農民反乱(読み)のうみんはんらん

改訂新版 世界大百科事典 「農民反乱」の意味・わかりやすい解説

農民反乱 (のうみんはんらん)

歴史上,農民が既存の社会秩序や支配層による圧制に対抗して蜂起した事例は数多い。古代のそれは奴隷反乱の形をとることが多く(奴隷),近代資本主義社会のそれは,労働運動と並ぶ農民運動として別個に考察の対象となるので,ヨーロッパの場合は中世,近世の伝統的社会における農民蜂起を中心に取り上げる。マルク・ブロックは,〈資本主義的大企業にはストライキが付物であるように,領主制と農民蜂起は切っても切れない関係にある〉と述べているが,日本史の百姓一揆にも見られるとおり,農民蜂起は当時の社会の構造と深く結びついており,都市民衆の騒擾と並んで,この時代の民衆運動の代表的な形態であった。
百姓一揆

農民蜂起には,いくつかの類型が認められる。第1には,領主制と直接に対峙するものであり,ヒルトンはこれを〈地代をめぐる闘争〉と呼んだが,地代徴収を軸とする領主権に対し,年貢の減免,バナリテ(領主の製粉所やパン焼がまの使用強制権)の制限などを要求する反領主一揆である。このタイプは,中世の農民蜂起の基本型をなすものだが,ドイツ農民戦争(1524-25)の12ヵ条の要求や革命前夜フランス全土に広まった〈大恐怖〉の蜂起(1789)においても,領主制批判が前面に押し出されている。

 第2には,個別領主に対する要求の域を越え,国家の租税や軍隊の徴発などに反対する一揆であり,農民反乱の名で呼ばれるような大規模な蜂起には,この型のものが多い。ジャックリーの乱(1358)やワット・タイラーの乱(1381)も,その背景には領主と農民の基本的対抗関係があるものの,直接のきっかけとなったのは,百年戦争に対処するためのイギリス,フランス両王の租税増徴策であった。近世の絶対王政期には,この傾向はいっそう強まり,17世紀のフランスに頻発した民衆蜂起はその多くが反王税一揆であった。ここでは,収税吏や徴税請負人が攻撃対象にされると同時に,貴族や一部の都市住民に免税特権を付与する身分制社会の構造そのものが批判の対象となるだろう。

 第3には,凶作,物価騰貴が引き起こす食糧蜂起であり,これはとくに都市騒擾に顕著に見られるが,農村においても,階層分化の進展に伴い,貧農層は食糧購入者として食物価格騰貴の直接の打撃を受けるようになり,とくに18世紀以降,イギリスでもフランスでも,農村に食糧蜂起が頻発する。ここでは,穀物商人や国王役人が買占めや穀価操作の疑いで攻撃の対象とされるばかりでなく,領主や地主,村の豪農・豪商も,食糧隠匿の嫌疑で攻撃されている。1775年のパリ地域の〈小麦粉戦争〉は,その代表例である。

 第4には,近代への移行期に特徴的な,反資本主義,反中央,反都市の蜂起であり,農業の資本主義化に対し共同体的権利を守り,中央権力の統制に対し地方の自由を主張し,都市の支配に対し伝統的農村社会の優位を対置する。フランス革命期のバンデの反乱(1793-95)にはこのような特徴が強く認められる。

 第5には,とくにアジア諸国などに顕著に見られるもので,民族主義の傾向を強く示す農民反乱である。インド大反乱(セポイの乱,1857-59)や中国の太平天国(1851-64)などは,その典型といえよう。

 これらの諸類型を通じて,農民の蜂起は,つねに生活に密着した強い共同体的結束によって支えられている点に特徴があり,その意味でも,日常的に形成される〈集合心性〉の果たす役割がきわめて大きい。蜂起の理念は,古きよき法の回復,古きよき時代への回帰を願うものが多く,一見保守的に見えるが,それこそが農民に現状否認の強力なエネルギーを付与したのであった。農民蜂起はまた,しばしば宗教的色彩を伴っており,ときに千年王国主義の傾向を見せるが,これまた蜂起に,単なる飢餓暴動の域を越えて,未来への強い確信と,それに基づく大胆な行動力をもたらすものであった(千年王国)。

 なお,17世紀以降ロシアで起こった大規模な反乱については,〈ボロトニコフの乱〉〈ラージンの乱〉〈プガチョフの乱〉および〈フメリニツキー〉の項を参照されたい。
執筆者:

中国史における農民反乱は,前3世紀から20世紀初頭にかけて,王朝名でいえば,最初の統一帝国である秦王朝の出現以後,最後の清帝国の滅亡に至るまで,各時代を通じて一貫して見られる。農民反乱はもとより自ら生産に従事するさまざまの階層の農民をおもな担い手として展開されたが,鉱山労働者,塩業労働者,その他の手工業者,運輸労働者や,しばしば〈無頼〉と呼ばれる遊民など,各種の非農業民の参加する場合も少なくなく,この意味では民衆反乱としての様相を示す。農民反乱の中には,宗教反乱,民族運動ともいうべき側面をもっているものがあるが,すべてに共通する本質的性格は,各時代の専制王朝の圧迫と収奪に対して,農民をはじめとする民衆の生存を守るための抵抗闘争という点にある。

 農民反乱は専制王朝の支配に大きな打撃を与え,多くの場合,王朝そのものを打倒した。毛沢東によれば,農民戦争,すなわち農民反乱は中国の〈歴史を発展させた真の原動力〉(《中国革命と中国共産党》)である。現代中国の歴史研究においては,この見解にもとづき,反乱に立ち上がった農民の掲げる目標が,9世紀後半以降,社会的富の不均等の是正,さらに土地の均等配分へと質的に向上していったこと,農民の樹立した多くの政権が短命に終わったとはいえ,17世紀以降,しだいに制度的に整った形態をとるにいたったことなど,長期的視野に立って,歴代の農民反乱の歩みの中に発展のあとを見いだしている。ただ,農民反乱の指導者が政権を樹立したのち,逆に反乱を鎮圧したり,その政権が従来の専制王朝と同様の腐敗の道をたどることもまたしばしば見られるところであり,中国の研究においては,中国革命の一環として中国共産党が指導した1920年代以降の農民運動とこれ以前の農民反乱とを厳密に区別している。しかしながら,中国の農民反乱の規模の大きさと回数のおびただしさは,世界に類例を見ないものであり,小経営農民の要求の実現という見地からすれば,この間の段階的発展は確かに顕著である。その歴史的伝統が1949年に至る現代中国革命に及ぼした影響はきわめて大きなものがあったといえよう。表にあげた大規模な反乱や,その他の地方的な武装反乱とは別に,10世紀,宋代以降とりわけ16世紀の後半以降には,地主に対する佃戸(でんこ)の小作料不払い運動である抗租が,あるいは個別的に,あるいは社会的風潮として盛んになっていく。太平天国のかつてない大きな成果の基礎には,こうした日常的な抵抗の蓄積の存在があったことを見失ってはならない。
執筆者:

西アジア・イスラム世界の都市反乱や農民反乱などの民衆運動は,しばしば宗教的性格を帯び,また農民,遊牧民,都市商工民,宗教指導者,軍人などの多様な階層に属する人びとが一体となって展開されるところに特徴がある。16世紀末から17世紀前半にかけて,オスマン帝国支配下の北部シリアやアナトリアに続発した一連の農民反乱は,その一例である。この一連の反乱は,オスマン帝国史上〈ジェラーリーGelālī〉と総称される。それはマフディー(救世主)を自称して1519年に反乱したジェラールという人物に名を借りたもので,彼は中部アナトリアのボゾク(今日のヨズガト)地方の遊牧民(トルクメン)出身のデルウィーシュ(スーフィー教団の修道者)であった。

 15~16世紀のオスマン帝国は,シパーヒー(騎士)に封土を授与し,そこからの租税の徴収を認めると同時に,農業生産,管理をゆだねるというティマール制による社会的安定のもとに最盛期を謳歌した。しかし,16世紀末以降,中央では宮廷および官僚,常備軍団(イエニチェリなど)の人員増加と腐敗が進み,その結果財政難に陥った政府は,増税,シパーヒーの封土没収などの圧政を開始した。地方では,人口増加による耕地の不足,地方官,常備軍団員による不正な徴税と土地の集積と囲込み,メキシコ・ペルー産銀の急激な流入によるインフレーション,東西貿易路の転換による国際的中継貿易の衰退などを原因として,ティマール制は揺らぎ,民衆の不満がうっ積した。1560年代にスレイマン1世の王子たちによる王位継承争いに名を借りて表面化した地方民衆の不満は,やがて封土の回復を要求するシパーヒーや社会改革を要求する宗教指導者らによって組織され,農民,遊牧民,都市民など多様な人びとを巻き込んだ一連の反乱に発展した。これらの反乱を,デウシルメ出身の常備軍団員,官僚,宮廷を中心とする〈中央〉に対する,シパーヒーら〈地方〉の反乱ととらえることも可能である。政府はこれらの反乱に対して軍隊による徹底的弾圧を強行したため,反乱の一段落した1630年ころには,中部アナトリアから北部シリアにかけての地域は荒廃した。ジェラーリーの反乱を通じて,シパーヒーによって地方=農村を管理するというティマール制の解体は決定的となり,18世紀以後の,地方に台頭したアーヤーン層にイルティザーム(徴税請負)やチフトリキ(私的大土地経営)を認め,これに依拠した体制へと移行する転換点となった。

 19世紀以降になると,アーヤーン層の地主的支配のもとに置かれたバルカン諸民族による農民反乱が続発する。それは西ヨーロッパとの経済関係を強め,その思想的影響を受けた民族独立運動へと発展し,オスマン帝国の解体を招いた。
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