日本大百科全書(ニッポニカ) 「漢」の意味・わかりやすい解説
漢
かん
秦(しん)に次いで中国を統一し支配した王朝(前202~後220)。王莽(おうもう)の新(後9~23)による中断を挟んで、それ以前を前漢(前202~後8)、以後を後漢(ごかん)(25~220)といい、都が前漢は西の長安、後漢は東の洛陽(らくよう)に置かれたところから、西漢、東漢ともいう。
[五井直弘]
概観
前漢
秦は始皇帝が死に(前210)、二世皇帝が後を継ぐと、陳勝(ちんしょう)・呉広(ごこう)の乱をはじめ各地に反乱が起きた。漢の創始者高祖劉邦(りゅうほう)も紀元前209年に手兵2000~3000を率いて沛(はい)(江蘇(こうそ)省沛県)で挙兵した。農民の出身で下級の警吏にすぎなかった劉邦の勢力は初めは弱体であったが、沛の有力者などの支持を得てしだいに強大となり、前202年には楚(そ)の将の末裔(まつえい)項羽(こうう)を垓下(がいか)の戦い(安徽(あんき)省霊璧県東南)に破って皇帝の位につき、翌年都を長安に定めた。即位後の論功行賞で、高祖は一族功臣に封国を与えて諸侯王とし、列侯を侯国に封じて、秦以来の郡県制と併用した。これを一般に郡国制とよぶ。しかし高祖はその在世中に、韓信(かんしん)をはじめ功臣の王を次々と滅ぼした。2代目の恵帝が若死にすると、高祖の糟糠(そうこう)の妻呂太后(りょたいこう)が政務をとり、呂氏一族が実権を握ったが、創業の功臣周勃(しゅうぼつ)らの力で呂氏を倒し、5代文帝の時代になって、政権の基礎がほぼ固まった。6代景帝が諸侯王国の領地削減策を強化すると、呉楚(ごそ)七国が乱を起こしたが(前154)、乱の鎮定後は王国の統治権を奪い、王国とは名のみにすぎなくなった。また高祖は韓信を追って大同(山西省)付近に至り、匈奴(きょうど)に囲まれた。以後、漢は匈奴に対して宥和(ゆうわ)策をとったが、7代武帝の時代になって積極策に転じ、数回の匈奴遠征を行ったほか、東の朝鮮、南のベトナムにも進出した。武帝はまた匈奴を挟み撃ちにするため、張騫(ちょうけん)を西方の大月氏(だいげっし)に遣わした。目的は達せられなかったが、その結果、西方との交通路いわゆる絹の道(シルク・ロード)が開かれた。けれども、たび重なる遠征や土木工事のために財政が逼迫(ひっぱく)すると、増税、貨幣の改鋳のほか、塩・鉄・酒の専売、均輸法、平準法などの施策を行った。
この武帝から9代宣帝に至る間が前漢の最盛期で、それを象徴するのは法律刑罰を過酷に執行した法家的官僚酷吏の出現である。彼らの弾圧の対象はもっぱら豪族に向けられたが、反面この時期には豪族の地方・中央政界への進出も多くなった。一方、中央政界においては、丞相(じょうしょう)などの政府機関(外朝)に対して、外戚、宦官(かんがん)など皇帝の側近者(内朝)が実権を握るようになった。10代元帝以降はとくにこの傾向が強く、紀元9年には外戚出身の王莽が劉氏にかわって帝位につき、国号を新と改めた。
王莽は『周礼(しゅらい)』などにみえる周の諸制度を理想とし、現実遊離の改革を行うことが多かったから、たちまち混乱を招き、赤眉(せきび)などの農民反乱や諸豪族が蜂起(ほうき)して、わずか15年で滅んだ。
[五井直弘]
後漢
この混乱のなかから頭角を現したのが、6代景帝の子孫で、南陽(河南省南西部)の諸豪族を背景にしていた光武帝劉秀(りゅうしゅう)である。光武帝は25年帝位につき、洛陽に都を定めるとともに、劉氏一族の対立者、隗囂(かいごう)、公孫述(こうそんじゅつ)などの諸勢力を倒し、王莽の改制を旧に復して政権の基礎を固めた。光武帝以後、2代明帝、3代章帝の時代約50年間が後漢の最盛期で、洛陽の太学は学生3万人を数え、地方の私学にも弟子2000~3000人をもつものがあった。対外的にも積極的で、竇憲(とうけん)は北匈奴を討ってこれを破り、西域都護班超(はんちょう)はパミール以東の50余国を服属させ、97年には甘英(かんえい)を西方の大秦国に遣わした。しかし、和帝以後は幼弱な皇帝が多く、外戚、宦官がふたたび権力を握るようになった。これに対して、礼教を重んじ、気節の士とよばれた中央・地方の官僚は、外戚、ついで宦官を論難したから、宦官は二度にわたって気節の士を弾圧した(党錮(とうこ)の禁)。中央政治がこのような混乱にあるとき、西北の羌(きょう)族が反乱を起こし、さらに184年には黄巾(こうきん)の大農民反乱が、華北、華中に蜂起した。この乱の鎮圧の過程で、各地に強大な私兵をもつ軍事勢力が現れた。宦官は華北の袁紹(えんしょう)によって討滅されたが、董卓(とうたく)、孫策(そんさく)、曹操(そうそう)らの群雄が割拠して、後漢王朝は完全に分裂した。やがて献帝を擁した曹操が強大となってほぼ華北を統一し、その子の曹丕(そうひ)が献帝に迫って帝位を譲らせ、魏(ぎ)王朝を創建したために後漢は完全に滅び、三国分裂の時代を迎えた。
[五井直弘]
政治制度
漢の行政制度はほぼ秦制を踏襲した。中央官制は、皇帝を補佐して政務を総覧し百官を統率する丞相が中心で、ときに左右2丞相を置くこともあり、12代哀帝以後は大司徒(だいしと)と改められた。軍事をつかさどるのが太尉で、常置の官ではなく、武帝の時代にはかわって大司馬(だいしば)を置いた。監察官である御史を統率するのが御史大夫(ぎょしたいふ)で、成帝以後大司空(だいしくう)と改められた。また大司馬、大司空は副丞相として政務を担当した。以上は三公ともよばれたが、昭帝以後、外戚が大将軍として実権を握り、また後漢時代になると皇帝の側近にすぎなかった尚書(しょうしょ)が丞相の職務を行った。三公の下に政務を分担する九寺があり、その長官は九卿(きゅうけい)とよばれた。太常(たいじょう)(礼儀祭祀)、光禄勲(こうろくくん)(宮廷衛護)、衛尉(えいい)(宮門守護)、太僕(たいぼく)(帝室の車馬、牧畜の管理)、廷尉(ていい)(裁判、司法)、大鴻臚(だいこうろ)(諸侯、異民族の来朝)、大司農(だいしのう)(国家財政)、宗正(そうせい)(皇族関係)、少府(しょうふ)(帝室財政)の九卿で、執金吾(しっきんご)(京師(けいし)の治安)、将作大匠(しょうさくだいしょう)(土木工事)、大長秋(だいちょうしゅう)(皇后職、東宮職)をあわせて十二卿ともいわれた。
地方行政制度は郡と県が基本で、いくつかの県を郡が統轄した。郡の長官は守と尉で、景帝以後太守、都尉と改められ、民政と軍事を分担した。後漢では郡兵の撤廃に伴って都尉が廃止された。太守の下に副官として丞、行政実務を担当する功曹(こうそう)のほか、督郵(とくゆう)、掾史(えんし)などの属官があり、当該郡内から太守が任免した。県の長官は令または長で、太守、都尉とともに中央の任免であった。県令の下に丞、尉、斗食(としょく)、佐史(さし)などの属官があり、県の下に郷があって、有秩(ゆうちつ)、嗇夫(しょくふ)、游徼(ゆうきょう)などが戸口調査、徴税、徭役(ようえき)などを担当し、ほかに10里ごとに亭があり、亭長が警察にあたった。人民の居住区は里とよばれ、郡、県、郷は1里または数里からなっていて、郡や県はおおむね周囲を城郭で囲ってあった。里には里父老、県・郷には県・郷三老がいて民の教化にあたった。また前106年には全国を13の州に分け、刺史(しし)が州内を巡察して太守以下の監察にあたるようになったが、後漢では州が郡の上の行政単位となった。以上の官吏は丞相以下佐史に至るまで、すべて俸禄(銭と穀物で支給)によってランクがつけられており、功労、年次によって昇進した。ただ高官の子弟や、孝廉(こうれん)、賢良方正(けんりょうほうせい)などに推薦された者、高官に召された者などは下級の吏を飛び越して任用された。なお前5年のときの佐史以上の官吏は13万0285人に上った。
行政は律令(りつれい)とよばれる法に基づいて施行されるのがたてまえであったが、現今の法律とは異なって、民の遵守すべき法というよりは、官吏が民を支配するにあたっての規準ともいうべきものであった。そのうち租税は、収穫量の30分の1を収納する田租、15~56歳の男女に一算(120銭)を課する算賦(さんふ)、3~14歳の男女に23銭を課する口銭、そのほか財産税があり、一般の民は財産評価額1万銭につき一算、武帝の時代から商人は2000銭、手工業者は4000銭につき一算となった。力役には徭役と兵役とがあった。徭役は15~56歳の男子に、毎年1か月、居住する郡県の労役にあたらせる更卒(こうそつ)、これは銭による代納が許され、300銭を代納することを更賦(こうふ)といった。兵役は23~56歳の男子で強健な者を正卒とし、兵役期間のうちに1年間は近衛兵(このえへい)または首都の警備兵として上番し、1年間は出身郡内の警備にあたらせた。辺境の警備にはその近くの正卒や募兵を用いた。武帝時代の大遠征などには募兵のほか、刑徒や異民族が用いられた。前漢時代には長安に常駐した近衛兵、首都警備兵は5万人に上ったが、後漢になると光武帝の改革によって常備兵力1万5000と減じ、郡兵も廃された。そのうえ、これらの兵士には、光武帝時代の功労者の子孫が代々選ばれたから、徴兵制は名目にすぎなくなり、曹操による兵戸制とあまり変わらなくなった。
[五井直弘]
社会経済
前漢末、平帝の時代には、郡・国の数103、県邑(けんゆう)1314、侯国241で、戸口は約1223万戸、5959万人であった。県以下の郷、あるいは郷よりもさらに小さい集落がどれほどあったかは不明である。降雨量が少なく、黄土の堆積(たいせき)が厚い華北の平原では、比較的水に恵まれた所に密集集落が営まれた。春秋戦国時代以降、鉄製農具が現れ、治水灌漑(かんがい)工事も行われて、農地の開拓が進んだが、その多くは戦国諸国の手になるものであったから、農民は国々の強い規制下に置かれていた。秦が列国を滅ぼすと、農民はその規制から解放されたが、秦・漢統一国家は郡県制の施行、爵位の賜与などによって、その農民を国家秩序のなかに組み入れ、収奪の対象にしようとした。一方、戦国諸国の富国強兵策は手工業や商業の繁栄をもたらしたが、それに伴って私営の手工業者、商人が出現した。彼らはまた土地の集積を図ったから、それは農民の土地喪失、小作人化、奴婢(ぬひ)化を招いた。漢はしばしば富者を長安付近に強制移住させて、彼らを直接の管理下に置き、また武帝時代には商人、手工業者に重税を課し、酷吏が過酷に弾圧を行った。けれども大土地所有の趨勢(すうせい)を阻止することはできず、後漢時代にはこの傾向がいっそう拡大し、なかには私兵をもつ者さえ現れた。彼らは一般に一族が集居したから、豪族とよばれている。豪族は「郷曲に武断する」といわれるように、近隣の数集落にもその勢力を及ぼす者があり、それを利用して郡県の長官の推挙を受け、官界にも進出した。
漢代の農業は、華北ではアワ、キビ、豆、大麦などが主要作物で、後漢時代には小麦もつくられるようになったが、粉食はまだ一般的ではなく、また江南の水稲耕作は技術水準が低かった。鉄製農具は用途別の多種類化が進み、代田法、区種法などの新しい技術も開発されて、牛耕も盛んになった。また中央・地方政府あるいは豪族による治水灌漑施設も築造され、土地生産力は飛躍的に向上した。けれども耕牛などの多くは官牛や豪族の所有であり、灌漑の利を得たのも豪族が多かったから、貧富の差はいっそう拡大し、農民の貧窮化が進んだ。彼らの間にはさまざまの迷信や民間信仰が広がって妖賊(ようぞく)とよばれる農民蜂起が頻発し、やがて黄巾の乱として爆発した。
手工業も戦国時代の繁栄の後を受けて、さらに発展した。漢は塩、鉄、織物などの主要な生産地に塩官、鉄官、服官を置いて、その生産あるいは販売を独占した。しかし塩の生産は民間業者にまかされていたように、手工業そのものを禁止したわけではなかったから、さまざまな民間の手工業が栄えた。青銅器、漆器、陶器、繊維、染物工業などで、それにつれて商業も発展した。商業のおもな対象は、皇帝ならびにその側近、諸侯王、列侯、中央・地方の高官、豪族などであったから、商工業はこれらの人々が居住する城郭都市を中心に繁栄し、なかでも長安、洛陽、邯鄲(かんたん)、臨淄(りんし)、宛(えん)などは人口数十万という大都会であった。長安などでは商人が店舗を構える市(いち)とよばれる商業区域が設けられており、市のなかには業種別の肆(し)(みせ)が軒を並べていた。各地の特産物などを交易する大商人も多く、西域との貿易に従事する商人も現れた。ブドウ、ザクロ、苜宿(もくしゅく)(クローバーの一種)などが西域からもたらされ、絹織物や鉄が西域を経由して、遠くローマにまで運ばれた。ギリシア語で中国のことをセレスとよぶのは、絹の国という意味である。また北辺に設けられた関市(かんし)を通じて、北方の遊牧民との間でも貿易が行われ、四川(しせん)省を経由する西南夷(い)との貿易、広州を拠点とする南海貿易も行われた。後漢後期の桓(かん)帝のとき(166)には、大秦王安敦(あんとん)(東ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスに比定される)の使者が、海上から中国を訪れている。
なお秦の始皇帝は円形方孔の半両銭を鋳て、貨幣を統一したが、漢では算賦などが銭納をたてまえとしたところから、銭の鋳造、流通が頻繁となった。なかでも武帝のとき(前119)に制定された五銖銭(ごしゅせん)(半両。五銖は重さの表示)は、王莽の時代などに一時中断はあったが、唐の開元通宝に至るまで貨幣の基本形式となった。
[五井直弘]
文化
前漢初期には黄老思想(道家(どうか))が尊ばれ、淮南(わいなん)王劉安は多くの学者を集めて、道家思想を中心に雑家の書『淮南子(えなんじ)』を編纂(へんさん)した。しかし文帝のころから実際政治の面では法家思想が尊重され、鼂錯(ちょうそ)などの有能な政治家が輩出した。一方、先秦時代の著作と伝えられる古典には、戦国時代から漢初にかけて整理、増補されたものが多い。なかでも儒学は、漢の初めに秦の始皇帝が行った焚書(ふんしょ)によって失われた経典の収集が行われた。そのうち経文を暗唱してきた学者によって当時通行の隷書で書き定められた経典を用いる派を今文(きんぶん)学派といった。これに対して、景帝のときに孔子の旧宅の壁の中から発見されたり、景帝の子の河間献王が集めたといわれる先秦時代の篆書(てんしょ)などで書かれた経典を用いる学派を古文学派といった。前者が名分を重んじたのに対し、後者は訓詁(くんこ)解釈を主とした。
武帝時代の今文学者董仲舒(とうちゅうじょ)は、陰陽五行思想を取り入れて、皇帝を政治、道徳、思想宗教上の中心に位置づけ、儒学の国教化と五経博士の設置を献策した。これ以後、儒教は皇帝支配、国家秩序の指導理念となり、官僚となるための必須(ひっす)要件となった。一方、古文学は前漢末の劉歆(りゅうきん)が推重したころから盛んになり、後漢時代には両派の論争が続いた。後漢時代にはまた古典の注釈を行う訓詁の学が発展し、許慎(きょしん)は漢字の字義、字形を説いた最古の字書『説文解字(せつもんかいじ)』を著し、古文学者鄭玄(じょうげん)は今文経をも取り入れて、漢代経学(けいがく)を集大成した。なお仏教が中国に伝えられた時期については諸説があるが、光武帝の子の楚王英はすでに仏寺を祀(まつ)っていたといわれている。
漢代の散文は、唐詩や元曲と並んで漢文と称せられる。司馬遷(しばせん)の『史記』や班固(はんこ)の『漢書』はその代表で、これはまた紀伝体による構成が以後の中国正史の模範となった。韻文には事実を細かに描写する辞賦(じふ)、『詩経』の四言をかえ、五言または七言からなる古詩、宮廷音楽のための楽府(がふ)などがある。科学の分野には先秦以来の諸説を集大成したものが多く、中国の天文学、暦法の基本型を決定した劉歆の三統暦、数学の『九章算術』、医学の『傷寒論』『黄帝内経(こうていだいけい)』などは、中国はもちろん、朝鮮、日本でも後世まで尊重された。
美術、工芸の分野では、絵画に彩色を伴う古墓の壁画や漆画があり、石闕(せっけつ)、祠堂(しどう)、石室墓などの石材の壁面に彫り付けられた画像石は、当時の思想、生活様式を知るうえでも貴重である。象眼(ぞうがん)、めっきなど工芸技術にも目覚ましい発達がみられ、多様な文様の銅鏡が流行した。馬王堆(まおうたい)漢墓にもみられる織物は種類も多く、刺しゅう、染色、文様も新鮮である。陶器では緑釉(りょくゆう)が盛行した。長安城内の未央(びおう)宮、長楽宮など大規模の宮殿が造営されたが、当時の宮殿建築様式は河北省満城、山東省沂南(きんなん)などの漢墓などから、また豪族らの家屋は画像石や明器(めいき)の陶楼などからうかがうことができる。さらに文字は篆書についで隷書が重んぜられ、後漢時代には楷(かい)・行・草の書法が成立した。当時の石刻碑文が現存する。紙は2世紀初めに蔡倫(さいりん)が発明したといわれるが、それ以前にもあったようで一般には絹布や木竹簡に、戦国のころに発明された筆と墨を用いて記載された。
[五井直弘]
『西嶋定生著『中国の歴史2 秦漢帝国』(1974・講談社)』