八幡町(読み)はちまんまち

日本歴史地名大系 「八幡町」の解説

八幡町
はちまんまち

現近江八幡市のほぼ中央、北を鶴翼かくよく(八幡山ともいう)、西を日杉ひすぎ山に囲まれた平坦部に位置する。天正一三年(一五八五)鶴翼山に羽柴(豊臣)秀次が築いた八幡城の城下町として成立。城下形成時に鶴翼山麓に掘られた八幡堀が西流し、琵琶湖と当町を結ぶ船入堀として用いられた。西は船木ふなき村・小船木こぶなき村、南は土田つちだ村・なか村・宇津呂うつろ村・はやし村、東は市井いちい村・多賀たが村。文禄四年(一五九五)八幡城は廃城となったが、当町は在郷町として発展し、江戸時代には多くの八幡商人を輩出した。

〔城下町形成以前〕

町域は古代蒲生がもう大島おおしま(和名抄)、中世しま郷の郷域であったと考えられ、また寛弘年間(一〇〇四―一二)頃の創建と伝え、町名の由来ともなった日牟礼ひむれ八幡宮(古くは比牟礼社と称した)の門前にあたる。城下形成直前には町の北東部は多賀村、南東部は市井村の地先で、比牟礼社門前付近には馬場ばば村があったと伝える。また為心いしん町より西の地域は西にし町と通称され、江戸時代の水道施設の状況などから湿沢水田であったと推定される(八幡町史)

〔城下町時代〕

羽柴秀次は八幡築城に合せて城下町の建設に着手、天正一三年のものと思われる一一月二五日の長田孫兵衛書状(京都大学蔵)に「あつち町之儀、ことことく島郷へ被成御引候て、寸の隙なく取乱候」とあって、八幡城下は安土城下を引移して形成されたことがうかがえるが、佐久間さくま町・博労ばくろう町・しん町・永原ながはら町・慈恩寺じおんじ町・池田いけだ町・小幡おばた町・庄神しようがみ(正神)町などは同城下と共通する町名である。なお安土城下では家臣団の居住地と町人居住地が完全には分離せずに混在していたが、八幡城下では堀の内側(北側)武家屋敷、外側が町人町と明確に区画されていた。「八幡町史」や元禄町絵図などによると町人町の町割にあたっては八幡堀掘削の残土で西町地域の湿沢水田を埋立て、八幡城天主閣の延長線上にあたる本町ほんまち通と小幡町おばたちよう通を南北路(縦筋)の、京街道きようかいどう通を東西路(横筋)の基準とした。南北路は東から順に慈恩寺町じおんじちよう通・博労町ばくろうちよう通・永原町ながはらちよう通・仲屋町すわいちよう通・為心町いしんちよう通・魚屋町うわいちよう通・新町しんまち通・小幡町通・本町通・池田町いけだまち通・寺内北町じないきたちよう通・寺内西町通の一二筋、東西路は南から上筋かみすじ通、上中筋通(現中筋通)・京街道通、下中筋通(町の西半、現在は大杉町通)大杉町おおすぎちよう(町の東半)宮前みやまえ通、はま(片原町通とも)などがおもな通りであった。これらの通りによって碁盤目状に区画された地が合せて六六ヵ町に割られた。おおよそ西部が商人町、北東部が職人町とされたが、軍事上大切な鉄砲てつぽう町のみは堀の内部に置かれた。

八幡町
はちまんまち

南流する小駄良こだら川東岸から八幡山西麓にかけての一帯と、八幡山南麓を西流する吉田よしだ川両岸に形成された戦国期からの城下町。戦国期には交通・軍事の要衝という条件を背景に、赤谷山あかだにやま城・赤谷山気良あかだにやまけら(東殿山城)が吉田川南岸に築かれ、安久田あくた村とともに城下として集住化が進んだとみられる。地名と関係の深い八幡社は八幡山南東麓にあり、観応三年(一三五二)五月一九日に書写された那比新宮なびしんぐう神社蔵の仁王護国般若波羅蜜経奥書に「気良庄下保八幡社」とみえる。とくに郡上郡内における政治・経済の中心地として発達したのは、永禄二年(一五五九)郡上東氏本家とその支流遠藤氏との合戦後、八幡山に遠藤盛数が築城してからである。豊臣政権下では八幡城主の稲葉貞通が郡上支配の要として同城を整備・拡大したことから、城下もさらに発達した。慶長五年(一六〇〇)徳川方の遠藤慶隆・金森可重両軍が八幡城攻撃をしたときの合戦図(延宝二年写、大分県臼杵市立図書館蔵)には、「侍町」「コダラ町」「赤谷町」の町名がみられ、城下町としての体裁がすでに整っていたと考えられる。同一九年の岸剣きしつるぎ神社社殿造立棟札(同社蔵)には「郡上郡山田於八幡之城下岸剣之大権現」と、八幡城下の呼称が用いられている。

八幡町
やわたまち

面積:二〇四・二五平方キロ

飽海郡の中央東部に位置し、観音寺かんのんじを扇の要として東方に広がる。町の中央部を鳥海山を源流とする日向につこう川と出羽山地を源流とする荒瀬あらせ川が西流し、町西方で合流、日本海に注ぐ。とくに鳥海山の支流を集める日向川は急流で、沿岸流域は古くから洪水に悩まされた。東は最上郡真室川まむろがわ町、西は酒田市、南は平田ひらた町、北は遊佐ゆざ町と秋田県由利ゆり鳥海ちようかい町に接している。町域西側を南北に走る国道三四五号と、荒瀬川沿いに東西に横断する国道三四四号が観音寺付近で交わる。

荒瀬川や日向川の河岸段丘上には,旧石器時代・中石器時代・縄文時代の遺跡が点在している。当町域は酒田市の一部とともに律令制下では飽海郡井手いで(和名抄)に属していたと考えられる。山麓西側の平野部は平安時代の出羽国府に比定される酒田市の城輪柵きのわのさく遺跡に隣接し、その東西の門を貫く東方延長線上に市条いちじようが位置する。

八幡町
はちまんまち

[現在地名]三春町八幡町・丈六じようろく雁木田がんぎだ鶴蒔田つるまきだ山崎やまざき鎌田前かまたまえ一本松いつぽんまつ天王前てんのうまえ天王下てんのうした沼之倉ぬまのくら大久保おおくぼ

三春城下六町の一つ八幡町を中心とする行政地区。天文年間(一五三二―五五)山城石清水いわしみず八幡宮を城下南東郊外(雁木田)に勧請して八幡町が形成された(「寺社明細書并縮図」三春町歴史民俗資料館蔵)なか町に接続し、会津・須賀川の街道沿いおよそ二町二〇間ほどの両側町。松下氏時代末と推定される年未詳の三春城絵図(浅野文庫蔵)には八幡小路とある。さくら川沿いの裏町は同心どうしん町ともいい、町同心組屋敷がある。川向いには家中屋敷と法華ほつけ寺があり、法華寺口には城下出入口のくろ門があり、門外をした町ともいった。丈六は坂の両側と八幡町裏の片側からなり、家中屋敷、瓦師・畳刺など藩お抱えの職人屋敷、満徳まんとく寺・丈六・明王みようおう院・大桂たいけい寺などがあり、丈六の坂の上には持筒組屋敷や的場があった(宝永四年「三春城下絵図」浪岡家蔵)

八幡町
やわたちよう

[現在地名]津市八幡町津

阿漕あこぎ町の南に続く伊勢参宮街道沿いの町で、城下町と同様に取扱われた。享保七年(一七二二)の名主多兵衛覚書(津市史)に「八幡町立初り寛永六巳年に家居三軒、寛永九年迄に六十四軒に成り(中略)八幡宮御移り、寛永九壬申年九月十日夜」などとあり、これが当町の草創と思われる。寛永九年(一六三二)には「今度八幡新町申付之処、早々家を立候就夫永代御公事令免許畢」と藩主高次より八幡新町への書下が出されている(同書)。この地子免許は、その後寛文一〇年(一六七〇)、宝永元年(一七〇四)にも同様趣旨の文書が出されている。地子免許措置と同時に、明暦三年(一六五七)頃藩が岩田いわたより八幡までの家並造成に力を入れたこともあり、やがて軒並が続き、天和三年(一六八三)三月一〇日付津藩加判奉行連署申渡状(宗国史)に「一、当町・塔世・上浜・岩田・八幡・末々の町や茶や(に)、旅人一宿仕らせ候事、堅令停止候」とあり、すでにこの頃は八幡町も茶店などが軒を並べていたことが知られる。

八幡町
はちまんちよう

[現在地名]盛岡市八幡町

盛岡八幡宮前より西へ延びる三町ほどの町人町(盛岡砂子)。東は八幡片原はちまんかたはら町、西は生姜しようが町、南は久昌きゆうしよう寺田圃、北は志家しけ田圃に接する。当町のうちの片原町寄り一町ほどをさかうえという。幕末の城下図(葛西氏旧蔵)には生姜町寄りから一丁目・二丁目・三丁目・四丁目と記される。「盛岡砂子」によれば、延宝八年(一六八〇)のちの盛岡藩五代藩主南部行信は盛岡八幡宮造営に際し、水田を埋立てて町屋とし、八幡町を開いた。そのため田地五〇〇石が潰地となったとされる。八幡宮の門前町として開設され、市日は、同年には八月一日・三日・六日・八日・一一日・一三日・一六日であったが、翌九年から八月一日より一六日まで毎日となり、他町の市日は禁止となった。

八幡町
はちまんちよう

[現在地名]石狩市八幡・八幡町・八幡町大曲はちまんちようおおまがり八幡町五の沢はちまんちようごのさわ八幡町はちまんちようシップ・八幡町はちまんちようシップ中島なかじま八幡町俊別はちまんちようしゆんべつ八幡町はちまんちようシララトカリ・八幡町高岡はちまんちようたかおか八幡町高岡地蔵沢はちまんちようたかおかじぞうざわ八幡町高岡はちまんちようたかおかシップ・八幡町来札はちまんちようらいさつ八幡町若生はちまんちようわかおい緑ヶ原みどりがはら

明治四年(一八七一)から同三五年までの町。石狩郡のうち近世には「ワツカヲイ」と記録されている地域の一部と、明治時代の開拓移住民によって開かれた高岡・五ノ沢および丘陵地の山地を含む広い町域である。東は当別とうべつ(現当別町)、西は石狩川、南は若生わかおい町と生振おやふる村、北は厚田あつた聚富しつぷ(現厚田村)。「石狩国地誌提要」に「川東」として「八幡町」がみえる。一八五九年(安政六年)当地に鎮祭された石狩八幡神社は明治七年に弁天べんてん町に移ったが、同八年に当別村に通ずる道路が開通、同一八年に山口県からの移住団体二〇戸・一〇六人が高岡に入植、また対雁ついしかり(現江別市)に移住していた樺太アイヌが同一九年河畔のライサツ(来札)に再移住したことなどから(「江別市史」など)、生産物の集散地、日常購買品の商店街として急発展した。

八幡町
はちまんまち

[現在地名]仙台市八幡一―五丁目

中島なかじま丁の北裏。大崎八幡神社の門前町で、同社落成の慶長一二年(一六〇七)頃の取立てである。同社東隣に別当寺龍宝りゆうほう寺があり、正保仙台城絵図に禰宜町、安政仙府絵図に東西に延びる同名の町屋敷がみえる。町並の長さは三町あった(奥陽名数)作並さくなみ街道が通り、辻番所が三ヵ所に設けられ(残月台本荒萩)、城下の西はずれに位置したため戸扉のついた町切という柵が置かれ、夜間の警戒施設であった。町の規模は享保八年(一七二三)の軒数九八(仙台萩)、明和九年(一七七二)の宅地九〇、男八〇六・女五三五(封内風土記)、弘化二年(一八四五)の軒数一〇八(奥陽名数)

八幡町
はちまんちよう

面積:二四二・六七平方キロ

郡上郡の中央部に位置し、長良川水系の吉田よしだ川・小那比おなび川および木曾川水系の鬼谷おんだに川流域からなる。東は和良わら村、西は武儀むぎ板取いたどり村、南は美並みなみ村・武儀郡上之保かみのほ村と同郡洞戸ほらど村、北は大和やまと町および明方みようがた村と接する。山林原野が全体の九二パーセントを占める。集落は吉田川沿いの段丘に集中し、近世の八幡町は八幡城の城下町として発展した。現在も郡内における経済・文化の中心であることは変わらない。近世ほとんどの村は、幕府領の一時期をのぞき郡上藩領として推移した。村の項目で支配に関する記述のないものは郡上藩領である。長良川に沿って国道一五六号と長良川鉄道(旧国鉄越美南線)が走り、周辺各町村への県道も整備され、交通の要衝にもなっている。

八幡町
やわたまち

[現在地名]市場町八幡

山野上やまのうえ村の東、大野島おおのじま村の北東部に位置し、撫養むや街道が通る。八幡村とも記載される。中世より秋月あきづき八幡宮の門前であるとともに、東西路の要所、あるいは北の切幡きりはた寺に向かう遍路道、南の粟島あわじま経由の源太げんた(現吉野町)への分岐点であった。大野島のうちであったとされ、蜂須賀家政の入国に伴って徳島城下の形成のために当町など領内の町人・商人が移住を勧められたと伝え、のち還住する者には諸役を免じたという(八幡町史)

八幡町
はちまんまち

[現在地名]金沢市東山ひがしやま一―二丁目・八幡町

四丁三番しちようさんばん町の南端に近い部分から北東へ続く約五六間(延宝町絵図)の通りと、茶屋ちやや町から卯辰うたつ八幡宮前を通って北西へ延びる約三二間(同絵図)の通り(八幡宮参詣道)とでつくるT字形の通りを挟む両側町。北端は再び四丁三番町に続く。町名は慶長四年(一五九九)卯辰八幡宮が造営されたのを機に、以後おいおい町地となったことにちなむ(金沢古蹟志)

八幡町
はちまんまち

[現在地名]高山市八幡町・桜町さくらまち

江名子えなこ川の右岸、きた山の西山麓に位置する。町の長さ三町余(寛政元年「高山三町村覚帳」高山市立郷土館蔵)一之町いちのまち村に所属し、南は江名子川を挟んで寺内じない町、西は一之新いちのしん町。町名は北山山麓に建つ三福寺さんふくじ村八幡神社の社前に発展したことによると伝える。同社は安川やすかわ通以北の三町と寺内町・八幡町・一之新町の俗に下町とよばれる地域の産土神。

八幡町
やわたまち

[現在地名]飯田市松尾 八幡

島田しまだ村の西方にあるはとみね八幡宮の門前町。遠州往還(現国道一五一号)と秋葉道の分岐点にあたり、交通上の要衝にあったため江戸時代中期以降は在郷町として栄えた。

「飯田町組頭日記」(市立飯田図書館蔵)に「嶋田村八幡神宮寺門前家並商物之儀は、御城下町諸商売筋同様相心得罷在候趣ニ御座候得共、右場所は八幡参詣賑之ためニと御座候、享保年中存来之商売は御免許被仰付、塩・茶之外ハ何品ニ不寄諸色御停止之品も無之候」とあるように、城下町並の商売が許されていたため、ついには「御城下町衰微之基ニ而、必至と困窮可仕歎ケ敷奉存候」と飯田城下町商人を嘆かせるほどの繁栄をみせた。

八幡町
はちまんちよう

[現在地名]四日市市八幡町・きた町・なか町・北条きたじよう

八万町とも記す。中町から北の三滝みたき川へ通ずる路地に成立した町。西は北町、東は北条町。旧版「四日市市史」によれば寛永年間(一六二四―四四)に八幡町の名が出、八幡瀬古はちまんせことも称したという。しかし延享二年(一七四五)の四日市古絵図写(四日市市立図書館井島文庫蔵)、明和五年(一七六八)の四日市町絵図(同文庫蔵)はいずれも「八幡瀬古」とある。同絵図によれば、南北一四〇間、路地の西側には信光しんこう寺・蓮生れんしよう寺、東には八幡宮があり、三滝川の堤近くに牢屋がある。また東側の地は耕地で、田二町五反余、畑七反余、三滝川に沿って北東は亥改いのあらため川原新開で、田六反余、畑一町五反余。

八幡町
やはたまち

[現在地名]水戸市八幡はちまん

下金しもかね町の西より北に入り八幡宮に通じる町。常葉ときわ村の内であるが近世中期までに形成された新町。「水府地名考」に「昔は此町及び八幡の社地皆寺々なり」とあるが、のち諸士の宅地として「一軒前表六間に裏行三十三間つつ」を与えられた。

八幡町
はちまんちよう

[現在地名]甲府市美咲みさき一―二丁目

御崎みさき町に西続きの町人地で、上府中二六町の一町。東西の通りで西端をあい川が南流する。城下では北西端に位置する。慶安三年(一六五〇)の府中伝馬人足割帳(県立図書館蔵)に町名がみえ、その由来は古府中こふちゆうの八幡宮の近傍にあった地名を移したことによるといい(甲斐国志)、旧地には古八幡の地名が残る。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(県立図書館蔵)によると南側七四間・北側六三間半。東西の通りに手子てこ・御崎・八幡の小規模の町が続くことから、三町を兼帯する名主が選ばれていた。人数は寛文一〇年(一六七〇)四六人(「御用留」同館蔵)・宝永二年(一七〇五)五一人(「上下府中人数覚」同館蔵)、宝暦六年(一七五六)二九人、ほか女二人が勤番屋敷へ奉公(「宗門帳人数」同館蔵)

八幡町
やわたちよう

下京区西洞院通五条上ル

南北に通る西洞院にしのとういん(旧西洞院大路)を挟む両側町。北側は万寿寺まんじゆうじ(旧樋口小路)にも面する。

平安京の条坊では左京六条二坊四保一五町東側及び同三坊一保二町西側、平安中期以降は樋口西洞院大路南にあたる。院政期、東側は、文章道を家学として朝廷に仕えた大江氏歴代の書庫江家文庫ごうけぶんこの一部にあたっていた。

八幡町
はちまんちよう

[現在地名]岐阜市加納八幡町かのうはちまんちよう

中山道に沿う両側町。加納二六町の一で、加納町の東入口。加納城の北東にあたり、城の鬼門除けとして八幡宮(現加納八幡神社)が当地に建てられ、町名が付けられた。町は八幡宮の東に広がる。町の中ほどより南へ名古屋方面に向かう街道(名古屋街道)が延び、北は荒田あらた川の板橋を越えるとあら町に通じる。江戸時代商工業地域として栄えた。

八幡町
はちまんちよう

[現在地名]函館市八幡町など

昭和六年(一九三一)九月に設定された町で、宮前みやまえ町の北に位置する。それまでの函館区大字亀田村かめだむら村内むらうちの一部に字八幡社後手はちまんしやうしろて・字田家たやの一部を加えて町域とした(函館市字地番改正調書)。町名は当地に祀られる亀田八幡宮にちなむ。当町成立以前の大正三年(一九一四)には北海道函館師範学校(現北海道教育大学函館校)が開校し、同九年には函館水電株式会社の亀田火力発電所が建造されている。昭和一〇年の世帯数三四一・人口一千九九六。同一六年八幡小学校が開校。

八幡町
はちまんちよう

[現在地名]行田市行田

かみ町の南、あら町と並行する南北の両側町で、長さ一町三三間余(忍藩領町村名鑑)。「風土記稿」は「ハチマンマチ」と振仮名をつけ、寛保二年(一七四二)の町絵図(要中録)は「八わた町」と記す。上・下・新のいわゆる行田三町は古くからあったが、「新町八間、北谷切次きと八幡町築立」の町域拡張は明暦元年(一六五五)に行われ、佐間さま村の八幡社を町内に引いて八幡町と名付けた(同書)。西の新町と北の上町との間に小堀が残っていたが、これは中世のおし城外堀の名残であった。八幡社の神主は大宮岩井中務幕下の松岡若狭で、城内諏訪社の神主高木長門も、八幡社と道を隔てて住んでいた(同書)

八幡町
やはたちよう

[現在地名]静岡市伝馬町てんまちよう栄町さかえちよう

華陽院門前けよういんもんぜん町から南に折れて有渡うど八幡に向かう道の入口にある両側町。西側南端の町裏に臨済宗安南あんなん(現在は臨済宗妙心寺派として沓谷に所在)、東側町裏に浄土宗円光えんこう院がある(以上、町方絵図)。貞享三年(一六八六)の時之鐘鋳直集銭帳(県立中央図書館所蔵文書)によると、家数は丁頭家一・本家二八・借家一三。元禄五年(一六九二)の町数等覚帳(同文書)では八幡小路町とみえ、家数二九・人数一四三(うち山伏八・比丘尼一一)、ほかに禅宗安南寺・浄土宗円光院がある。

八幡町
はちまんちよう

[現在地名]丸岡町八幡町

城下郭外南にあり、足軽組屋敷があった。当町域はもと猪爪いのつめ村の地籍で、猪爪八幡宮のあったことによる町名か。しかし町名は明治五年(一八七二)の調査で初めてみえ、家数六三(うち士族五六・卒族六)、人数三〇一で、台雲たいうん寺があった。台雲寺(曹洞宗)は、有馬氏が、慶長一九年(一六一四)延岡のべおか(現宮崎県延岡市)入部ののち、同地にあった西林さいりん寺を廃して、氏祖経澄の法号をもって建立、一〇〇石を寄進、有馬家の菩提所としたのに始まる。

八幡町
はちまんちよう

[現在地名]大津市中央ちゆうおう一―二丁目

井筒いづつ町の一筋東にある横町で、南はきよう町通の上小唐崎かみこがらさき町、北は中町通のやなぎ町。町名は八幡社に由来する。天和二年(一六八二)の本堂奉加帳(九品寺文書)に町名がみえ、元禄八年町絵図では町会所を含め家数合せ二三。安永一〇年(一七八一)当町の篠屋儀兵衛が園城おんじよう寺三別所の山頂に米相場の気色見の場を拝借したいと出願し、許されている(大津御用米会所要用帳)

八幡町
やはたちよう

上京区小川通下立売下ル

町の中央を南北に小川おがわ通が通る。平安京の条坊では左京一条二坊三保一三町の中央の地で、儒者滋野貞主の邸宅「滋野井」にあたる(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に、「八満町」とみえ、以後この呼称が多く用いられた。南西に浄土真宗本願寺派(西本願寺)八幡はちまん正覚しようがく寺がある。「坊目誌」は宝永五年(一七〇八)の大火で焼失した八幡宮があったという。

八幡町
はちまんまち

[現在地名]長浜市朝日町あさひちよう

南北に細長い町域で、西は南から南新みなみしん町・紺屋こんや町・箕浦みのうら町・横浜よこはま町に接し、東は村方である。短い東西通りを五本含み、南と北の端の町筋は片側町となる。朱印地。慶安四年(一六五一)の検地帳(川崎文書)に屋敷地四三があげられ、うち明屋敷一一・明地三。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数三八(借家五)、男五八・女七三で、町代・横目が置かれ、紺屋三・医者・大工・相物屋・鏡研屋がいた。

八幡町
はちまんちよう

[現在地名]野辺地町 野辺地・笹館ささだて馬門道まかどみちなど

通称八幡町。野辺地村の町方の西北部に位置し、奥州街道に沿う。東はしん町、北ははま町に接する。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に野辺地町七町の一として町名がみえる。藩政末期の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図によれば奥州街道は新町の西端から北へ折れ、しばらく進んでさらに西へ折れるが、町はこの街道に沿って鉤形をなす。

八幡町
はちまんまち

[現在地名]魚津市新角川しんかどがわ二丁目

紺屋こんや町・橋場はしば町の東にあり、東は魚津町田地方うおづまちでんじがた大光寺だいこうじ村。魚津町田地方の八幡社の前に開かれたのが町名の由来という(下新川郡史稿)。享保五年(一七二〇)に町立てされたようで(魚津町誌)、魚津町田地方領の地を請地している。

八幡町
はちまんちよう

[現在地名]福井市照手てるて一丁目

町の西に続く町で、北はやま町、南裏側は足羽あすわ川河岸である。町域の西端に、慶長六年(一六〇一)一乗谷から八幡社を移したため町名となり、慶長年間北庄四ツ割図にみえ家数は三三。

八幡町
やはたまち

[現在地名]佐和田町八幡町

上八幡村を区画してできた町。寛永二〇年(一六四三)の八幡砂垣文書(岩木文庫蔵)には一二ヵ村組合のうちとして「八幡町」がみえるが、町場化したのはおそらく元和年間(一六一五―二四)小木おぎ街道(現国道三五〇号)成立期頃であろう。元禄七年(一六九四)の検地帳(八幡町区有)によると皆畑村で、上畑一町九反余・中畑五反余・下畑五反余・下々畑五反余・砂畑六反余・屋敷一町三反余。

八幡町
はちまんまち

[現在地名]大館市八幡町

城下東端部に位置し、大館所預の家士の居住する武家町。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図および享保一三年(一七二八)の大館城下絵図に「八幡町」とみえる。東端部に大館佐竹氏の鎮守八幡神社があるので、この名が生ずる。

八幡町
はちまんちよう

[現在地名]桑名市八幡町

外堀そとぼりの南にある中級藩士の屋敷地。松平(久松)定綱が藩主の時(一六三五―五一)にできたが、それ以前に八幡社があり、町名となった(久波奈名所図会)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「八幡町」の意味・わかりやすい解説

八幡町【はちまんまち】

滋賀県近江八幡市の中核をなす地域で,北を鶴翼(かくよく)山,西を日杉(ひすぎ)山に囲まれた平坦部に立地する。町は1585年鶴翼山に羽柴(豊臣)秀次が築いた八幡城の城下町として成立。町名は平安時代の創建を伝える日牟礼(ひむれ)八幡宮の門前にあたることに由来。城下形成時に鶴翼山麓に掘られた八幡堀が西流し,琵琶湖と当町を結ぶ船入堀として用いられた。1595年八幡城は廃城となったが,当町は在郷町として発展し,江戸時代には多くの八幡商人を輩出した。八幡商人は多くの近江商人のなかでも最も早く世に知られ,行商により大成すると各地に出店を設けた。近江商人の一方の雄,日野商人の小規模な出店とは違って,〈八幡の大店(おおだな)〉と世に評された大規模な出店が特色で,江戸出店は日本橋の1丁目を中心に,一帯に軒を並べた。その数は1651年に10軒,1700年には15軒を数えた。出店では特産の蚊帳(かや)・畳表などを扱い,また京・大坂・西国筋の名産を東国へ持ち下り,東国の仙台袴地・結城縞(結城紬)・桐生絹・出羽紅花などを西国筋に売りさばく,いわゆる〈鋸商法〉で知られた。蝦夷地へも進出し,〈場所請負制〉によって得た海産物を商った。大名貸を行う者も多かったが,幕末に相次いで豪商が倒産,これは大名貸の不償還によるものといわれる。

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