松岡村(読み)まつおかむら

日本歴史地名大系 「松岡村」の解説

松岡村
まつおかむら

[現在地名]湯沢市松岡

西馬音内にしもない川支流の作内さくない川のつくる沢口にある。北は床舞とこまい村・赤袴あかはかま村(現雄勝おがち郡羽後町)、東は山田やまだ村、南は石塚いしづか村に接する。北西のはく山山麓にある松岡経塚まつおかきようづかからは寿永三年(一一八四)、建久七年(一一九六)の紀年銘を有する経筒が出土している。

天正一八年(一五九〇)頃と思われる「御年貢取り立て等その日記共の写」(色部文書)に「最上へ渡分」として松岡の名がみえ、村は最上氏の支配下に入った。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には七二〇石と記される。

宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)では、高は本田八二二石三斗三升六合、新田三三二石一斗四升七合、計一千一五四石四斗八升三合(当高一千一一九石六斗五升一合)

松岡村
まつおかむら

[現在地名]新発田市松岡

法正橋ほうじようばし村の南にあり、東南方真木まぎ山の谷に発する松岡川が村内を流れる。永正四年(一五〇七)一二月一三日付の上杉定実知行宛行状(大見安田氏文書)に「豊田庄内松岡村」とみえ、勲功の賞として安田氏に宛行われている。天正二年(一五七四)の安田氏給分帳(北方文化博物館蔵)によると、家臣数人の給分が松岡村にあり、神田与五右衛門尉は三一貫六一五文のうち「五貫文松岡村にて切符」、二貫四三五文の神田平右兵衛は「此内いやしき弐百地弐間、しり地共ニ、松岡ニ有」と記され、この他にも居屋敷とも松岡にある者がみえる。

松岡村
まつおかむら

[現在地名]日高町松岡

円山まるやま川の左岸、伊福いふく村の北に位置する。永正一六年(一五一九)三月九日、田辺大和守が「気多郡之内トイ松岡」にある田地一反分(米六斗定)を、妙見大菩薩を祀る日光につこう(現八鹿町)に寄進している(「田辺大和守寄進状」日光院文書)。江戸時代の領主の変遷は天保七年(一八三六)までは宵田よいだ村に同じ。同年幕府領となり(「御用部屋日記」など)、幕末に至る。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高二三四石余。

松岡村
まつおかむら

[現在地名]館山市竜岡りゆうおか

中里なかざと村の東に位置し、ともえ川右岸の河岸段丘に展開する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高一一八石余(うち田六二石余)、同一五年の里見家分限帳によると廿人衆の黒河千勝の給知。正保郷帳では高一三八石余(うち田七三石余)で、旗本高木領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)では幕府領。宝暦一四年(一七六四)には上野前橋藩領、天明二年(一七八二)館山藩領となる(島田家文書)房陽郡郷考でも同藩領で、家数二三、旧高旧領取調帳でも同藩領であった。宝暦一四年犬石いぬいし村などと八ヵ村で、不作不漁のため前橋藩役所に夫食拝借を願出ている。また天明二年には館山藩領になったのにともない、犬石村など四ヵ村とともに高掛三役の免除を願出ている(島田家文書)

松岡村
まつおかむら

[現在地名]木造町 宮井みやい房崎ふささき

田圃を隔てて北西に木作きつくり村、東に広須ひろす(現柏村)、南に栄田ゆうた村、西に下相野しもあいの(ともに現森田村)

慶安年間(一六四八―五二)の開村という(木造町沿革史)。天和三年(一六八三)の広須御新田所図に村名がみえる。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、広須村の支村で、田畑屋敷合せて一四町六反八畝三歩、村高一一二・一〇五石であった。

松岡村
まつおかむら

[現在地名]小松市松岡町

三谷みつたに川に沿った山間部にあり、西はさわ村・波佐羅はさら村。かつては古屋ふるや(あるいは古屋敷)と称したといわれ、「蓮如上人塵拾鈔」によれば、本願寺蓮如の三男北隣坊蓮綱が加賀へ下って能美郡池城いけのじように初めて坊を開いたが、まもなく近隣の「ふるや」へ坊を移した。ここが松の木の多い所であったため、新たに松岡と名付けたところ、父蓮如が寺号を松岡しようこう寺としたといい、まもなく蓮綱は松岡寺を波佐谷はさだにへ移したという。地内に御坊ごぼうの小字があり、松岡寺跡・専光せんこう寺跡あるいは真行しんぎよう寺跡といわれる。また麦谷むぎだにに経塚があると伝える(小松市史)

松岡村
まつおかむら

[現在地名]浄法寺町漆沢うるしざわ

安比あつぴ川中流に位置し、東は御山おやま村、北は漆沢村。慶長六年(一六〇一)閏一一月一一日の南部利直知行宛行状(桂清水観音史蹟考)によれば、桂清水かつらしみず観音(天台寺)が当村内に一石三斗二升五合の寺領をもっている。正保国絵図に村名がみえ、高一八六石九斗余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高二五石余、七ヵ年平均の免は一ツ二分。江戸時代を通じて盛岡藩領であったが、元禄七年(一六九四)から宝永三年(一七〇六)まで、新田分一一八石余が五代藩主南部行信の弟旗本南部政信領となる(郷村古実見聞記)。元禄十郡郷帳による〆高は田方二七四石余・畑方一一八石余とあるが、新田高が多く、また当村へ漆沢村が入るとある。

松岡村
まつおかむら

[現在地名]富士市松岡

富士川の東岸に位置し、東は水戸島みとじま村、南は森島もりじま村。東海道が通り、富士川対岸の岩淵いわぶち(現富士川町)への渡船場があった(歴史の道―東海道)松岡加島まつおかかじま新田・加島松岡村ともいう。加島新田村は寛永改高附帳では高一千八七六石余の「籠下村新々田」とみえるが、当村はその中心的村落として籠下村とよばれたという。延宝五年(一六七七)松岡村と改称(駿河記)。同七年の加島領郷帳(須津文書)では高一千一一四石余、反別一四二町七反余、年貢米三一三石余。元禄郷帳では加島松岡村とみえ、高一千一八七石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。

松岡村
まつおかむら

[現在地名]大分市松岡 上松岡かみまつおか下松岡しもまつおかなど

大野川下流の左岸に位置し、北は真萱まかや村と海部郡毛井けい村、東対岸は宮河内みやがわうち村。領主の変遷は今三川いまみつがわ村に同じ。庄屋一人・組頭五人が村政にあたることになっており、庄屋は安田やすだ村の庄屋も兼任していた(「高松御預所聞書」島原松平文庫)。正保郷帳に村名がみえ、田高二九一石余・畑高四七九石余、戸次へつぎ庄、茅山ありと注記される。

松岡村
まつおかむら

[現在地名]津奈木町岩城いわき

北流する染竹そめたけ(津奈木川支流)の流域にあり、北西は上原うえのはら村、東は山口やまぐち村に接する。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に「津奈木村内松岡村」とあり、四人の地侍がみえる。同一八年の津奈木村小村切高物成人畜御帳(同文書)には高七二石九斗余、田数三町八反一畝余・畠数一町七反九畝余、真綿一〇匁五分・茶一五〇匁、女一三・男二〇、うち地侍三・山ノ口村横目一、馬四が記される。

松岡村
まつおかむら

[現在地名]小国町松岡

芹出せりで村の北、よこ川右岸に位置する。西は町原まちばら村。寛永―慶安年間(一六二四―五二)小国代官笹生久兵衛が町原村地内の荒地を開墾したことによって成立した新田村で(寛文元年「慶安三年・明暦三年検地高物成夫銭等百姓面付帳」舟山文書)、同村の枝村として扱われることもあった(元禄一五年「変地帳」上杉家文書など)。寛文五年(一六六五)の小国目安一件では、明暦新帳作成以前に開発されたにもかかわらず、当村など六ヵ村の新田村に軒役がかけられず、その分、他村の負担が増大したと訴えている(「小国百姓目安」渡部文書)

松岡村
まつおかむら

[現在地名]下妻市二本紀にほんぎ

行田なめだ村の東隣に位置する。松岡の名は「吉記」承安四年(一一七四)三月一四日条に「下総国松岡庄訴申常陸国下津真庄下司広幹乱行事」とあり、松岡庄は当時蓮華王院領であったが、「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条の諸国乃貢未済庄々注文には「豊田庄按察使家領号松岡庄」とあり、使家(平頼盛か)領に変わっている。

松岡村
まつおかむら

[現在地名]朝日村松岡

大須戸おおすど川の支流塩野町しおのまち川右岸にあり、南は早稲田わせだ村に接する。明暦元年(一六五五)の検地帳(松岡区有文書)によれば総計は田二町二反二畝余・畑一町四反五畝余・屋敷一反八畝余で、名請人は三名。その後明和二年(一七六五)、翌三年には計一町二畝余の新田畑が打出された(同二年・三年各「新田検地帳」朝日村史)

松岡村
まつおかむら

[現在地名]松本市岡田 松岡

岡田町村の南で桐分きりぶんに接する。微地形的にみて岡田神社前の凹地帯の続きで、早くから水田が発達した所と思われる。東方に小丘陵状の個所が南北に長く続き、ここに積石の古墳群がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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