岩瀬村(読み)いわせむら

日本歴史地名大系 「岩瀬村」の解説

岩瀬村
いわせむら

[現在地名]中間市岩瀬西町いわせにしまち・岩瀬一―四丁目・岩瀬・長津ながつ二―三丁目・中鶴なかづる二丁目・同四丁目・中央ちゆうおう二丁目など

中間村の北、まがり川の中流右岸(一部左岸)に位置する。北は吉田よしだ(現水巻町)。集落は本村と正覚寺谷しようがくじだにの二ヵ所(続風土記拾遺)。永享五年(一四三三)麻生家見の後を継いだ弟の家春は翌六年六月二五日、将軍足利義教より「岩瀬村」などの本領を安堵されている(「足利義教袖判御教書」麻生文書/筑前麻生文書、以下断りのない限り同上)。同八年家春が子の家慶とともに戦死すると、その遺跡は家慶の子の又光丸に引継がれたが、まもなくして又光丸は病死。家春の弟の弘家がその後を継ぎ、同一一年八月二九日、足利義教より安堵状を得ている(足利義教袖判御教書写)。文安五年(一四四八)八月の麻生弘家知行目録写によれば、当村の知行高は内々帳面、公役の時の答分ともに三〇町であった。康正元年(一四五五)弘家は家督を子の弘国に譲ると、これを申請して幕府より弘国に対する安堵状を得ている(同年一一月一九日足利義政袖判御教書)。ところがその頃、麻生氏内部では弘家・弘国父子と家春の子の家延との間で惣領職をめぐる対立が進行しており、応仁・文明の乱をきっかけに対立は表面化。

岩瀬村
いわせむら

面積:六四・二三平方キロ

岩瀬郡の北西端、北から西にかけては諏訪すわ峠・にわとり峠を境に郡山市、南は長沼ながぬま町、東は須賀川市に接する。西部一帯は奥羽山脈の東斜面で八幡はちまん(岩瀬山、一一〇二・二メートル)かさもり(一〇一二・六メートル)がある。山脈から東へ延びる数条の丘陵間をなめ川・岩根いわね川・実取みとり川・志茂しも川などの小河川により形成された耕地が広がる。交通は中央を横断する中野なかの―須賀川線のほか、安積あさか―長沼線、木之崎きのさき喜久田きくた線などの県道が整備されている。諏訪峠山麓の守屋もりやに縄文―弥生時代と推定される愛宕山あたごやま遺跡がある。

岩瀬村
いわせむら

[現在地名]田代町岩瀬

大館盆地西端部、南流する岩瀬いわせ川が米代川に注ぐ所に本村が位置し、その上流域に枝郷が点在する。慶長二年(一五九七)の浅利頼平領内村数覚書(秋田家文書)に「岩せ村 畠 家二ツ」とみえる。中世の館が現越山こしやまに現存、「秋田風土記」にも「古城越山に有。浅利家の族居せりと云。名不知。郷士松坂武助と云者有。本伊勢の松坂より来ると云」とある。中世を通じ浅利氏領であったが、織豊期になって秋田実季領に包摂された。

岩瀬村
いわぜむら

[現在地名]荘川村岩瀬

しよう川の上流右岸段丘を中心に開けた村で、南は白川しらかわ街道沿いの牛丸うしまる村。西は庄川を挟んで中野なかの村。現関市光輪こうりん寺の延徳元年(一四八九)蓮如下付の方便法身尊像裏書に「飛騨国白川善俊門徒同在所岩瀬」とみえる。庄川の岩瀬橋は古くは現在地の北東約八〇〇メートルにあり、天正一三年(一五八五)八月金森長近の飛騨侵攻の際、帰雲かえりくも(現白川村)内ヶ島為氏の重臣尾神備前守氏綱の抵抗にあい、激戦の末金森軍は敗退したという(斐太後風土記)

岩瀬村
いわせむら

[現在地名]富津市岩瀬

小久保こくぼ村の北に位置し、房総往還が通る。西部は浦賀水道に臨む。吉野よしの郷七村のうち。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二五八石で、幕末まで変わらない。村内の最上さいじよう(現真言宗智山派)の天和四年(一六八四)銘の縁起棟札では旗本大久保領。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数七九で、旗本大久保領。天保一三年(一八四二)から武蔵忍藩領。嘉永五年(一八五二)当時は陸奥会津藩領で、安政四年(一八五七)には筑後柳川藩領であった(最上寺棟札)。慶応元年(一八六五)の様子大概並取箇帳によれば田畑各一八町余で、年貢米は当浦から海路一四里の江戸まで積送り、御林五ヵ所一町七反余・百姓林八ヵ所三町余、家数九九・人数五八四、馬五・牛二で、農間には漁場があるので男は魚漁稼、女は木綿織を行った。

岩瀬村
いわせむら

[現在地名]岩瀬町岩瀬

岩瀬盆地中央にあり、長辺寺ちようへんじ山の西に位置する。東は大岡おおおか村、南は本新田ほんしんでん村・西にし新田村。村の北端をおお川が西流する。江戸時代は笠間藩領で、「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には堰一、溜池二、御林一(二一町歩)があり、村内の藤松ふじまつから飯田いいだ村境までは秣場で、当村のほか亀岡かめおか村・飯田村・大岡村の入会地になっている。また名主・組頭は大岡村を兼務していた。文化期(一八〇四―一八)の戸数三二(造酒屋一)・人数一六九、馬一二。弘化三年(一八四六)の笠間領内人別調(来栖家文書)によれば戸数三三・人数一六六、馬一九。

岩瀬村
いわせむら

[現在地名]鎌倉市岩瀬・岩瀬一丁目・大船おおふな六丁目

鷲峰山じゆぶせんより西北方に連なる丘陵の北側の谷間に位置し、南部を砂押すなおし川が流れ、北はかつら村・公田くでん(現横浜市戸塚区)、東は今泉いまいずみ村、南は大船村、西は笠間かさま(現横浜市戸塚区)に接する。

仁治元年(一二四〇)三月七日の北条泰時下文写(相州古文書)にみえる山内やまのうち庄内の岩瀬郷に由来し、以後室町時代末まで郷名は所見する(横浜市の→山内庄。小田原衆所領役帳に、北条氏尭「百六十貫文 東郡岩瀬郷」とみえる。また天正一五年(一五八七)七月晦日、豊臣秀吉との決戦に備えた北条氏が領内に出した動員令では、侍・凡下を選ばず岩瀬郷から八人の戦闘員を召集している(「北条家定書」県史三)

岩瀬村
いわせむら

[現在地名]野津町王子おうじ 岩瀬

大内おおち村の南東にあり、北は松尾まつお村。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には岩瀬村が大内村など五ヵ村と一括された一冊が含まれ、村位は上。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高九〇石余。中ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高九〇石余・出来高八斗余、田方六七石余・畑方二二石余、柴山・小松山ありと注記される。正保郷帳に村名は記載されず、溜水たまりみず村分に含まれる。江戸時代後期の免は九ツ一分(「雑録」臼杵藩政史料)。文政六年(一八二三)には田中組に属した(万用集)。明治八年(一八七五)大内村など三ヵ村と合併、王子村となる。

岩瀬村
いわがせむら

[現在地名]氷見市岩瀬

上庄かみしよう川の上流域、東は見内みうち村・触坂ふれざか村、西は能登国、南は棚懸たながけ村、北は葛葉くずば村・老谷おいだに村。元和五年(一六一九)の売買勝手申渡書(「産物方御用留」加越能文庫)によれば、当村などから氷見南新みなみしん町への茣蓙・縁取・畳表の売買が許可されている。正保郷帳では高三九六石余、田方一三町八反余・畑方一二町六反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高四二五石・免五ツ三歩、小物成は山役八四匁(三箇国高物成帳)。寛保二年(一七四二)の高免等書上帳(折橋家文書)によれば高三五九石余、うち享保一七年(一七三二)よりの手上高三石、延享元年(一七四四)よりの手上高五斗、小物成の炭役五匁が増えている。

岩瀬村
いわせむら

[現在地名]秋田市金足岩瀬

北流して八郎潟に注ぐ馬踏まふみ(金足川)が村の中央を貫流する。東は山地、西に水田が開け、南は堀之内ほりのうち村と境する。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「弐百八拾三石七斗六升 ゆわせ村」とみえ、慶長三年(一五九八)の御蔵入御物成納口之帳には岩瀬村とあり、太閤蔵入地

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二七七石とあり、享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には三七軒とある。文化(一八〇四―一八)頃の「六郡郷村誌略」は「岩瀬村 高三百六石余、免五ツ、田水堤、家居五十七戸、人二百九十口、馬八十頭」と記す。

岩瀬村
いわせむら

[現在地名]添田町しよう

北西に向かって流れる彦山川の流域に位置し、東は添田町そえだまち村・伊原いばる村、西は新城しんじよう村、北は真木まき村。元和八年人畜改帳では高一〇九石余、家数三二・人数五六(うち百姓四・名子五)、牛七・馬九。延享三年(一七四六)の小倉領郡村高辻帳(小笠原文庫)では高九二石余。郷村高帳では高一三四石余、うち新田高一三石余。旧高旧領取調帳では高一四七石余。

岩瀬村
いわせむら

[現在地名]竹田市岩瀬

玉来たまらい川中流北岸にあり、東はきみその村、西は穴井迫あないざこ村。応永二一年(一四一四)九月八日の直入郡直入郷段銭結解状(志賀文書)に「一所 岩瀬名 六分五八町八段小 一所 同名 六分一弐町」とみえる。地区北部の高台の俗に観音堂とよぶ堂の境内に文和三年(一三五四)銘の総高一・八七メートルの五輪塔が現存する。

岩瀬村
いわせむら

[現在地名]松戸市岩瀬・胡録台ころくだいみどりおか一―二丁目

松戸町の東、下総台地の西端に位置する。慶長元年(一五九六)当村のうち高一三石余が旗本新見氏へ与えられている(川村家文書)。元禄一二年(一六九九)の小金領野馬法度請書では高一一三石、うち一三石が新見領で残りが幕府領。同一五年には幕府領分の検地が実施されている(伊藤家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報