宇陀郡(読み)うだぐん

日本歴史地名大系 「宇陀郡」の解説

宇陀郡
うだぐん

面積:三七四・二〇平方キロ
榛原はいばら町・大宇陀おおうだ町・菟田野うたの町・室生むろう村・曾爾そに村・御杖みつえ

奈良盆地の東南、宇陀山地の一帯を占め、東・東南は三重県、西は桜井市、南は吉野郡、北・北西は山辺郡よど川水系の源流域にあたり、西部の口宇陀くちうだ盆地、東部の奥宇陀おくうだ山地に分れる。口宇陀盆地底はほぼ標高三〇〇―四〇〇メートルで四周を山に囲まれるが、東・南・西の三方から盆地内部へ細長く花崗岩質の丘陵が延び、比高約五〇―一〇〇メートルで起伏。一般に南縁が高く北が低く、西から宇陀川・芳野ほうの川・内牧うちまき川の三川がともに小盆地を作り北流し、榛原町内で合流。合流後の宇陀川は東北に進み奥宇陀山地に入る。奥宇陀山地では北部の室生火山群の深志ふかし川・室生川・西谷にしたに川が北流して宇陀川に注ぎ、南縁の高見たかみ山地に発する桃俣もものまた川・曾爾川・菅野すがの川・神末こうずえ川はいずれ合流して青蓮寺しようれんじ川となる。名張盆地で宇陀川・青蓮寺川が合流して名張なばり川になり、さらに木津きづ川・淀川となる。

古代の宇陀郡は現在の宇陀郡の大部分を占めるが、早くも「古事記」神武天皇段に「其地より踏み穿ち越えて、宇陀に幸でましき。故、宇陀の穿うかちと曰ふ。故爾に宇陀に兄宇迦斯宇より下の三字は音を以ゐよ。下は此れに効へ。弟宇迦斯の二人有りき」、「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午年六月二三日条に「遂に菟田下県うだのしもつあがたとほりいた る。因りて其の至りましし処をなづけて、菟田の穿邑穿邑、此をば于介知能務羅と云ふ。と曰ふ」、同八月二日条に「兄猾及び弟猾を徴さしむ。猾、此をば宇介志と云ふ。是の両の人は、菟田県の魁帥なり」とあり、「于能多伽機」(菟田の高城)の歌も収められている。「万葉集」にも巻二の草壁皇子哀悼歌のうちに、

<資料は省略されています>

とあるほか巻七、八に、

<資料は省略されています>

の歌がある。ほかにも「古事記」神武天皇段に「宇陀の血原」、崇神天皇段に「宇陀の墨坂神」、仁徳天皇段に「宇陀の蘇邇」、「日本書紀」神武天皇即位前紀に「菟田の高倉山」「菟田川の朝原」、垂仁天皇二五年三月一〇日条に「菟田の筱幡」など数多くの地名がみえ、修浄校生貢進啓(正倉院文書)に「于太郡」、「続日本紀」慶雲二年(七〇五)九月九日条に「大倭国宇太郡」、天平二〇年(七四八)の写書所解(正倉院文書)に「大倭国宇郡」、貞元三年(九七八)の県某檜牧地充行状案(東寺百合文書)に「于郡上県」、康平四年(一〇六一)の前加賀守藤原某渡文(同文書)に「大和国宇郡」、「吾妻鏡」文治二年(一一八六)六月二八日条に「大和国宇多郡」などさまざまな表記があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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