殿村(読み)とのむら

日本歴史地名大系 「殿村」の解説

殿村
とのむら

[現在地名]津市殿村

産品うぶしな村の東、安濃あのう川中流の右岸、長谷はせ山から東へ延びる丘陵の先端付近に集落がある。文禄検地帳の転記と思われる伊勢国中御検地高帳に村名がみえ、「布留屋草紙」は平貞衡が津を領して屋敷を構えた所と伝える。集落背後の丘陵上に前方後円墳一基を含む殿村古墳六基および字井尻いじり狭間谷はざまだににも数基の古墳がある。村内の水田には条里遺構が残り、字名にも五之坪・九之坪・石ヶ坪・八之坪・外ヶ坪・四之坪などの坪名があり、安濃郡条里八条七里ないし八里に相当すると推定される。法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)には石田いわた郷「八条九市村里」とあり、「延喜式」(兵部省)にみえる市村いちむら駅の所在地と考えられ、集落東側の小字本馬領ほんまりようはその名残か。その付近より奈良から平安期の土器破片などの遺物も相当量発見されている。

殿村
とのむら

[現在地名]船岡町殿

坂田さかた村の南に位置する。村名はかつて周辺を領有していた伊田氏の家中屋敷があったことによるといわれ、村内にはその家老山本源太の屋敷跡と伝えられる場所があるという(因幡志)。もとは水口みなくち村・塩上しおのうえ村を含んだが、水口村は元禄郷帳・元禄国絵図作成時に独立、塩上村も享保一三年(一七二八)には領内限り別村となったという(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵、享保一九年鈴木孫三郎所持本「因幡誌」)。当村の拝領高は四五七石余、本免は五ツ八分。藪役銀一〇匁一分余・川役米四斗余を課されていた(藩史)

殿村
とのむら

[現在地名]神岡町殿・江馬町えまちよう坂富町さかとみちよう夕陽ゆうひおか

高原たかはら川中流東岸、中位河岸段丘上にある。東は和佐保わさぼ村、西は釜崎かまさき村・朝浦あそら村、南は麻生野あそや村。村中央を南北に上宝かみたから街道が通る。「飛騨国中案内」に「江馬殿の下屋敷並諸士の居屋敷跡地ゆへにや、今に於て村名も殿村と云ふ、坂巻と云所に民家あり、此間三町程あり」とみえる。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では麻生屋あそや郷の内に「殿村所々四村」分として田方一四六石余・畑方三二九石余、物成合二二六石余とある。

殿村
とのむら

[現在地名]朝日町殿・殿町とのまち

川が平野部に出てすぐの左岸にあり、東は南保なんぼ村、北は長野ながの村、西は不動堂ふどうどう村、南は山崎やまざき村。元和三年(一六一七)の前田利常印判状(泊町史料)に「新川郡之内、との村・山崎村野開之儀ニ付て、当年より用水普請申付候条」と記される。寛永一一年(一六三四)能登の大井四郎左衛門が当村に移住させられ、十村になっている。延宝六年(一六七八)宮崎みやざき村の神主藤太夫の書上(遺編類纂)では、高橋たかはし村・藤塚ふじづか村・横水よこみず村・山王さんのう村、今江いまえ村・二つ屋ふたつや(現入善町)は当村の出村と記される。

殿村
とのむら

[現在地名]美山町大字つるおか 殿

鶴ヶ岡一九ヵ村の一。由良川の支流棚野たなの川に西にし川が合流する地点の北側に位置し、若狭(高浜)街道に沿った山間集落。南は棚野川を挟んで河合かわい村、北東(棚野川上流)田土たど村、北西(西川上流)船津ふなづ村。土豪川勝光綱の殿城があったところから、殿村と名付けられたという。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属する地。鎌倉時代末期には弓削庄の一部であったが、のち野々村ののむら庄に包含されたともいわれる。室町中期には一時管領細川氏領となったというが(大正一二年「京都府北桑田郡誌」)、確証はない。

慶長七年(一六〇二)幕府領、元和五年(一六一九)より園部藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高六〇・〇六三石、旧高旧領取調帳では一一七・九五一石。

殿村
とのむら

[現在地名]温泉津町井田いだ大字福田ふくだ

津淵つぶち村の南、井尻いじり村の東に位置する。中世は大家おおえ西にし郷に含まれた。天文二二年(一五五三)九月一三日の福光久兼契約状写(石見吉川家文書)に「西郷之内殿村」とみえ、久兼は吉川経典に殿村の田一反(分銭八〇〇)を永代譲与している。これは同一八年久兼が山吹やまぶき(現大田市)登城を命じられた際、経典から援助を受けたことに対する返礼として譲与されたもので、同二二年にも経典から二〇〇疋の援助(借銭)を受けていた。

殿村
とのむら

[現在地名]福光町東殿ひがしとの

山田やまだ川左岸、高畠たかばたけ村の南にある。元和五年(一六一九)の家高新帳に「との村」とみえ、上組本江組に属し、役家数六。正保郷帳では高三六九石余、田方二三町六反余・畑方一町。明暦二年(一六五六)の村御印留、寛文一〇年(一六七〇)の村御印には江田殿えだとの村とみえ、同年の草高四〇一石、免五ツ八歩、小物成は山役五一匁(三箇国高物成帳)。明和九年(一七七二)の礪波郡郷附并村名覚(福光町立図書館蔵)では殿村と旧に復している。文政八年(一八二五)には能美組、天保一〇年(一八三九)以後は井口組に属した。嘉永六年(一八五三)の村鑑帳(菊池家文書)では草高三三五石余、ほかに六石余がある。

殿村
とのむら

[現在地名]郡家町殿

一谷いちのたに村の南東、八東はつとう川北岸に位置し、集落は若桜わかさ往来に沿って一谷村集落と連続している。「延喜式」神名帳にみえる八上やかみ和多理わたり神社の鎮座地で、古代の同郡曰理わたり(和名抄)の比定地。永禄六年(一五六三)四月一一日の山名豊数宛行状(中村文書)に「因幡国八東郡曰理海老名分五町」などとみえ、亡父中村伊豆守の遺領である当地などの相続を中村鍋法師丸に申付けている。しかし家中に異論があったため、翌七年一月一九日、山名豊数は鍋法師丸に曰理のうち海老名分五〇石・曰理大門だいもん三〇石などを安堵している(「山名豊数安堵状」同文書)。藩政期の拝領高は一六三石余。本免六ツ三分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高二一七石、竈数三九。

殿村
とのむら

[現在地名]今立町殿

坂下さかした村の東にあり、水間みずま谷の中央部に位置する。伝えによると天正一一年(一五八三)羽柴秀吉が柴田勝家を北庄きたのしよう(現福井市)に攻めた時、当村の南西、水間谷と月尾つきお谷との分水嶺(二一五メートル)たま坂に前田利家が玉ノ木城を構築し、その麓に居館を構えた。その利家居館にちなんで「殿」の地名が生じたという。城跡や堀切が残る。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では水間村に含まれるが、元禄郷帳で分村、村高八〇・九六石。反別は、寛政一二年(一八〇〇)の殿村高反別明細帳(前田五平家文書)によると五町六反余で、畑方が三町四反余と田方を上回る。

殿村
とのむら

[現在地名]国府町殿

中河原なかがわら村の北東に位置する。ふくろ川を挟んで南は山崎やまさき村。村名は山崎城に拠ったとされる毛利氏の侍屋敷があったことにちなむといい(因幡志)上屋敷かみやしきなどの地名が残る。法美ほうみ往来が通り、文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)には村の南方に一里塚が描かれている。拝領高は七四石余、本免は七ツ二分。遠藤氏・湯川氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数一五。天保一五年(一八四四)の作人二四・出奉公人五・御小人二(「作人改帳」井上家文書など)。弘化四年(一八四七)の上構下札略写(県立図書館蔵)では朱高は八一石余(うち畑高九石余)で、永荒を引き年々開二二石余などを加えた都合高は一〇三石余。

殿村
とのむら

[現在地名]日高町殿

栗山くりやま村の西、阿瀬あせ谷の開口部に位置する。江戸時代はじめには殿井とのい村ともいった。慶長六年(一六〇一)六月、「殿井村」の二三二石余が旗本八木庄左衛門光政に与えられ、元禄一六年(一七〇三)まで同家に伝えられた(→栗山村。以後は幕府領。寛永一六年(一六三九)の知高帳には殿村とあり、高二二九石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では二三一石余。

殿村
とのむら

[現在地名]大桑村大字殿

木曾川右岸の段丘上の日当りのよい地帯に位置している。長野ながの村の対岸に殿村・なか村・しも村・小川入おがわいりの四つの集落があり、須原すはら村の対岸に支村の和村わむらがある。

木曾氏が木曾の殿様として数代居住したという伝承がある。小川谷おがわだにの入口右岸の山の中腹にある白山はくさん神社は現存する棟札によって、白山・蔵王・伊豆・熊野の四つの社殿が、鎌倉時代末期の元弘四年(一三三四)に建立されたものであることが知られ、重要文化財に指定されている。

殿村
とのむら

[現在地名]気高町殿

飯里いいざと村の南、逢坂おうさか谷の奥部西方の山麓に位置する。南は小別所こべつしよ(現鹿野町)。拝領高は六九一石余、本免は五ツ四分。藪役銀一七匁九分が課せられ(藩史)、簗田氏・井上氏・堀庭氏・絹川氏・後藤氏・前田氏・河田氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によると家数四五。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高七四四石余、竈数六二。享保一八年(一七三三)当村を含む逢坂谷の小別所村・飯里村など五ヵ村と日置ひおき谷の小畑おばた(現青谷町)との間で草山入会をめぐって争いとなった。

殿村
とのむら

[現在地名]岡部町殿・新舟にゆうぶね

野田沢のたざわ村の西に位置し、朝比奈あさひな川が村の中央部を蛇行しながら南流する。南西流する野田沢川が村の南端で朝比奈川に合流、集落は合流点付近に広がる平坦地に立地する。寛永一九年(一六四二)の田中領郷村高帳に村名がみえ、高二八〇石余。領主の変遷は野田沢村と同じ。天保郷帳では高三六三石余。旧高旧領取調帳では殿村と殿村新船組に分けて記され、殿村は高二一一石余、うち曹洞宗総善そうぜん寺領四石、朝夷あさひな神社(現六社神社)・曹洞宗伊泉寺(現廃寺)除地各一石、殿村新船組は高一五〇石余、うち曹洞宗の万年まんねん寺・善能ぜんのう寺除地各一石。

殿村
とのむら

[現在地名]広川町殿

ひろ川の左岸にあり、熊野街道が通る。西は金屋かなや村、北は名島なしま村、川を隔てて東は柳瀬やなせ村、南は井関いせき村に接する。「続風土記」に「殿の名、地頭高貴の人の住せし地なるより起りしなるへし、然れとも遺跡を尋ぬへきなし」とある。小名に土居どいという地名があり、地頭屋敷があったと伝えられる。

殿村
とのむら

[現在地名]和田山町殿

安井やすい谷のしも村の少し奥にある。昌泰年中(八九八−九〇一)朝来郡司であった日下部安樹が居住したゆえの地名と伝える(朝来志)。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高二〇三石余。幕府領として推移したと考えられる。宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高二〇三石余。元文三年(一七三八)の生野一揆では朝来郡安井庄の当村庄屋佐兵衛、百姓の儀右衛門が生野代官に強訴したのは不届きなどとして死罪のうえ獄門に処されている(「朝来郡村々百姓強訴一件」生野書院蔵)

殿村
とのむら

[現在地名]松阪市殿村町

大足おわせ村の北西、田牧たいら村の南にある。正和三年(一三一四)八月二七日付六波羅裁許下知状(金沢文庫蔵)に「伊勢国守護領庄田方地頭代浄慶申、太神宮領同国殿村住人西蓮・又四郎乍出作蓮池田地弐段余、(不)弁所当公事由事」とあり、当地が伊勢神宮領として位置付けられていることが知られる。康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)に「一畠地一処 在飯高郡殿村所在大福寺御園内号田井良垣念仏院領」と記される。南北朝期のものとされる玉田寺大般若経(多気郡多気町光徳寺蔵)の奥書に「殿村禅門」「殿村大野寺禅門」とあり、南北朝期にすでに殿村の地名が成立していたことがうかがえる。

殿村
とのむら

[現在地名]福光町殿

市野沢いちのさわ村の西、小矢部おやべ川東岸にある。元和五年(一六一九)の家高新帳には「との村」とみえ、広瀬組に属し、役家数五。正保郷帳では高四三七石余、田方二八町六反余・畑方五反、新田高は五〇石余。明暦二年(一六五六)の村御印留では田中殿たなかとの村とあり、寛文一〇年(一六七〇)の村御印でも田中殿村で草高五九五石、同二年の新田高一一石、免はともに四ツ八歩、小物成は鱒役三匁(三箇国高物成帳)。寛政四年(一七九二)には大西先組に属し、家数二八(うち頭振一)・人数一五五(うち頭振四)、馬一五(「大西先組覚帳」福光町立図書館蔵)

殿村
とのむら

[現在地名]松本市和田 殿

明暦二年(一六五六)の検地で二九二石一斗二合と高付けされる。天保郷帳の時は四〇七石二斗七升四合。

中世、和田郷の領主の居館した所で城跡がわずかに残る。「東筑摩郡村誌」に「古跡古城址二ケ所(中略)一ハ殿耕地ノ南ニアリ地位僅ニ其堡形ヲ存ス、サキニ土人地ヲ穿ツテ古陶器・古刀数種ヲ掘得タリ、亦其側ニ小祠アリ何人ノ住スルヤ未詳土人此地ヲ城ノ山ト称ス」とある。

宗高むなたか社・金毘羅こんぴら社・神明しんめい社がある。同書に「宗高社社地東西十七間五分、南北四十間七分殿耕地ニアリ、祭神大己貴命並応神帝・建御名方命ノ三座ナリ、サキニ社地千歳ノ古松林ヲナセシガ僅カニ老松一株ヲ存シ他ハ小樹ノミ」「金毘羅社(中略)祭神大己貴命祭日四月十日社中松樹繁茂セリ、神明社祭神天照大神」とある。

殿村
とのむら

[現在地名]日吉町字田原たわら

和田わだ村の北に位置する。中央を田原川が南流し、それに沿って若狭街道が通る。田原川沿岸の平坦地としては開けた地域の一であり、北は吉野部よしのべ村、東は下稗生しもひよ(生畑村)、西は山を越えてなか(胡麻村)。園部藩領。

元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳の村高は一〇三石余、天保郷帳では二六〇石余。

殿村
とのむら

[現在地名]七尾市殿町

崎山さきやま半島の山間部、大田おおた村の南に位置する。加賀藩領。寛永一二年(一六三五)の鹿島郡喜兵衛組役家書上(藤井文書)に村名がみえ、役家一七。正保郷帳によると高二〇七石余、田方一町余・畑方一二町八反余。承応二年(一六五三)の役棟一七(「棟役調」鹿島郡誌)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二一六石、免四ツ七歩、山物成は山役一六二匁・苦竹役三匁、鳥役二匁(出来)があった(三箇国高物成帳)

殿
とのつじむら

[現在地名]住吉区墨江すみえ四丁目・殿辻一―二丁目・南住吉みなみすみよし三丁目・我孫子西あびこにし一丁目など

千躰せんたい村の南に位置し、村域は東西に細長く、西部を阿部野あべの街道(熊野街道)が南北に通じる。集落はこの街道付近にある。「住吉松葉大記」によれば、昔墨江山という山の下に墨江殿という神殿のごとき斎宮があり、その南に釣殿があって、その辻の集落であったことから殿辻とよんだという。

殿村
とのむら

[現在地名]南箕輪村南殿みなみどの北殿きたどの

くぼ村の南、東は天竜川、西は大泉おおいずみ村、南は大泉川を境に田畑たばた村に接する。天竜川の沖積地より一段上の段丘に伊那往還に沿ってつくられた街村。村名の初見は大永四年(一五二四)の諏訪社上社の磯並造宮料請取日記(御造宮日記写)で、「殿村之分 正物七斗、かす籾七升」とある。中世、諏訪社上社に関係が深かった。

殿村
とのむら

[現在地名]武儀町下之保しものほ 殿村

南流する津保つぼ川西岸に位置し、対岸は上野うえの村。北西に西洞にしぼら谷が延びる。戸野とも記す。文禄三年(一五九四)九月五日の下之保村山年貢折紙(森田文書)に「との村」とみえる。元禄郷帳に下ノ保殿村と記され、高一五六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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