デジタル大辞泉
「新」の意味・読み・例文・類語
あら【新】
[接頭]名詞に付いて、新しい、という意を表す。「新所帯」「新盆」
にい〔にひ〕【新】
[語素]名詞の上に付いて、初めての、新鮮な、初々しい、などの意を表す。「―妻」「―盆」
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あたらし・い【新】
〘形口〙 あたら
し 〘形シク〙 できたてであるさま、今までになかったさま、今までとは違ったさまであるのをいう。あらたし。あらた。⇔
古い。
① 初めてである。ある状態になったばかりである。また以前のものに代わったばかりである。
※
古今(905‐914)
離別・三七五・詞書「ある人、つかさを賜はりてあたらしき妻
(め)につきて、年へて住みける人を捨てて」
②
物事ができたばかり、また、使い始めたばかりである。使い古されていない。
※枕(10C終)四二「削り氷(ひ)にあまづら入れて、あたらしき金鋺(かなまり)に入れたる」
※
源氏(1001‐14頃)
夕顔「この家のかたはらに、
檜垣(ひがき)といふものあたらしうして」
③ (魚、肉、野菜、また、空気などが)新鮮である。生き生きとしている。濁っていない。
※天理本狂言・
鱸庖丁(室町末‐近世初)「やいやいそのすずきの中にも大きいあたらしをあらふて座敷へだせ」
④ 今までにないような、変わったおもしろい趣向である。奇抜である。
※評判記・
難波の㒵は伊勢の白粉(1683頃)三「こちの新
(アタラ)しひ蛍を飛
(とば)してきかせう」
⑤ 今までの物事とは違っている。今までにはなかったものである。現代的、進歩的などの意を含めても用いる。
※天草本伊曾保(1593)大海と野人の事「ワガワザバカリ クルシュウデ ヒトワ シンラウノ ナイカト ウラヤミ、ataraxij(アタラシイ) ミチヲ ショウト スルニヨッテ」
※
雪中梅(1886)〈
末広鉄腸〉下「新しき教育を受けた人を感心さすことは出来まい」
[語誌]
上代では「新」の意の
形容詞は「あらたし」で、「あたらし」は「惜しい」の意であったが、中古初期頃から、「新」の意も「あたらし」の語形となった。ただ、「惜」の意の「あたらし」とは
アクセントに違いがあり、別語と考えられる。
あたらし‐が・る
〘自ラ五(四)〙
あたらし‐さ
〘名〙
あたらし‐み
〘名〙
しん【新】
[1] 〘名〙
① 今までの古いものがあらたまること。また、そのもの。新しいこと。⇔
旧。
※筆まかせ(1884‐92)〈
正岡子規〉一「かの浮雲なる者世に出でて言文一致を世人に示せしより、新を好み奇を好むの世の中」
② 官位などに新しくつくこと。新任。また、その人。
接頭語のように用いることが多い。
※栄花(1028‐92頃)鳥辺野「この程は新中納言・いづみ式部などにおぼしつきて」
③ できて間もないこと。作られてから長くたっていないこと。また、そのもの。とくに、新米・新茶などをいう。
※滑稽本・東海道中膝栗毛(1802‐09)初編「此中の新酒(シン)は」 〔礼記‐月令〕
※
洒落本・遊子方言(1770)更の体「これ新
(シン)や、どこへいってゐる。これ新、新」
※
浄瑠璃・女殺油地獄(1721)下「爰にはうりためかけのよりかねも有はづ。新でたった弐百匁斗」
※牛部屋の臭ひ(1916)〈
正宗白鳥〉一「隣近所の村々が次第に新の年月を迎へるやうにならうとも」
[2] 紀元八年から二三年まで続いた中国の王朝名。前漢を簒奪(さんだつ)した王莽が建てた王朝。都は長安。急激な諸改革による、豪族、人民の不満と、対外政策の失敗から国勢を損ない、わずか一五年で、劉秀(後漢の光武帝)によって滅ぼされた。
あら‐た【新】
〘形動〙
① 今までと違って新しいさま。今までにないさま。
※万葉(8C後)一〇・一八八四「冬過ぎて春の来たれば年月は新(あらた)なれども人は古りゆく」
※広本拾玉集(1346)五「敷島ややまとことわざ君が世にあらたになれる恵みをぞ知る」
② (「あらたに」の形で) 改めて行なうさま。物事を新しくするさま。
※謡曲・金札(1384頃)「四海を治めし、おん姿、あらたに見よや、君守る、八百万代の、しるしなれや」
③
見た目にはっきりとわかるさま。鮮やかで、ありありと見えるさま。
※類従本千里集(894)「雲もなく谷は山さへはれ行けば水の色こそあらた成けれ」
④ (「灼」の字を当てることもある) 効果、結果などが著しいさま。特に神仏の霊験や、善悪の報いが、たちどころにはっきり現われるさま。あらたか。いやちこ。
※源氏(1001‐14頃)玉鬘「初瀬なむ、日の本のうちにはあらたなるしるしあらはし給ふ」
※今昔(1120頃か)二四「昔は此様(かくやう)に下臈医師共の中にも、新たに此(かく)病を治し愈(いや)す者共なむ有ける」
[語誌]「
万葉集」等の例で、「新」の意の語根アラタの存在は想定出来るが、「新」字をアラタと訓む確例は「史記孝文本紀延久点」が古く、和文脈では見られない。和文脈におけるアラタは、④の意であるが、これは近世後期にはアラタカとなる。
あら【新】
[1] 〘語素〙 名詞の上について、新しいものであることを表わす。「あら身」「あら物」「あら手」など。→「
あら(荒・粗)」の語誌。
※俳諧・江鮭子(1690)「時々に花も得咲ぬ新畠(アラはたけ)〈之道〉 昼茶わかして雲雀かたむく〈珍碩〉」
[2] 〘名〙
① 新しいもの。新品。
※雑俳・続折句袋(1780)「新をしめるも神は手伝ふ」
※門(1910)〈
夏目漱石〉九「たかだか新
(アラ)の鉄瓶位しか、彼
(あ)んな所ぢゃ買へたもんぢゃありません」
② 特に、処女または童貞をいう。
※雑俳・末摘花(1776‐1801)三「あらは来れども摺(すり)こ木にあらはまれ」
あらたし【新】
※
催馬楽(7C後‐8C)新しき年「安良多之支
(アラタシキ)年の始めに」 〔観智院本名義抄(1241)〕
にい にひ【新】
〘語素〙 名詞の上に付いて、はじめての、新鮮な、ういういしいなどの意を添える。「にい嘗(なめ)」「にい草」「にい枕(まくら)」「にい司(つかさ)」「にい妻」「にい盆」など。
にいし にひし【新】
〘形シク〙 あたらしい。
※書紀(720)神代下(鴨脚本訓)「故別に新(ニヒシキ)鈎(ち)を作りて兄に与ふ」
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
新 (しん)
Xīn
中国,王莽(おうもう)が前漢王朝を奪してたてた王朝。8-23年。外戚で大司馬の王莽は紀元5年(元始5)に平帝を毒殺して仮皇帝を名のり,8年に真天子の位につき,国号を新と称して王朝を創始した。儒教の熱心な信奉者であった王莽は,即位すると儒教主義による中央集権的理想国家の建設を目ざして種々の改革に着手した。なかでも注目されるのは,土地制度の改革をふくむ社会政策である。
前漢の後半期に顕著となる大土地所有の進行は,大きな社会的・政治的問題となって解決を迫られていた。そこで王莽は王土思想にもとづいて天下の田を王田と称して売買を禁止するとともに,男子8人以下の家では1井(約4.1ha)を限度とし,それ以上の田地を所有するものは,超過分を親族や郷村のものに分け与えることを命じた。王田とか1井という用語からも明らかなように,これは周代に行われたと伝えられる井田制を理想として復活したものであった。しかし,歴史に逆行するこの制度はもともと実施不可能であったうえに,地主や豪族の猛烈な反対にあって,わずか3年で廃止されてしまった。また奴婢については,これを私属と称し,やはり売買を禁止することで解決しようとした。しかし奴婢は無制限な土地の兼併によってもたらされたものであり,土地問題を解決しないかぎり法令で禁止しようとしても抑えられるものではなかった。これらの王莽の改革は,当時の客観的な状況を見定めることなく,儒家によって理想化された古典の制度を無批判に適用した尚古的な改革であったために,効果をあげるどころか問題をいっそう深刻にした。そのほか経典に準拠した大幅な官制の改革や,官名や地名などの名称の変更は,行政の円滑さを欠いて官,民ともに混乱におとしいれた。また武帝以来の通貨として定着していた五銖銭を廃止して金,銀,銅,亀,貝の28種類もの貨幣を発行したり,政府が市場の取引に介入して商品の流通をいちじるしく阻害するなど,経済面でも大混乱をひきおこした。加えて王莽は極端な中華思想により,漢に服属して王位を授けられた外国の君長をすべて侯に格下げし,王から侯の印綬(印とそのひも)に改めた。そのため宣帝のとき以来恭順の意を表し友好関係にあった匈奴をはじめ,周辺諸民族の怒りをかうことになった。
このように王莽の諸改革はことごとく失敗し,対内的には人心を失い,対外的にも周辺諸国の離反を招くなど内外の情勢が悪化する中で,18年(天鳳5)ついに山東で赤眉の農民反乱が起こった。これが導火線となって農民や豪族が各地で蜂起したが,南陽の豪族劉秀(後漢の光武帝)は23年(地皇4)に王莽の主力軍を昆陽(河南省)に破って大勢を決し,その年に王莽は殺されて新は建国いらいわずか15年で滅亡した。しかし注意すべきは,王莽のとった儒教主義の政治は次の後漢時代に入ると王朝の基本方針として継承され,儒教は中国社会の中に深く根をおろすことになった点である。この意味で,新は短命に終わったとはいえ,その歴史的意義は大きい。
執筆者:永田 英正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
新【しん】
中国の王朝。後8年王莽(おうもう)が前漢を倒して建国。しかし内外の施策に失敗。たちまち反乱が起こって,23年王莽の敗死により滅亡,25年漢室が後漢(漢)として再興した。
→関連項目貨泉|赤眉の乱
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新
しん
群馬県中南部,高崎市東部の飛び地で,旧町域。利根川の支流烏川と神流川の合流地点にある。東で埼玉県に接する。 1889年町制。 2006年高崎市に編入。中山道の宿場町として発達。 1877年に官営の絹糸紡績所が設立されて以来,商工業の町として発展。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
新
しん
8〜23
王莽 (おうもう) が前漢を倒して建てた国
新の名は,王莽が新都侯であったのによる。復古政策で混乱を招き,赤眉 (せきび) の乱で国は分裂し,王莽は殺害された。劉秀 (りゆうしゆう) (後漢 (ごかん) 光武帝)がこの混乱を収拾し,漢を再建した。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の新の言及
【王莽】より
…中国,[新]王朝の創始者。前漢元帝の王皇后の庶母弟王曼の子。…
※「新」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」