日本大百科全書(ニッポニカ) 「浄瑠璃」の意味・わかりやすい解説
浄瑠璃
じょうるり
日本音楽の一種目。平曲(へいきょく)・謡曲・説教などを源流とした語物(かたりもの)。現代では三味線を伴奏に使い、台詞(せりふ)と旋律によって物語を進めていく音曲(おんぎょく)の総称。義太夫節(ぎだゆうぶし)の異称でもある。
[倉田喜弘]
初期の形態
起源はさだかでないが、1531年(享禄4)連歌師(れんがし)宗長(そうちょう)は静岡で座頭(ざとう)に「浄瑠璃をうたはせ」た(『宗長日記』)。また伊勢(いせ)の神官荒木田守武(あらきだもりたけ)は、1540年(天文9)の『守武千句』で浄瑠璃を題材に詠んでいる。こうした資料に基づき、1880年(明治13)に修史館一等編修官の重野安繹(しげのやすつぐ)は、浄瑠璃の成立時期を足利義政(あしかがよしまさ)から義晴の間(1453~1546)とみなした。初期の語物は、三河国(みかわのくに)(愛知県)矢矧(やはぎ)の長者の娘浄瑠璃と牛若丸の『浄瑠璃物語』で、これから「浄瑠璃」という名称が生まれたといわれている。この物語は12段に分かれているため、「浄瑠璃十二段」とか「十二段草子」ともいう。『阿弥陀胸割(あみだのむねわり)』『牛王姫(ごおうのひめ)』など神仏霊験(れいげん)の物語も行われた。演じるときは、扇を開いて左手に持ち、右手の爪先(つまさき)で骨と地紙をかき鳴らして拍子をとったと、竹本義太夫は『鸚鵡ヶ杣(おうむがそま)』(1711)に記している。そうした浄瑠璃が、いつのころか人形や三味線と結び付いて人形芝居になった。1500年代の末、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は京都の人形芝居を四条河原へ移しているから、すでに興行化していたことがわかる。しかし初期の展開には不明な点が多く、また浄瑠璃の形式も未成熟であったから、義太夫節以前の浄瑠璃を「古浄瑠璃」と総称する。
[倉田喜弘]
古浄瑠璃
徳川家康が江戸の町づくりを始めた1600年代初頭(慶長・元和)、薩摩浄雲(さつまじょううん)や杉山丹後掾(すぎやまたんごのじょう)が江戸浄瑠璃の開祖となった。続いて永閑節(えいかんぶし)や肥前節(ひぜんぶし)も生まれてくるが、和泉太夫(いずみだゆう)(のち桜井丹波少掾(たんばのしょうじょう))の出現で金平浄瑠璃(きんぴらじょうるり)が大流行する。坂田金時の子金平が剛勇を振るう物語で、そのほか『四天王武者執行(してんのうむしゃしゅぎょう)』『渡辺岩石割(がんせきわり)』など、源頼光(みなもとのよりみつ)や渡辺綱(わたなべのつな)の武勇談も愛好された。振袖火事(ふりそでかじ)が起こる1657年(明暦3)前後のことである。この和泉太夫の語り口を柔らかくしたのが土佐少掾で、義太夫節のなかに土佐節の名でおもかげを残している。京都では、古くに目貫屋長三郎(めぬきやちょうざぶろう)、次郎兵衛(じろべえ)、六字南無右衛門(ろくじなむえもん)らがいたようだが、詳しいことはわからない。1600年代後半になって、山本角太夫(やまもとかくたゆう)、松本治太夫(まつもとじだゆう)、宇治加賀掾(うじかがのじょう)らが輩出し、ようやく浄瑠璃の音曲性が明らかになる。この時代、大坂では井上播磨掾(いのうえはりまのじょう)、伊藤出羽掾(いとうでわのじょう)、岡本文弥(おかもとぶんや)らが活躍したが、とりわけ井上播磨掾の演奏は竹本義太夫に大きな影響を与えた。なお説経節(せっきょうぶし)では、大坂与七郎、佐渡七太夫、江戸の天満八太夫らが、『苅萱(かるかや)』『三荘太夫(さんしょうだゆう)』『百合若大臣(ゆりわかだいじん)』などを語っている。
[倉田喜弘]
竹本義太夫以後
1684年(貞享1)竹本義太夫は大坂道頓堀(どうとんぼり)に竹本座を建てた。これを義太夫節の紀元元年とする。義太夫は古浄瑠璃を集大成して曲節を整え、物語の表現形式を定めた。また後継者は、浄瑠璃の表現技法や三味線奏法の開発に努めていく。一方、浄瑠璃の骨子となる作品には、近松門左衛門、竹田出雲(たけだいずも)、近松半二(はんじ)、そのほか大ぜいの作者が関与して、浄瑠璃の文学性を高めるかたわら、娯楽性も追求した。そうした作品は、時代物と世話物に大別できる。ごく一例を示すと、時代物は時代浄瑠璃ともいい、貴族社会や武家社会を題材にした『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』など。また世話物は世話浄瑠璃ともいい、庶民社会のできごとを仕組んだ『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』『新版歌祭文(うたざいもん)』『艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)』など。これらの作品は、経済都市大坂の力を背景に日本列島全域へ広がり、義太夫節は浄瑠璃の一大主流という地位を築き上げた。歌舞伎(かぶき)も浄瑠璃作品の舞台化に努め、あわせて演奏形式までも取り入れたので、義太夫節は近世日本演劇にとって不可欠の存在になった。また、義太夫以降の浄瑠璃本(丸本(まるほん))と現存の演奏を観察、分析するとき、近世日本人がもっていた音楽性の変化が鮮やかに浮かび上がる。ただ義太夫節は、どちらかといえば叙事的な表現に優れており、時代物に特色がみられる。そのためであろうか、世話物では豊後節(ぶんごぶし)が人気を博した。
豊後節は宮古路節(みやこじぶし)ともいい、優艶(ゆうえん)なメロディを駆使して叙情を主とする。1720~1730年代(享保)に宮古路豊後掾が創始したが、1830年代(天保)に廃れたようだ。大量に残っている歌本と義太夫化された曲節から推し量ると、浄瑠璃本来の語るという技法は捨て去られ、歌うことに終始している。このような浄瑠璃を「唄浄瑠璃(うたじょうるり)」とよぶ。豊後掾の流れをくむものから、正伝節(しょうでんぶし)、繁太夫節(しげたゆうぶし)、薗八節(そのはちぶし)(宮薗節ともいう)なども生まれた。
[倉田喜弘]
江戸浄瑠璃
義太夫節は江戸でも流行し、平賀源内が著した『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』をはじめ、『恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)』『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』などが上演された。これら江戸生まれの作品を、義太夫節では「江戸浄瑠璃」とよぶ。この用語はさらに広義に使用されて、江戸で行われた各種の浄瑠璃をさす場合もある。江戸でもてはやされた諸流派が、近年に至るまで江戸だけで愛唱され、各地へ広がらなかったためでもあろう。
ところで、1732年(享保17)宮古路豊後掾が江戸へ下ったころは、河東節(かとうぶし)が栄えていた。江戸半太夫(はんだゆう)の門から出た江戸太夫河東がおこした一流だが、約50年間劇場へ出演しただけで、「助六」以外は座敷浄瑠璃として、一部の人たちから迎えられてきた。京都から下った都一中(みやこいっちゅう)の流儀もそうで、今日、河東節、一中節、薗八節などは「古曲」と総称されている。次に常磐津節(ときわずぶし)は、宮古路豊後掾の門弟文字太夫(もじたゆう)がおこした浄瑠璃である(成立期未詳)。この文字太夫の門弟の一人が、1748年(寛延1)に分離して富本豊前掾(とみもとぶぜんのじょう)となった。富本節の始祖である。さらに1814年(文化11)斎宮太夫(いつきだゆう)は富本から分かれ、清元延寿太夫(きよもとえんじゅだゆう)の名で清元節をたてた。3流ともに豊後掾の流れをくんでいるので、常磐津、富本、清元を、豊後三流あるいは豊後節とよぶ。いずれも歌舞伎舞踊に欠かすことのできないもので、唄浄瑠璃の性格が濃い。
以上が豊後三流成立の通説であるが、実は豊後掾と常磐津を結び付ける確証は知られていない。むしろ反証が多く、音楽性も異なる。今後の研究をまたなければならない。なお、新内節(しんないぶし)も豊後掾から生まれたといわれている。リズムのとり方が違うためであろうか、劇場で用いられることは少なく、豊後三流から除外されている。
[倉田喜弘]
取締りと自主規制
江戸時代から明治初期にかけては、生産性向上のため、施政者は絶えず労働を強調した。いきおい芸能は疎外され、それに従事する者は差別視された。天保(てんぽう)の改革(1842)の際、江戸滞在中の大坂の義太夫語りは、一般庶民との会話や金銭の授受を禁じられ、草履(ぞうり)も尻切(しりきれ)を履くよう命じられた。京都では、「浄るり、はうた、稽古致間敷事(けいこいたすまじきこと)」という禁令も出ている。義太夫節の題名も干渉され、1750年代(宝暦)には『将軍太郎東文談(あずまぶんだん)』の「将軍」と「東」が、変更を命じられた。禁制の鉄砲を文中に組み込んだばかりに、一段全部の上演が不能となった例もある。明治以降になると、皇室の尊厳や個人の名誉にかかわる作品は見合わされ、また卑猥(ひわい)な歌詞は自主的に改定された。とくに清元の歌詞は変更されるものが多く、常磐津の題名『忍夜恋曲者(しのびよるこいはくせもの)』は『忍夜孝事寄(こうにことよせ)』となった。こうした過程に一顧を与えておくのも、浄瑠璃の理解に役だつところが大きいであろう。
[倉田喜弘]