上にある。祭神は菊理姫命・伊弉諾命・伊弉冉命の三柱で、旧郷社。江戸時代には白山権現社と称された。縁起によれば天暦二年(九四八)加賀国白山神を豊島郡元岡本もとおかもと(現在の本郷元町辺り)に勧請したのが草創という。元和二年(一六一六)小石川に移転したが、遷座地が明暦元年(一六五五)頃に徳川徳松(のちの将軍綱吉)の別邸(小石川御殿)の用地となったため、北東方の現在地に移転したという。当社は綱吉と綱吉の生母桂昌院が信仰・保護したことから江戸の白山信仰の中心社として栄え、元禄二年(一六八九)綱吉の子鶴姫誕生の際には産神の役を担っている。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]室生村大字龍口

龍口りゆうぐち集落中央に鎮座、祭神は菊理姫くくりひめ命・伊弉諾いざなぎ命・伊弉冊いざなみ命。旧村社。神像(三体)は弘法大師作と伝える。永徳二年(一三八二)に社殿を造営、寛延四年(一七五一)社地を改め再造営したという(室生村史)。天明六年(一七八六)の湯釜には「和州龍口村白山大権現御湯釜」、寛政一〇年(一七九八)の六角形青銅製釣灯籠には「和州宇田郡(竜)口村」の刻銘がある。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]福井市栃泉町 赤坂

しろ山西麓に鎮座する。祭神伊弉冊いざなみ尊。旧村社。「延喜式」神名帳に載る足羽あすわ郡「登知為トチイノ神社」の後身と伝える。江戸時代は白山妙理大権現と称し、田治たじ荘一三ヵ村の惣社であったという。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]鎌倉市今泉三丁目

岩瀬いわせの東南谷奥、称名しようみよう寺へ向かう途中にあり、かつては毘沙門堂とも称した。祭神は菊理姫之命。旧村社。社伝では建久元年(一一九〇)源頼朝の建立という。社殿に安置する一木造兜跋毘沙門天立像は平安期の作で、「風土記稿」によれば頼朝が上洛の節に京都鞍馬くらま寺より請来したものという。このほか、前立の毘沙門天および両脇侍(吉祥天女・善膩師童子)像三体などがある。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]新潟市沼垂東一丁目

菊理媛命を祀り、旧郷社。「延喜式」神名帳に載る沼垂郡五座のうち美久理みくり神社にあてる説もある。古くは沼垂津のあった辺りに鎮座していたが、地形の変化と町の移転に伴い、数度の遷座をみた。貞享元年(一六八四)の沼垂町最後の移転の際は、町の西端、信濃川沿いに鎮座したが、享保一一年(一七二六)御蔵屋敷近くの現在地に遷った。沼垂町の鎮守で、近世は領主溝口氏より社領一〇石を寄進され、海巌山得生とくしよう院が神宮寺であった。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]吉良町乙川 西大山

正法しようぼう寺の東北の地に鎮座。素盞嗚尊・菊理比神・伊邪那美命を祀る。社伝によると、貞観(八五九―八七七)の頃の創立という。正法寺および小山田おやまだの旧家小山氏の記録(吉良町誌)によると、暦応(一三三八―四二)の頃、足利尊氏が乙川おつかわに新田を築き、鳳来ほうらい(現南設楽郡鳳来寺町)の現住玉林坊をもって正法寺の開基とし、白山大権現を守護神としたという。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]勝山市平泉寺町平泉寺

三頭みつがしら山の南西麓、杉の大木林に囲まれて鎮座する。祭神は伊弉冊いざなみ尊。旧県社。養老元年(七一七)四月、泰澄の創始と伝える。山嶽霊場白山の山神を祀った神社で、中世まで白山中宮平泉へいせん寺と称し、白山三馬場の一つとして栄えた。明治四年(一八七一)神仏分離が行われ、仏教色を払い、現社号を称するようになった。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]川上村大字東川小字仲居

仲居なかいにある。祭神白山大権現。神社由来古記(東川区有文書)には、加賀白山神を延喜二年(九〇二)六月に勧請し、代々その子孫が祭祀をつかさどって神主を勤めてきたという。永正年中(一五〇四―二一)大名持おおなもち神社・五社明神(現川上村)を遷祀し、宝暦年中(一七五一―六四)には十二社権現として併祀したと伝える。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]安城市大岡町 宮東

森の中に鎮座。伊弉諾命・菊理媛命・伊弉冉命を祀る。創立は明らかでない。養老二年(七一八)白山大神を勧請という。古図に記すところによると、松平清康が天文二年(一五三三)に社祠を再建、社領を寄付している。天文年中織田氏によって焼かれ、古文書は烏有に帰した。のち徳川家康が永禄一〇年(一五六七)に社殿を再建という。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]大和町大間見

奥大間見の重光おくおおまみのしげみつに鎮座。祭神は伊弉冉尊・伊弉諾尊・菊理姫尊。旧郷社。養老五年(七二一)当村住人坪井重光が白山に登り、泰澄の命を受け勧請したと伝える。小字名はこの名をとったという。神体はかつて金仏であったが、現在は鏡。目通り周囲八メートル二〇センチ、推定樹齢八〇〇年の三本の大杉がある。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]春日井市上条町

祭神は阿太賀田須命・建手和爾命・伊弉冊命・磯城津彦命・菊理姫命で、創建は不詳。旧村社。由緒書によると、神社は初め朝宮あさみやにあったが、建保六年(一二一八)上条じようじよう城主の小坂孫九郎雄吉が平素信仰する白山神を祖神とともに合祀し、現在地に遷座し、和爾良かにら白山社と改称した。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]取手市野々井

野々井ののい集落ほぼ中央に鎮座。旧村社。祭神は伊弉諾尊ほか七神。養老二年(七一八)の創建と伝えられる。当地区の祖、長塚民部・長束兵部・刑部の三兄弟が加賀国から白山姫尊を勧請したことに始まるといわれ、白山姫尊木像が安置されている。そのほか大日だいにち様とよばれる北朝年号応安五年(一三七二)在銘の五輪塔や永和三年(一三七七)在銘の白幡しらはた大明神の石祠もある。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]取手市小文間

戸田井とだい地区に鎮座。旧村社。祭神伊弉諾命。四〇〇年前の創建と伝えられ、社殿欄間の彫刻は見事で、ひがし一丁目の八坂やさか神社の彫刻をした後藤縫殿之助ではないかといわれている。当社は江戸中期から弘経ぐぎよう寺境内の白山神社と同じく虫歯に霊験があると伝えられ、戸田井の渡を利用した参詣者も多かったといわれている。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]八戸市沢里 下沢内

白山川(沢里川)の中流付近に位置する。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命など。八戸藩日記の元禄七年(一六九四)四月九日条に「上久保山白山権現建立御堂入」とあり、同七年八戸城下十六日じゆうろくにち町の高橋吉左衛門が本社白山堂、末社弁才天・大日堂・不動堂・観音堂・尾畑明神堂を現在地近くの上久保かみくぼ山に建立したのが始まりである。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]湯沢市松岡字坊中

白山山頂の東側斜面中腹にある。祭神は伊邪那美神・菊理媛神・大山祇神。「雪の出羽路」に「此峰に白山の神また大日如来堂あり」とあり、別当金峰山神宮寺万福院を記す。また信仰の始まりを「白山姫の社、坂上の大宿禰田村麻呂の安置のよしを伝へ給ふ、後に円仁大師、此山の大樹の桐を伐りて仏像あまた作」と記す。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]山中町白山町

山中温泉の西方、水無みずなし山の麓の高台に鎮座。祭神は菊理媛神。旧村社。もと医王いおう寺の鎮守で同寺南隣にあったが、昭和六年(一九三一)の大火で類焼、同一四年現在地に遷祀した。

白山神社
はくさんじんじや

[現在地名]春日井市外之原町

祭神は菊理姫命。旧村社。「寛文覚書」に「社拾ケ所内 白山権現、山之神九ケ所 村中支配」とある。「府志」に「白山祠 在外原村 里老伝云醍醐天皇延長元年建之 然失社伝」とある。寛政元年(一七八九)一一月の棟札に「奉中興御拝殿願主当村中、春日井郡外之原村別当延命院」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「白山神社」の解説

白山神社〔新潟県〕

新潟県新潟市にある神社。創祀不明。祭神は菊理媛大神(くくりひめのおおかみ)(シラヤマヒメノカミ)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)など。「新潟総鎮守 白山神社」とも。

白山神社〔岐阜県〕

岐阜県山県市にある神社。1502年建築とされる拝殿は国の重要文化財に指定されている。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

事典 日本の地域遺産 「白山神社」の解説

白山神社

(大阪府大阪市城東区中浜2-3-15)
大阪市都市景観資源」指定の地域遺産。

出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報

事典・日本の観光資源 「白山神社」の解説

白山神社

(長野県木曽郡木曽町)
信州の神社百選」指定の観光名所。

白山神社

(長野県木曽郡大桑村)
信州の神社百選」指定の観光名所。

白山神社

(長野県飯田市)
信州の神社百選」指定の観光名所。

白山神社

(東京都文京区)
東京十社」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「白山神社」の意味・わかりやすい解説

白山神社
はくさんじんじゃ

白山比咩神社」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報