大久保村(読み)おおくぼむら

日本歴史地名大系 「大久保村」の解説

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]吉岡村大久保

榛名はるな山東麓の台地が利根川に接する地域に位置し、東南の大久保集落と北西の溝祭みぞまつり集落の二つからなる。大久保集落は佐渡奉行街道沿いに発達した街村で宿が置かれた。同街道より伊香保いかほ温泉(現伊香保町)方面へ通じる伊香保道が北東へ向かってのび、また中世の鎌倉街道が溝祭地区を南北に走っていた。西は南下みなみしも村、北は半田はんだ(現渋川市)下野田しものだ村、東は漆原うるしばら村、南は池端いけはた村・植野うえの(現前橋市)。永禄一〇年(一五六七)一一月二三日の武田信玄書状(写、「甲斐国志」所収)で当時箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)に在城していた禰津政直に与えられた役料のうちに「大窪之郷百貫」がみえる。なお当地に残る伝承では「平治物語」巻三にみえる上野国大窪太郎がこの地に住したといい、地名もこれにちなむといわれる。しかし、近世街村としての村落形成は、正徳年間(一七一一―一六)の植野堰最初掘立御普請書(武井文書)には慶長一〇年(一六〇五)、「三之宮七日市場より大久保宿を出ス」とあるように、北西にある三宮さんのみや神社の脇を通る鎌倉街道沿いの七日市なのかいちから集落が移ってのちと思われる。

元和三年(一六一七)「軽免・大窪・青梨三ケ村」二四三石が花房右馬助に与えられる(記録御用所本古文書)。寛文郷帳では田方一一〇石余・畑方一千五六石余で幕府領・旗本戸田領などの四給。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]富士見市東大久保ひがしおおくぼ

勝瀬かつせ村の東にあり、西境を新河岸川、東境を荒川(現びん沼川)が南東流する。両河川の沖積地を占め、東は足立郡飯田いいだ新田(現大宮市)。小田原衆所領役帳には他国衆大窪丹後・同内匠助・同勘解由の知行地として入東につとう郡の「大窪郷」五五貫文がみえる。江戸初期から川越藩領で寛永八年(一六三一)・慶安元年(一六四八)に検地が施行された。慶安元年の検地帳(大沢家文書)によれば上田九町余・中田一〇町二反余・下田一四町三反余・下々田四町八反余で計三八町四反余。上畑四町六反余・中畑九町六反余・下畑二四町二反余・下々畑四町五反余で計四三町一反余。田園簿では田二七二石余・畑二五〇石余・野高四四石、ほかに野銭永二五文とある。明暦二年(一六五六)には、堤外検地により下畑一町五反余・下々畑二反余の計一町七反余を加えており(「検地帳」大沢家文書)、また天和三年(一六八三)にも検地が行われるなど低湿地の開発が進んでいた様子がうかがえる。一方、武蔵野台地では川越藩領の村が野守の主導により開発を推進しており、当村でも寛文元年(一六六一)の武蔵野開検地で下畑一四町六反余・下々畑一一町七反余の計二六町三反余を打出している(「検地帳」同文書)。武蔵野は以前から周辺諸村の秣場であったが川越藩による開発で秣場が狭められたため、入会村は貞享元年(一六八四)川越藩の野守を幕府に訴え出た。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]昭和町大久保

馬踏ばふみ川が西流して八郎潟に注ぐ河口に位置する。八郎潟の東部沖積地を占める。羽州街道筋にあたり、男鹿おが半島の船越ふなこし(現男鹿市)からは男鹿街道から分岐して湖岸部を通る二田ふただ街道が村、支郷新関にいせき村を通り羽州街道と合流する。新関村からは森岳もりおか(現山本郡山本町)に至る湖上輸送のルートが開かれていた。

古川小路ふるかわこうじに応永二〇年(一四一三)銘の割石板碑があり、中世の開村を示している。「奥羽永慶軍記」に天正一六年(一五八八)に起きた湊騒動に際し「今年は是非に土崎の城を責め落し素懐を達せんと、所々の大勢を集らる。先づ大久保表は舎弟比内忠二郎家泰」とみえ、檜山勢が軍勢を揃えた要地となっている。同一九年の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「五百五拾五石四斗五升六合 すな原村 小泉村 まふミ村」、同年の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「百四拾石弐斗二升六合 大くほ村」とみえる。文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に「六拾弐石八斗六合 砂草村」「百十石四斗九升三合 ま(ふ)見村」とあり、同三年の御代官所御物成算用之目録(門間家文書)にも「砂原村」「まふみ村」とある。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]日立市末広すえひろ町一―五丁目・大久保町一―五丁目・大久保町・桜川さくらがわ町一―四丁目・千石ちこく町一―四丁目・多賀たが町一―五丁目・諏訪すわ町四丁目・金沢かねさわ町一丁目

東側半分は海岸段丘面、西半分は多賀山地丘陵で、北東を岩城相馬いわきそうま街道が通り、北は諏訪村に接する。

多賀山地丘陵東縁上に縄文時代中期の十王堂じゆうおうどう遺跡・中丸なかまる遺跡や日向山ひゆうがやま古墳群が点在する。古くは大窪おおくぼと記され、「吾妻鏡」の治承五年(一一八一)三月一二日の条に「常陸国塩浜、大窪、世谷等所々」とみえ、また同年の源頼朝寄進状案(塙不二丸氏蔵)にも「在常陸国世谷、大窪、塩浜」とある。「吾妻鏡」建保元年(一二一三)五月六日条「多珂郡大窪郷地頭宇佐美平太入道」、嘉禄三年(一二二七)六月六日の関東下知状案(同氏蔵)には「地頭伊賀判官四郎」とみえる。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]宇治市大久保町〈じりかみやま大竹おおたけ旦椋あさくらきたやま・久保・田原たはら成手なるて西にしはた平盛ひらもり南口みなみぐちやまうち

東方の宇治丘陵から西流する広野ひろの川・名木なき川・大谷おおたに川がつくる複合扇状地の西部に立地し、集落は扇端部にある。村域の東と北は、慶安二年(一六四九)に大久保村から分離独立した広野村と、西北の一部ははやし(現久世郡久御山町)、西は佐山さやま(現久御山町)に、南は久世くせ村・平川ひらかわ(現城陽市)に接する。当地を古代の栗隈くりくま(前)(和名抄)に比定する説が有力である。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]飯野町大久保

飯野村の北東、女神めがみ川沿岸に位置し、東は松沢まつさわ(現川俣町)。大窪とも記された。丘陵と浅い谷が連続し、南西流する女神川沿いに二本松に至る街道が通る。街道沿いに集落が形成され、みなみ町・北町の町場が中心をなす。村名は「信達二郡村誌」によれば川俣かわまた春日神社(現川俣町)の縁起に載る山蔭中納言の和歌によるという。「伊達天正日記」のうち天正一七年(一五八九)四月二一日の野臥日記に大窪町とみえ、伊達氏の野伏二七人の名が記載され、山伏一・鍛冶一のほかは名子三を含む農民であった。在郷には一〇の在家と館があり、一三人の野伏がみえ、館の内には一六人の名が載る。戦国期、当地は伊達氏領として桜田氏や内馬場氏・青木氏に宛行われたのであろう。年未詳七月一五日の蘆名盛隆覚書(伊佐早文書)は、天正年間に青木氏が東安達の大内氏に属した時期の記録と推定されるが、これによれば、当地は大内方に編入され、大窪館の破却が決定されている。天正一三年青木修理は伊達氏に服し、短期間で伊達氏領に復したものとみられる。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]鈴鹿市大久保町・椿一宮つばきいちみや

入道にゆうどうヶ岳(九〇六・一メートル)山麓、山本やまもと村の北にあり、三重郡(現四日市市)との境を流れる内部うつべ川の右岸、同川扇状地の扇頂部にあたる。標高一八〇メートルの高燥地である。付近一帯を大野おおのともいい、南東四キロの現東名阪道路沿いの椿一宮町もこの村の地内で、やはり大野と称していた。天平一九年(七四七)の大安寺伽藍縁起并流記資財帳(奈良市正暦寺蔵)に「鈴鹿郡大野百町 四至東北野、西高山、南石間河之限」とある大野もこの付近のこととされ、当時大安だいあん(現奈良市)の墾田であった。戦国時代この地に拠った大久保伊豆守は神戸信孝の配下で、天正一一年(一五八三)みね(現亀山市)にこもって豊臣秀吉軍と戦い、落城後、信孝のいる岐阜ぎふ城に赴き討死し、この城も廃された(亀城兎園記)

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]浜松市大久保町・神原町かみはらちよう

志都呂しとろ村の北に位置し、南西は宇布見うぶみ(現雄踏町)、東はかみ村。九領くりよう川に沿う。中世は浜松庄大窪おおくぼ郷として推移。松平忠頼領郷村帳では高七二二石余、田六六町七反余・畑七町余、ほかに新福しんぷく寺領二石・長福ちようふく寺領九石・天王領三石余・五葉(現臨済宗方広寺派五葉院)領三石・若宮領二石・三王(山王)領四石余。元和三年(一六一七)の浜松領知行目録に村名がみえる。寛永二年(一六二五)旗本服部領となる(記録御用所本古文書)。正保郷帳でも旗本服部領で、田六五九石余・畑六二石余のほか、妙香城みようこうじよう寺領二〇石・新福寺領一〇石・長福寺領一六石・五葉寺領一〇石・天王領三石余・神明領三石余・山王領三石。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]磐田市大久保

藤野ふじの村・上原かんばら村の南、磐田原台地のほぼ中央、南流する今之浦いまのうら川の上流に位置する。東は大海だいかい村。豊田とよだ郡に属する。中心集落を井戸いどと称し、ほかに下河原しもがわら東原ひがしばらなどの小集落があった(遠淡海地志)。磐田原台地に開かれた新田で、初め井戸ヶ谷村とも称した。「遠江国風土記伝」には磐田原の東西の経路の中央にある孤村で、井水なく雨水を溜めて園圃を作るとある。元和八年(一六二二)中泉代官中野七蔵重吉は見付みつけ原のを新田に取立て、三年間の年貢免除とその後の見取、屋敷・村内への松木植林と諸役免除などを定める掟書を発給した(「中野重吉手形」鮫島家文書)。同九年には永井尚政(のち常陸笠間城主)領分となっていたようであるが、寛永一〇年(一六三三)には掛塚藩加々爪氏領へ移っていたとみられる。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]塩谷町大久保

上平うわたいら村の東、鬼怒川左岸に位置し、中央部をあら川が東流する。大窪とも記した。宇都宮秀清が当地を与えられ、高野こうや館を築き大久保氏を名乗ったという。「宇都宮興廃記」には、観応二年(一三五一)の上野那波なはの合戦での戦死者に大久保玄蕃頭藤原秀清、康暦二年(一三八〇)裳原もばら(現宇都宮市)の合戦に従った者のなかに大久保蔵人、天正一三年(一五八五)薄葉うすばヶ原(現大田原市)の合戦で塩谷氏に従ったなかに大久保太郎吉宗がみえる。今宮祭祀録(西導寺蔵)によると、今宮いまみや神社(現氏家町)に社家役として廻楼東分二間と「はん尾」を勤仕、また同社祭礼頭役を明応四年(一四九五)より天正一四年にかけ大窪郷の大窪修理亮などが勤めている。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]三原町八木天野大久保やぎあまのおおくぼ

上八木かみやぎ村の南にあり、北西は鳥井とりい村。東部は山地で、中央部から南部にかけて平地。中央部山麓を成相なりあい川が北流する。福良ふくら街道より南東方へ分岐した成相寺参道が通る。正保国絵図に村名がみえ、高四二〇石余。天保郷帳では高四一七石余。反別戸数取調書によると反別三四町九反余、高四五〇石余、うち蔵入高一二九石余・給知高二八二石余、給人は野上門次ら一二人。ほかに成相三社明神領六斗余がある。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]岩瀬村大久保

北横田きたよこた村の東、南部・北部の丘陵間の中央をいな川が東流する。戦国期二階堂輝行の四男大久保資近が大久保館に拠ったと伝える(岩瀬郡誌)。永禄九年(一五六六)頃と推定される八月一一日の蘆名盛氏書状案(新編会津風土記)に「大窪」とみえ、当地が二階堂氏方の手にあり、通行不能だと報じている。天正年間(一五七三―九二)須賀川城主二階堂盛行は玉之木たまのきで田村清秋勢と戦ったが敗れて大久保館へ退いた。これを追った田村勢は当地に火をつけ焼払ったという(仙道記)

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]駒ヶ根市東伊那ひがしいな 大久保

天竜川東岸の山麓、北は田原たはら(現伊那市)、南は塩田しおだ川を境に栗林くりばやし村、東は塩田村に接する。

諏訪社上社の大永四年(一五二四)の磯並宝殿及び御柱造宮等の課役を務めたが、「磯並造宮料請取日記」(御造宮日記之写)には、「大窪分 正物九斗一升七合、御ほこの本三斗、釘代十文、朝暮米六升、大豆六升、草六束請取所実証也」とみえる。

大田切おおたぎり川の川口にあたる天竜川東岸に大久保城跡があるが、土塁と堀をわずかに残すだけで創建の年代はつまびらかでない。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]村山市大久保

最上川西岸にあり、対岸は貝塩かいしお村。村内を千座せんざ川が東流し、最上川に注ぐ。大窪村とも記され、最上川により削られ、窪地になったための村名と伝える。宝幢寺本最上氏系図によれば、最上満直の三男満頼について「右馬頭 大久保主馬之助祖 大窪殿 宝鏡寺 満直三男」とあり、当地に分封されたと思われる。最上川の段丘崖を利用した宝鏡ほうきよう寺境内が満頼の拠った館跡と思われる。大久保集落内にはもう一つの館跡があり、現大久保小学校を中心とするもので、一般にこちらを大久保館とよぶ。南側の段丘崖とその外側を流れる千座川を利用し、他の三面に水堀をめぐらし、西側には井戸も残る。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]足利市大久保町

渡良瀬川の左岸。北は大小だいしよう山から南西に派生する山丘で、その南麓一帯の低台地に位置し、南は尾名おな川を境に上川崎かみかわさき村・下川崎村。「和名抄」にみえる足利郡六郷のうちの大窪おおくぼ郷は、当地を遺称地とする。正平七年(一三五二)二月六日には足利庄内大窪郷が高師業に与えられたが(「足利尊氏下文」高文書)、のち一時師業の支配から離れ、康安二年(一三六二)二月二二日に師業に還補された(「足利基氏御判御教書」同文書)。享徳一八年(一四六九)一一月一二日には高師久に本領として安堵されているが(「足利成氏安堵状」同文書)、室町後期より足利庄に入部した長尾氏の支配下に入った。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]相生町大久保

はち村の北、那賀川左岸にある。本村(大久保)集落は那賀川に面する南を除き三方を山に囲まれているが、現相生町域の村のなかでは平坦地に恵まれている。本村のほか木屋こやたに西納野にしののの集落がある。大窪とも書いた(阿波志)。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「大くぼ村」とみえるが、正保国絵図、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳、天保郷帳には記載がない。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高一〇六石余。「阿波志」では土田は水陸田二二町三反余、等級は三等雑、家数一一七・人数二五二。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]伊吹町大久保

太平寺たいへいじ村の北、南流するあね川左岸の伊吹山地に立地。伊吹山地に発する板名古いたなこ川が北の下板並しもいたなみ村境を西流し姉川に合流。当村から板名古川沿いに伊吹山地を北東へ登り、上板並村のカラオ谷を経て国見くにみ(標高約八五〇メートル)越で美濃尾西おにし(現岐阜県揖斐郡春日村)へ出る大久保越と称する道がある。文和期(一三五二―五六)長尾ながお護国寺僧深宥が「小泉・大久保・板並」の地を開いたという(長尾護国寺縁起)

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]高尾野町大久保

柴引しばひき村の西、高尾野郷の北東部に位置し、東は出水郷武本たけもと(現出水市)など。大窪とも記した。南部は山岳が重畳して紫尾しび山に連なり、中央部を高尾野川が貫流し、出水筋が横断する。「鹿児島県地誌」は字地として野町のまち上野原うえのはら(上ノ原・上原)大野おおの・上大野・まつ・上大久保をあげる。応永一五年(一四〇八)一月一一日、沙弥性慶は父市来崎秀雄から譲り受けた山門やまと院東方の「坂本八反」などを嫡子秀幸に譲っているが(「性慶譲状」山門文書)、この「坂本」は地内坂本さかもとのことと思われる。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]小諸市大久保

御牧原みまきがはら東北の断崖下、千曲川渓谷に大久保・こおり鴇久保ときくぼの集落が散在する。対岸は小諸こもろ城下で、西は布下ぬのした(現北佐久郡北御牧村布下)、南は山浦やまうら村などに接し、断崖上の御牧原は古代の官牧望月もちづき牧である。近世は近隣一三ヵ村の入会原野となり、本村に接した辺りは諏訪すわ山とよばれた(宝暦二年「小諸領東西村々差出抄」)

古代より滋野氏一族の支配下にあったが、「牛にひかれて善光寺参り」の伝説のある古刹布引山釈尊しやくそん寺の辺りは、佐久郡と小県ちいさがた郡の双方に臨む要衝にあったため、甲斐国武田氏の侵入後は布引ぬのびき城・楽巌寺がくがんじ城が脚光を浴びた(高白斎記)

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]大江町十八才じゆうはつさい

月布つきぬの川中流左岸の低位段丘上に位置し、南対岸の十八才村へは古くから橋があった。東はたて山と称する尾根を越すと小釿こじゆうな村。地名は月布川が曲流してつくった谷盆地の窪地にあったことからきた。村の草分は鈴木与平治家で、西隣の楢山ならやま村から山守として当地に来たという。最上氏領から元和八年(一六二二)幕府領となり、寛永元年(一六二四)郷替えによって左沢藩領、同八年幕府領庄内藩預地、翌九年庄内藩領、慶安二年(一六四九)松山藩領となる。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]糸魚川市大久保

別所べつしよ村の南。信越国境の村で、中谷なかや戸土とど(現長野県北安曇郡小谷村)と対する。天正六年(一五七八)当地の山本彦右衛門への上杉景勝宛行状によると、大神堂だいじんどう横江よこえの二ヵ所六貫の地を国境厳守のため宛行われている(糸魚川市史)とあるが、不詳。同一一年三月一九日付の根知城主西片房家宛行状において、彦右衛門は「大窪」の地を宛行われている(同書)

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]羽後町大久保

雄物川左岸の氾濫原に位置し、北で皆瀬みなせ川が雄物川と合流し、西で羽後大戸うごおおと川が西馬音内にしもない川と合流する。東は雄物川を隔てて角間かくま村・八幡やわた(現湯沢市)、西は杉宮すぎのみや村と接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に大窪村四六三石とある。享保一四年(一七二九)の雄勝郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)によれば、正保の高帳、寛文(一六六一―七三)の郷村高辻帳では大窪村、そのほかの諸帳は大久保村と記すという。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]熊取町大久保

佐野さの川支流の雨山あめやま川・住吉川の合流地にあり、地形はほぼ平坦。中世日根郡熊取くまとり庄に属し、いわゆる熊取谷の最西部に位置する。応永九年(一四〇二)一〇月二六日の左近三郎田地売券(中家文書)に「大くほ村」とみえる。また永正一八年(一五二一)二月一二日の九郎五郎田地売券(同文書)にみえる「ムカイ村」は当村の地名で、享禄三年(一五三〇)二月五日の円道衛門太郎畠地売券(同文書)にみえる「熊取庄内向村クチナシ池」は口無くちなし池として現存し、また天文七年(一五三八)二月二八日の二郎田地売券(同文書)には「大窪向田井」と記される。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]森町一宮いちみや

米倉こめぐら村の北、一宮川流域右岸にある。周知すち郡に属する。西は丘陵を越え豊田とよだ家田いえた(現豊岡村)。文禄四年(一五九五)には「大くほ村」一八四石余など六ヵ所の豊臣秀吉の蔵入地の代官に山内一豊が任じられている(「豊臣秀吉代官補任状写」一豊公紀)。慶長二年(一五九七)の榛原郡外勘定免目録(同書)によれば、一宮筋御料所方免目録のうちに「大窪村」とみえ、高頭は二一一石余、一八〇石余が毛付分でうち免引分六一石余、定物成一一八石余となっている。正保郷帳では高三一七石余、うち田方二一九石余・畑方一一石余が常陸牛久藩領。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]耶馬渓町大島おおしま

山国やまくに川とその支流である山移やまうつり川・金吉かなよし川に囲まれた山間にあり、西はしま村、北は柿坂かきさか村。中世はひと城主中間氏の支配を受けたといわれる。慶長一三年(一六〇八)から元和五年(一六一九)までに、玖珠くす郡への走百姓一四人がいた(「走百姓調査」松井家文書)。小倉藩元和人畜改帳に大窪村とみえ、御蔵納分高二五一石余、家数四一(うち惣庄屋一・百姓一四・名子一三・牢人三)・人数一〇七、牛一〇・馬三という小村である。元禄豊前国高帳では高二五七石余で、ヲヲクボの訓がある。慶応四年(一八六八)の本新田高二六二石余、反別二五町八反余・取一四四石余・無地高九五石余、家数八〇・人数三〇四(「幕府領下毛郡村々」矢野家文書)

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]双海町大久保

伊予灘に面し、東は高岸たかぎし村、西はくし村、南はふもと(現喜多郡内子町)さかい(現大洲市)に接する。浮穴うけな湯並ゆなみ郷に属し、大洲藩領。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「大久保村 日損所、茅山有」、高二〇六石九斗二升八合、うち田一五〇石四斗三升九合、畠五六石四斗八升九合と記す。寛文七年(一六六七)の「西海巡見志」に、家数二二軒、舟数二艘猟舟、加子数二二人、うち一七人役加子とあり、元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」に、村の特産は「米・大豆・胡麻・笘・松葉塩屋ヘウル」とある。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]宇久町大久保郷おおくぼごう

宇久島の北西部、木場こば村の西に位置する。五島家の始祖という家盛の随臣大久保氏が居住していたことに由来する地名という。応永二〇年(一四一三)五月一〇日の宇久浦中一揆契諾状案(青方文書)に「大くほたちわき」、「大くほ入道」の祥信などがみえ、当地を拠点とする者が一揆に加わっている。江戸時代は木場村のうちと思われる。元禄一三年(一七〇〇)宇久島高辻目録に「大窪村」とみえ、高二五九石余のうち蔵入九〇石余(うち田五六石余)・給地知行一六〇石余・小頭分二石余・寺料六石余。享保六年(一七二一)の石高改および安永元年(一七七二)の新田畑改では「木場村大久保村」が開かれた(天保五年福江領高辻郷村帳)

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]藪塚本町大久保

大間々おおまま扇状地の中央西端に位置し、東は本町ほんまち村、西は佐位さい田部井ためがい(現佐波郡東村)。寛文年間(一六六一―七三)笠懸野かさかけの開発により成立した新田村。寛文一一年の岡上開拓絵図(片山家蔵)では当村付近は「赤塚」と記される。翌一二年の新田請負手形(瀬戸文書)では笠懸野新田と一括され、元禄元年(一六八八)の年貢永納手形(同文書)に大久保新田とみえる。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]栃木市大久保町

梅沢うめざわ村の北東に位置し、村内を永野ながの川が流れる。東はあずさ村。北部のでえ山より発する永倉ながくら沢は永野川に注ぐ。慶長一九年(一六一四)までは佐野藩領とみられる。慶安郷帳では田八一六石余・畑二八六石余・山銭二八石余で下総古河藩領。ただし都合高は輪王寺本では一七六石余とある。元禄郷帳では高四九六石余で旗本根来・蜷川・山木・林・大島の五給。改革組合村でも五給だが大島氏に代わって藪氏がみえ、家数四〇。慶応四年(一八六八)の取調帳(大久保和文書)によれば、人数二二五で、例幣使街道金崎かなさき宿(現上都賀郡西方村)の定助郷を勤めている。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]上田市大字住吉すみよし

神科台地の北部で、東太郎ひがしたろう山の南麓の村。東は金剛寺こんごうじ村、西は山口やまぐち村、南は長島ながしま村と接し、北は東太郎山に続く。村は山麓のかなり広い南斜面の台地上にあるため、古くから用水の不足する土地で、ごく少量の沢水を分ち合って生活をしたと伝えている(神科村誌)

元和八年(一六二二)真田氏が松代まつしろに移ったあと、これに代わった仙石氏に幕府が渡した小県郡上田領河中島残物共高石帳(仙石文書)に「三拾六貫七百七拾文、高九拾石八斗弐舛弐合、大久保村」とみえる。宝永三年(一七〇六)小県郡大久保村差出帳(上田藩村明細帳)に「切起高三拾三石三斗九升壱合、此反別五町三反三歩内、田方弐畝歩、畑方五町弐反八畝三歩」と記され、百姓総家数三六軒、人数男一〇九人、女九四人とみえる。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]東庄町大久保

八重穂やえぼ村の西に位置する。元禄郷帳に上代かじろ村枝郷と注記される。康永二年(一三四三)八月四日の室町幕府禅律方頭人奉書案(金沢文庫文書)に東庄内の大窪寺田畠とみえ、金沢称名寺領であったが、幕府は東弥六胤義・七郎重義らの押妨があったとしてその停止を千葉貞胤に命じている。「家忠日記」文禄二年(一五九三)六月一六日条に「大くほの谷小寺」とみえ、盗人を成敗したとあるので、松平家忠領であったのであろう。元和―寛永期(一六一五―四四)とみられる知行宛行状によると、大久保村一一四石余が旗本山崎領となっている。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二二九石余で、旗本山崎・三沢領。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]関宮町大久保

福定ふくさだ村の西、八木やぎ川の最上流部を占め、北に鉢伏はちぶせ山、南にひようノ山(須賀ノ山)がそびえる。集落は鉢伏山麓の窪地に形成される。大窪とも書いた。当地から西へ向かい氷ノ山北西側の鞍部を越え因幡国八頭やず郡に通じる山道はひようせん越とよばれ、古くから利用されてきた。近世までは七美しつみ郡に属した。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「大くほ」とある。江戸時代は旗本山名領。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)には「大くほ村」とみえ、高六二石余。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]芝川町大久保

長貫ながぬき村の北、芝川中流右岸に位置する。大窪とも記される。天文一八年(一五四九)一二月一三日の今川義元判物(浅川井出文書)に「大窪・北原・長貫」とみえ、義元は井出善三郎に当地ほかを安堵している。永禄四年(一五六一)閏三月一〇日今川氏真は当地ほかを井出惣左衛門尉の娘伊勢千代と結婚した善三郎の子息千熊に安堵している(「今川氏真判物」同文書)。同一〇年八月五日、同じく氏真は当地を含む富士上方ふじかみかたのうち屋敷分三八貫文余を安堵し、千熊が幼少の間は、井出伊賀守(惣左衛門尉)に名代として陣番を勤めるよう命じている(「今川氏真判物写」諸州古文書)。当地は永禄一二年から武田氏の支配下におかれ、同年七月一日武田氏は大窪郷中における軍勢甲乙人らの濫妨狼藉を禁止する高札を掲げている。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]庄原市大久保町

西城さいじよう川支流の宮内みやうち川源流域に位置し、盛遠もりとお山の西麓に耕地と集落がある。南東は山が連なり、北西に向けて開け、北は小用およう、北西は永末ながすえ、南は高門たかかどの各村と接する。三上みかみ郡に属した。中世にはたか郷・高庄とよばれた地に含まれた。

江戸時代には広島藩領。「芸藩通志」に「古は、永末村の内にて大久保谷といひけるよし」とあり、永末村の内に含まれていた。一説には永禄年中(一五五八―七〇)に村民の対立が原因で別村となったともいうが(比婆郡誌)、元和五年(一六一九)の備後国知行帳や元禄郷帳でも永末村に含まれており、分村の時期は不明。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]毛呂山町西大久保にしおおくぼ

川角かわかど村の東、市場いちば村の北、くず川と高麗こま川に挟まれた台地上に立地。天正二〇年(一五九二)に検地があり、その検地帳には「大窪郷」と記されていたという(風土記稿)。寛永二年(一六二五)九月大久保新八郎(康村)が徳川氏から入間郡大久保村で一〇〇石を与えられ、同年一〇月大久保久六郎(忠重)に大久保の内五〇石が与えられている(記録御用所本古文書)。田園簿では田高四二石余・畑高一五九石余、大久保領・幕府領の相給。寛文八年(一六六八)・同九年・延宝二年(一六七四)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高一九二石余。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]畑野町大久保

河内かわち(現飯持)または宮浦みやうら村・後山うしろやま村から猿八さるはち村に至る途中の山つきの村。以前は畑本郷はたほんごう村・畑方はたがた村とともに畑沖はたおきと総称される現小字の下畑しもばた集落周辺にあって、大窪おおくぼ村といったという。じよううちを中心とする西部と、寺社を中心とする中組なかぐみと、やや離れた山つきの島見しまみの三集落からなる。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]設楽町東納庫ひがしなぐら

名倉なぐら川上流域、標高八〇四・九メートルの大野おおの山西麓の村。慶長八年(一六〇三)の検地で八五石余を検出。幕末の戸口は九戸・四三人(北設楽郡史)。字竹の花たけのはなの臨済宗妙心寺派の大蔵だいぞう寺は天正一一年(一五八三)名倉の領主奥平信光の請に応じて松陰宗嶽が中興開山となり、同一六年春峰漸意に法席を譲った。

当村下流域の社脇もりわき村は慶長八年の検地では村高四五石余。幕末の戸口は一一戸・六七人。村内八幡神社の元文二年(一七三七)銘の棟札によると、二〇ヵ村の檀越が大蔵寺住職の大般若経転読による犬毒防除の大祈祷を行っている。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]度会町大久保

平生ひろお村の西。宮川左岸段丘上に草場くさば舟瀬ふなせ中出なかでの集落が南北に広がる。康永三年(一三四四)の法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)に「一、田地伍段 西光寺領 在同郡同郷内長津久田村在之字迫田」とある「迫田」は、小字迫田はさまだが当地にあるので中世は内城田うちきだ郷の長津久田村と称していたとみられる。草場は元禄郷帳には立岡たちおか村枝邑としてみえる。天保郷帳では大久保・立岡を一村として「古者大久保村・草場村・立岡村三ケ村」と記す。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]八戸市大久保・美保野みほの

八戸城下の東の丘陵台地上に位置する。浜通はまどおり村の西にあたり、西は新井田にいだ村、南はみよう村、北は白金浜しろがねはま村に接する。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳に「白金浜のこと」として大久保村とあり、白金浜村の支村であったとみられる。元和四年(一六一八)の知行目録に「九拾壱石九斗三升弐合 ひら内・大く不・真木之内」とあるが、「大く不」は当村であろうか。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]板倉町大高島おおたかしま 大久保

利根川左岸にあり、東はしま村、北は高鳥たかとり村、西は飯野いいの村。天正一九年(一五九一)普済ふさい(現館林市)に与えられた一〇〇石は「大窪郷」内にあった(寛文朱印留)。近世は初め館林藩領。寛文郷帳に田方一千八八石六斗余・畑方九八一石余とあり、田方に「水損」と注記される。「邑楽郡町村誌材料」によると、大久保村は天和二年(一六八二)大久保・島・高鳥の三村に分郷されたという。これは同年館林城付領一五万石のうち一一万五千石が旗本二〇七人に分与された時であろう。実質的には三村に分村していたが、郷帳類には大久保村一村として扱われる。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]敷島町大久保

牛句うしく村の西にある。大窪とも記す。永禄六年(一五六三)と推定される亥七月六日、武田信玄は九郷に釜無川の治水を命じたが、そのなかに大久保村の地名がみえる(「武田信玄印判状写」竜王村史)。慶長六年(一六〇一)の保坂之内大窪村検地帳(県立図書館蔵)があるが、一部のため村全体の数値は不明。慶長古高帳では高八九石余。貞享元年(一六八四)の大久保村検地帳(県立図書館蔵)では高一七五石余、反別は田五町一六反余・畑屋敷一八町三反余、屋敷数三一。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]甲賀町大久保

大原上田おおはらうえだ村の南西、村の西に位置し、大原川の谷と南の櫟野いちの川の谷まで広がる。集落は大原川右岸に集まり、まえ大西おおにしなどの垣内に分れる。村名は土地が低く窪地であることに由来するといい、大窪の字を書いたともいう。江戸時代は旗本堀田領。寛永石高帳では高五〇五石余。慶安二年書上では田二三四石余・畑屋敷一〇九石余・永荒川欠一六一石余。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]八幡町大久保

芹田せつだ村の南西にあり、南は荒瀬あらせ川を境に下星川しもほしかわ(現酒田市)。初め大窪村と記したが、延享元年(一七四四)大久保村と改める(「反故籠」飽海郡誌)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録には大窪村とあり高八六石余。寛永元年庄内高辻帳にも大窪村とみえ高二五八石余。宝暦七年(一七五七)高二三四石余、うち池田喜太郎新田一四石余・儀右衛門新田四七石余(「土目録」相馬文書)。享和三年(一八〇三)には家数二〇・人数一三六(「村数家数人高控帳」斎藤文書)

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]大和町大字川上かわかみ字大久保

大願寺だいがんじ村のすぐ南にある小さな村で、正保絵図に村名がみえる。北に山地があり、溜池による灌漑が行われている。北の山手には押型文土器など縄文文化を物語る遺物も出土し、弥生時代や古墳時代の遺跡や遺物も近隣の大願寺・上戸田かみとだ今山いまやま於保おほなどで発見されている。

村は本行ほんぎよう(現佐賀市)の寺領が少しと、あとはほとんどが小城おぎ藩領となっていた。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]那須町富岡とみおか

南流するくろ川の右岸に形成された小段丘に位置する。背後は丘陵地帯、東は水塩みずしお(横岡村の内)、南は塩阿久津しおあくつ村。近世を通じ旗本芦野領であったと考えられるが、元禄郷帳では旗本大田原領とみえる。慶安郷帳では田高三石余・畑高一一石余。享保一三年(一七二八)の将軍徳川吉宗の日光社参の際には奥州街道芦野あしの宿の助郷(勤高二一石)を勤めている(「芦野宿当分助郷帳」熊久保康正文書)

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]弘前市大久保

弘前城下の東北にあり、北は津軽野つがるの村、南は撫牛子ないじようし村、西は清野袋せいのふくろ村に続き、東はひら川に面する。弘前城下から青森町に通ずる街道に沿う。

貞享元年(一六八四)の郷村帳では、寛文四年(一六六四)以後の新田として、平賀ひらか庄に村名があり、村高五九六・三石。貞享四年の検地帳によれば、村高四九六・五七石、うち田方四一七・四〇四石、畑方七九・一六六石。田位は上々田から下々田まで、斗代は上々田が一・四石と高い。清太夫抱の日月堂がある。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]木更津市大稲おおいね

真里谷まりやつ村の西、武田たけだ川右岸に位置する。嘉暦四年(一三二九)四月一二日の東盛義上総国内知行分注進状案(金沢文庫文書)に「大窪上ノ大道ヨリ路ノせキヲ子安エ下ル大道ヲカキル」とみえる。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高五〇三石。元禄郷帳、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳、天保郷帳のいずれも高五二石余。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]田原町大久保

藤尾ふじお山の南側一帯にある。南に広々とした田園を俯瞰する。畑の中央に雁合がんごう(縄文期)宮西みやにし(弥生期)の遺跡がある。字西山にしやまには籠池かごいけ古墳(既掘)があり、近くに伝説八人塚がある。慶応二年(一八六六)記銘の碑に、往古八人の武者が討死した所で、この塚の松の古木を切った人々が疫鬼に悩まされたとある。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]原村大久保

現原村の西北部に位置し、阿弥陀あみだ岳を源とする弓振ゆんぶり川が集落内を西流する。北西は穴山あなやま村(現茅野ちの市)に隣接し、大門だいもん(善光寺道)が通っている。開発については、文書類が焼失しているため、明確ではないが、「諏訪史」によれば、慶安二年(一六四九)の開発で、草分人は与次右エ門。享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には「家数拾七軒 高三拾石四斗三升弐合五勺」とある。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]森町三倉みくら

中野なかの村の北、大府おおぶ川上流部の支流域にあり、四面は山に囲まれる。南東は乙丸おとまる村。豊田とよだ郡に属し、三倉郷一四ヵ村の一。正保郷帳に村名がみえ、永高一〇貫二〇四文、幕府領。元禄郷帳では高七九石余。旧高旧領取調帳では幕府領は七七石余、熊野(権現)社除地二斗余・金山かなやま社除地四斗余・荒神除地二斗余・地之神除地三斗余・天神社除地一斗余・太慶たいけい(現曹洞宗)除地一石余。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]黒羽町亀久かめひさ

那珂川東岸にあり、北西は亀山かめやま村、東は小砂こいさご(現馬頭町)。慶安郷帳に村名がみえ、田一三二石余・畑六四石余で烏山藩領。元禄一〇年(一六九七)以降旗本酒井・倉橋・桑山の三給で、知行高はいずれも七八石余(旧高旧領取調帳)。天保年中(一八三〇―四四)の家数一二(改革組合村)

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]緒方町草深野くさぶかの 大久保

軸丸じくまる村の南西にある。正保郷帳に村名がみえ、田高七九石余・畑高三九石余、緒方郷に属した。天保(一八三〇―四四)頃の御案内記(大久保家文書)では高一五一石余、田八町七反余・畑九町四反余・屋敷五反余・開田一反余・開畑六町余、免七ツ五分の中の村で、物成米八五石余・大豆四七石余を上納、家数三〇・人数一三二、牛三一・馬七、とうはたに御水茶屋があった。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]梓川村大字梓 大久保

金松寺きんしようじ山の東麓の尾入沢おいりざわの水を利用してその沢沿いに発達した村落。初見は寛永一九年(一六四二)信州松本御領分村々高附帳である。嘉永六年(一八五三)の他所稼人口は二五人、酒造稼ぎとして諏訪・伊那・甲州・筑摩ちくま方面に出稼ぎしている(「上野組村々他所稼人別書上帳」中沢有斐氏蔵)

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]上山市久保川くぼかわ

小笹おざさ村の東に接し、地内に応永六年(一三九九)の阿弥陀板碑、文明一二年(一四八〇)の大日板碑がある。阿弥陀板碑は長石仏といわれ、「五角塔は其丈一丈余、太さ一かかへ程の自然石なり(中略)六十六部廻国の懸ケ所にして名高き古碑なり」とある(上山見聞随筆)。正保郷帳では田方七〇石余・畑方六七石余。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]市原市大久保

国本こくもと村の南にあり、養老ようろう川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二一三石。寛文四年(一六六四)の土屋利直領知目録(寛文朱印留)に大窪村とあり、延宝七年(一六七九)まで久留里藩領。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]新里村大久保

山上やまかみ村の北に位置。赤城山南麓の緩斜面で、北部は足尾あしお山地に接する。寛文郷帳では山上村に含まれ、のち独立村となる。元禄郷帳によれば高一五〇石余、前橋藩領。近世後期の御改革組合村高帳では家数三五、陸奥泉藩領。明治一〇年(一八七七)頃の民業は男は農・桑業二〇戸、農の傍ら商業に携わる者一戸、工に携わる者一戸、雑業に携わる者二一戸、女は農間に養蚕・製糸・縫織に従事。

大久保村
おおくぼむら

[現在地名]下條村大久保

現下條村の東部、天竜川に面して位置する。古くは「大窪村」とも書いた(信州伊奈青表紙之縄帳)。文献上の初見は天正六年(一五七八)で、上諏訪大宮同前宮造宮帳(諏訪大社上社文書)に、大窪郷として一八〇文の宮大工造宮銭を負担した記事がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報