勢多郡(読み)せたぐん

日本歴史地名大系 「勢多郡」の解説

勢多郡
せたぐん

面積:五四〇・九五平方キロ
赤城あかぎ村・北橘きたたちばな村・富士見ふじみ村・大胡おおご町・宮城みやぎ村・粕川かすかわ村・新里にいさと村・黒保根くろほね村・あずま

東毛の中央部に位置する。古代の郡域は不明だが、中世以降は赤城山を中心に山麓全域を占め、明治一一年(一八七八)南勢多・北勢多の二郡に分れた。同二九年東群馬郡と南勢多郡が合併するとともに北勢多郡利根郡に編入され、南勢多郡は再び勢多郡と称した。その後前橋市隣接地域を同市に割き現在に至る。現郡域は赤城山頂を北限とし、東・南・西山麓を占め、東は渡良瀬川、西は利根川に挟まれた地域である。北は沼田市・利根郡、東は栃木県上都賀かみつが安蘇あそ二郡、南東は桐生市・山田郡、南は佐波さわ郡、南西は前橋市、西は渋川市・北群馬郡に接する。

当郡は東部の渡良瀬川上流地域、南部の赤城山麓部、利根川左岸の赤城山西麓部に三分され、経済圏が異なる。東部の黒保根・東両村は渡良瀬川の深い峡谷の右岸を占め、国道一二二号・国鉄足尾線が通る。国道一二二号は銅山あかがね街道の後身。大部分が森林で山林資源に恵まれる。生活圏は山田郡大間々おおまま町・桐生市である。赤城山南麓部は大胡町を中心とする地域で、南緩傾斜の山麓に荒砥あらと川・粕川などの小河川が浅い輻射谷を刻んだ台地上に大胡町・宮城村・粕川村・新里村が広がる。古代より開けた地域で郡の中心部。県道渋川―大胡線、大胡―桐生線、私鉄上毛電鉄が東西に山麓部を通る。利根川左岸の赤城山西麓部は緩傾斜の山麓部と利根川段丘部に分れ、沼尾ぬまお川・天竜てんりゆう川・しら川などの小河川が山麓に深い輻射谷を刻み、起伏量の多い複雑な地形の地域に赤城・北橘・富士見の三村が展開する。南部と同じく農業地帯で、古代より開け、段丘上を走る県道前橋―下久屋しもくや(沼田市)線によって結ばれ、また国鉄上越線が通る。また旧沼田街道が赤城山麓広域農道として開かれ、山麓部を南北に走る。前橋市・渋川市の生活圏。

郡の設置年代は不明であるが、大化改新の結果と思われる。郡名は「続日本紀」天平勝宝元年(七四九)閏五月二〇日条に「上野国勢多郡小領外従七位下上毛野朝臣足人」とみえるのが初見。表記は勢田(総社本「上野国神名帳」など)があるが、公的には一貫して勢多であったとみられる。「和名抄」諸本ともに訓はないが、古くより「せた」であったろう。語源は赤城山の下、シタがなまったとする説(名跡考)があるが疑問である。

〔原始〕

新里村武井たけい武井遺跡は先土器時代の遺跡で、同時代研究の端緒となった岩宿いわじゆく遺跡(新田郡笠懸村)西北約五キロの地点にある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報