豊浦郡(読み)とようらぐん

日本歴史地名大系 「豊浦郡」の解説

豊浦郡
とようらぐん

面積:四九七・〇二平方キロ
豊浦とようら町・菊川きくがわ町・豊田とよた町・豊北ほうほく

山口県の西端を占め、北東は大津おおつ郡・長門市、東は美祢みね市、南は下関市に接し、西はひびき灘に臨む。下関市が分離する以前の旧豊浦郡域は関門海峡を挟んで九州に対する本州最西端の地でもあった。

郡内の地形は東から続く中国山地の西末端が延びて、その分派支脈が四方に屹立する。(七一三・三メートル)を最高峰に、西に狗留孫くるそん(六一六・三メートル)、南におにじよう(六一九・六メートル)、北東にどうヶ岳(五八八・四メートル)一位いちいヶ岳(六七一・六メートル)天井てんじようヶ岳(六九一・一メートル)白滝しらたき(六六八メートル)などの高峰がそれで、平均二〇〇メートル余の丘陵をつくる。郡内の主要河川には北流して油谷ゆや湾に入る粟野あわの川と、豊浦山地東側を南流して小月おづき湾に入る木屋こや川がある。木屋川の中流には菊川平野(小日本平野)、上流には西市にしいち(豊田町)を中心とした豊田盆地があって、比較的広い田園地帯を形成している。木屋川以西、低山性の豊浦山地に挟まれた田耕たすき滝部たきべ(豊北町)殿居とのい八道やじ(豊田町)などの小盆地でも、水田がよく開け農村地帯をなすが、山地の西側は直ちに響灘に傾くので、海岸にはほとんど平地をみない。しかし海岸線一帯は景勝が連なり、西長門海岸県立自然公園を構成し、漁場に恵まれる。

郡名の初見は、天平九年(七三七)の長門国正税帳(正倉院文書)であるが、「豊浦」の名は「日本書紀」仲哀天皇二年七月条に「豊浦津」、同九月条に「穴門豊浦宮」などとあって、初めは関門海峡付近をさす地名であったものが、のち郡名に広がったものである。訓は「和名抄」刊本に「止与良」とあり、「トヨラ」と読んだ。しかし近代に入り「トヨウラ」と読むように変化している。

〔原始〕

豊浦町田島たしま磯上いそがみ両遺跡からは旧石器が発見され、付近にも同様の遺跡が散布していることが知られている。縄文時代の遺跡も海岸部の豊浦町川棚かわたな厚島あつしま・同室津下むろつしも松原まつばらや下関市の安岡やすおかひこ島・王司おうじ長府ちようふなどの地区に分布し、この地域に早くから人が住したことが知られるが、山間部からは発見されていない。

弥生時代になると、九州や朝鮮半島に近いこの地には水田耕作が進んだらしく、前期の農耕集落が響灘の沿岸や木屋川流域などに広く分布する。豊北町つの島の沖田おきた遺跡、菊川町田部の岸本たべのきしもと遺跡、下関市域では綾羅木郷あやらぎごう台地遺跡・吉母浜よしもはま遺跡などである。弥生時代の村落や宅地のうち、とくに注意をひくものに豊田町の七社ななやしろ、豊浦町の田島ヶ丘などで見付かっている囲郭施設の遺構がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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