上飯田村(読み)かみいいだむら

日本歴史地名大系 「上飯田村」の解説

上飯田村
かみいいだむら

[現在地名]甲府市飯田一―五丁目・塩部しおべ二丁目・富士見ふじみ一―二丁目・たから一―二丁目・寿町ことぶきちよう

西青沼にしあおぬま村の西にある。中世には飯田郷に含まれた。慶長六年(一六〇一)の検地までにあら川西岸部が巨摩郡下飯田村となり、二村に分れた。本郷はあい川西岸で、東岸には西青沼村分と入組むかたちでおもに耕地があった。北西から流れてくる小湯こゆ川は地内で相川に落合い、さらに荒川へ合流する。甲州道中の同村家続きの人戸は別にしん(飯田新町)と称し、しだいに町場化した。古くは中飯田村の名がみえる文書もあるが、江戸期は地内にあった称名しようみよう院・八幡宮周辺の字名となっていたらしい。「甲斐国志」によれば、枝郷に新町のほか穴切あなぎりがある。慶長古高帳に村名がみえ、高一千一〇三石余。ほかに中飯田村分として八幡領三石余。七冊のうち四冊が残る慶長一六年の再検地帳(県立図書館蔵)によれば屋敷一町四反余。貞享元年(一六八四)の検地帳(同館蔵)では高一千一九八石余、反別は田が四六町二反余でうち麦田六町余、畑二二町九反余、屋敷五町一反余。享保九年(一七二四)幕府領となり甲府代官支配。同一〇年ないし一一年から天明七年(一七八七)の間には当村に上飯田代官所が設置され、その間は同代官支配、のち幕末まで再び甲府代官支配と推定される(文化九年―天保期「上飯田村御用留」若尾資料など)

上飯田村
かみいいだむら

[現在地名]戸塚区上飯田町

東は和泉いずみ村、北は瀬谷せや(現瀬谷区)とそれぞれ八王子道で境し、南は下飯田村。西南は高座こうざ七次ななつぎ村・千束せんぞく(現藤沢市)、西は同郡下和田しもわだ(現大和市)、西北は同郡上和田村(現同市)といずれもさかい川で境する。大山道が南を東西に走る。柳明・本郷・川島の三本の用水堀堰がある。もとは上下一村で飯田郷と称していた。弘安八年(一二八五)二月二二日の関東下知状(県史二)に、鎌倉法華ほつけ堂領の「渋谷庄西飯田郷内田壱町、在家一宇」がみえる。

飯田郷は鎌倉永福ようふく寺薬師堂供僧料で、供米をめぐって鎌倉末期には一分地頭飯田氏と度々の相論がなされた。永仁六年(一二九八)七月一三日には飯田四郎孫女藤原氏知行分の公田五反の年別供米一石五斗の数年に及ぶ未進に対し弁済を命ぜられ(「関東裁許下知状」県史二)、正安元年(一二九九)一〇月一七日の関東下知状(同書)には相論条々として地頭が小枡を用いたこと、納入場所の理解の不一致、壇供餅などの地頭未進がみえ、また供僧料所当米は毎年一八〇石であった。

上飯田村
かみいいだむら

[現在地名]飯田市羽場はば丸山まるやま東野ひがしの大平おおだいら箕瀬みのぜ

現飯田市北西部、風越ふうえつ(一五三五メートル)東南麓の緩傾斜地とまつ川の段丘上に集落が点在し、村の南西を伊那往還が通る。北は木曾山脈を挟んで木曾郡、東は上黒田かみくろだ村・別府べつぷ村(以上現下伊那郡上郷かみさと町)、南は飯田町、西は松川を挟んで、上山かみやま村(現下伊那郡かなえ町)・北方きたがた村・大瀬木おおせぎ村に接する。

鎌倉時代は郡戸ごうど庄飯田郷に属し、阿曾沼氏が地頭を務め、室町時代は坂西氏が支配した。

文献的には、文明三年(一四七一)の諏訪御符礼之古書に「上飯田本神領ニて候由状ニ仕候、案文」とあるのが初見。

上飯田村
かみいいだむら

[現在地名]浜松市飯田町

西之郷にしのごう村の東に位置し、南は下飯田村。集落の東を安間あんま川が流れるが、延宝(一六七三―八一)頃の青山氏領分絵図に、安間川の東で半場はんば村の南に「上飯田竜光新田畑」と記されており、村域は安間川東岸に及んでいたと考えられる。中世は下飯田村を含む一帯にかば御厨のうち飯田郷が成立していた。文禄二年(一五九三)九月一一日の堀尾次郎介社領寄進状(稲荷神社文書)に「長かミの郡かんま之内、上飯田村稲荷」とみえる。松平忠頼領郷村帳では高四一四石余、田一四町一反余・畑三一町九反余、うち川成七石余、ほかに龍泉りゆうせん寺領三〇石、稲荷領四石余。

上飯田村
かみいいだむら

[現在地名]北区上飯田通・上飯田〈きた町・西にし町・ひがし町・みなみ町〉

東を山田やまだ村と接し、北を矢田やだ川が流れる。熱田あつた神宮寺の鐘に当村の名がみえる銘文があった(雑志)

<資料は省略されています>

「尾張国地名考」に「滝川弘美曰」として「土人は下井田・上井田とよべり」とある。寛文一一年(一六七一)の家数四六、人数四〇三(寛文覚書)。「徇行記」によれば、田は四一町一畝、畑は一三町四反弱。

上飯田村
かみいいだむら

[現在地名]八百津町上飯田

飛騨川下流域、小流飯田川の上流部に位置し、下流は下飯田村(現川辺町)。下飯田より入ると南と北に低い丘陵が続く。村の中を古東山道が通り、平将門が都落ちしたとき休んだという石が下飯田村境近くにあり、この石に腰掛けると、おこりふるうといわれる。慶長郷帳に三七四石余とあり、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では尾張藩領三五〇石余・幕府領二四石余。幕府領分は同五年尾張藩領となり、幕末まで続く。正保郷帳では田方二九八石余・畑方七四石余・山年貢二石余。明暦覚書では概高五六六石余、慶安四年(一六五一)の人数四〇一、馬二五。「濃陽志略」の家数一一六・人数四五四。「濃州徇行記」では家数一〇三・人数四六八、馬一六。

上飯田村
かみいいだむら

[現在地名]小鹿野町飯田

赤平あかびら川流域に位置し、北は中飯田村、東から南にかけて山の峰を境にすすき(現両神村)、西は三山さんやま村。中飯田村からの往還が村の中央を通り三山村に向かう。元文五年(一七四〇)飯田村が上・中・下の三ヵ村に分村して成立したという(「風土記稿」「郡村誌」など)。同年、当村は旗本古田領となり、同領で幕末に至ったと考えられる(「風土記稿」「郡村誌」「寛政重修諸家譜」など)。「風土記稿」によれば家数六三、農間稼には男は山稼、女が養蚕や絹織を行い、産物には絹・煙草・大豆などがあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報