飯山市(読み)イイヤマシ

デジタル大辞泉 「飯山市」の意味・読み・例文・類語

いいやま‐し〔いひやま‐〕【飯山市】

飯山

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日本歴史地名大系 「飯山市」の解説

飯山市
いいやまし

面積:二〇一・五七平方キロ

飯山盆地の大部分と関田せきだ山脈東麓一帯を含み、西は新潟県に接する。盆地の中央を北流する千曲川の両岸を市域とし、中心市街地は西岸に展開する。西岸平地は中央の長峰ながみね丘陵(四一六メートル)によって東の水沢平みずさわだいら(通称常盤田圃ときわたんぼと西の外様平とざまだいらに二分される。

飯山の名は享禄三年(一五三〇)三月の諏訪社下社の秋宮二之御柱造宮(料)之次第(下諏訪秋宮造宮帳)に「合拾壱貫四百文 飯山之内へちい」とあるのを初見とする。

〔原始〕

縄文時代の遺跡は西部山麓及び長峰丘陵、千曲川岸の大倉崎おおくらざきなどに分布する。弥生時代の遺跡もほぼ同地帯に分布し、特に静間の田草しずまのたくさ川尻・きよ川尻に土師器が多い。市北部では弥生遺跡の存在は未だ確認されていない。長峰丘陵の大塚おおつか照丘てるおかに古墳群、有尾ありおに帆立貝式の前方後円墳と円墳、静間の宝伝寺ほうでんじに円墳がある。

〔古代〕

小県ちいさがた郡で東山道から分岐し千曲川右岸を北進した古道が田上たがみ(現中野市)北蓮きたはちす間で千曲川を渡り、蓮村沓掛くつかけを経て斑尾まだらお山中腹の「延喜式」兵部省の原初の沼辺ぬのへ駅とされるぬま(現新潟県中頸城郡妙高村)にて千曲川左岸から通じていた原初の東山道支道に結ばれている。この道から更に分岐、市内を北進し西大滝にしおおたきを経て深坂みさか峠を越え、北陸道三島みしま(現柏崎市)へ至る古道が通じている。東山道・北陸道間を結ぶ道筋にあたるため、古代の飯山地方は信濃への一つの入口として北陸道筋の影響を多く受けたと推定される。

〔中世〕

「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に、源頼朝が朝廷の要請により年貢未済の庄々の地頭らに催促していることがみえ、そのうちの左馬寮領に記載された「常盤牧」は、現在の飯山市市街地より北の水沢平・外様平及び関田山脈東麓一帯の地と想定される(→常岩牧。牧は南条みなみじよう中条ちゆうじよう北条きたじように分れ、それぞれ江戸時代の村名となり今に残っている。また、現市街地南部の奈良沢ならざわ上倉かみくら以南及び太田おおた庄に属した上今井かみいまいを除く現下水内しもみのち豊田とよた村一帯は、若月新わかつきしん庄の範囲であることが市河文書で知られる。

正慶元年(一三三二)鎌倉幕府は常岩弥六宗家をして市河氏の相続争いにつき仲介の労を命じているので、常岩氏が当地にかなりの勢力を有していたものと思われ、次いで建武二年(一三三五)三月には常岩宗家が北条時行の挙兵(中先代の乱)に応じて蜂起した。市河助房等着到状(市河文書)に「同八日於常岩(水内郡)北条致軍忠、令破却城畢」とあり、信濃守護小笠原貞宗の催促に基づき市河助房らが朝敵退治として常岩氏らを討伐した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「飯山市」の意味・わかりやすい解説

飯山〔市〕
いいやま

長野県北東部,飯山盆地の大部分を占める市。 1954年飯山町と秋津,柳原,外様,常盤,木島,瑞穂の6村が合体して市制。 56年太田村と岡山村を編入。中心市街地飯山は千曲川に沿い,上杉謙信が築いた飯山城を中心に,享保2 (1717) 年以後は本多氏2万石の城下町として発展した。現在でも鉄砲町,神明町などの町名に城下町の面影を残す。和紙 (内山紙) ,仏具を特産するほかスキー用具製造が発達。農村部では米作のほか野菜生産などが行われる。周辺部には黒岩山 (ギフチョウ,ヒメギフチョウ混生地として天然記念物指定) ,斑尾 (まだらお) 高原などがあり,スキー場が多い。白山神社,若宮神社 (ともに本殿は重要文化財) が知られる。 JR飯山線,長野電鉄,国道 117号線 (谷街道) などが通る。面積 202.43km2(境界未定)。人口 1万9539(2020)。

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