吉岡村(読み)よしおかむら

日本歴史地名大系 「吉岡村」の解説

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]松前郡福島町字吉岡・字館崎たてさき・字豊浜とよはま・字美山みやま

近世から明治三九年(一九〇六)まで存続した村。近世は東在の一村で、吉岡川の流域に位置し、北方は宮歌みやのうた村、東は津軽海峡。「新羅之記録」によると、康正三年(一四五七)コシャマインの蜂起で道南十二館のうち一〇館までが陥落したとされ、一〇館のなかには吉岡の古名である穏内おんないの館も含まれている。館崎台地にある蝦夷館山えぞだてやまはチャシの可能性が指摘されている(福島町史)

シャクシャインの戦に関連して「津軽一統志」に「おん内 小船 澗有 家五十軒程」とみえる。また「れいひけ村より半里 をんない村迄 家数三、四十軒」「をんない村より半里 しらふ村迄」とも記される。天和元年(一六八一)頃の松前国蝦夷図(市立函館図書館蔵)には吉岡とみえるので、この頃改名したと考えられ、元禄郷帳でも「よし岡村」とある。享保十二年所附には南の礼髭れいひげ村の次に「吉岡村 松前大泊り川より三里拾六丁」とあり、勘解由殿澗、「夷カ沢 一里」、「宮の歌村」と続く。明和元年(一七六四)には当村と礼髭村の納入税役物の三分の一が松前広長の知行とされている(「村上系松前氏系譜」中島常行家文書)。天保郷帳では東在に吉岡村とみえる。天明六年(一七八六)の「蝦夷拾遺」によると吉岡村は五〇戸足らず、二六〇人足らず。木村「蝦夷日記」の寛政一〇年(一七九八)五月二〇日の記事によると吉岡澗は「東向の湊ニ而城下澗より風の憂」なく、五〇艘ほど入船することもある。三厩みんまや(現青森県三厩村)より七里。文化六年(一八〇九)の村鑑下組帳(松前町蔵)によれば名主八兵衛、年寄勘左衛門・松右衛門・与八郎。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]掛川市吉岡

南流する原野谷はらのや川の流域にあり、南西は高田たかだ村、南は各和かくわ村。原谷はらや村とも称したというが(遠江国風土記伝)、「寛文朱印留」に載る寺領安堵の朱印状からは原谷村は当村および西山にしやま村・幡鎌はたかま村など周辺の村々の総称でもあったと考えられる。天明四年(一七八四)の吉岡邑風土記書上帳(吉岡家文書)によると、天文―弘治(一五三二―五八)原左衛門尉・原武蔵守の支配下にあったという。戦国期には原田はらだ庄のうちに含まれ、吉岡郷と称された。大永五年(一五二五)六月一七日、「原田荘吉岡」の徳順が大般若波羅蜜多経の修理を行っている(大般若経奥書写「建穂寺編年」見性寺蔵)

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]綾瀬市吉岡・綾西りようせい一―五丁目

目久尻めくじり川が南流し、北は早川はやかわ村、東は深谷ふかや村、南は用田ようだ(現藤沢市)、西は本郷ほんごう村・杉窪すぎくぼ村・大谷おおや(現海老名市)に接する。

天文二四年(一五五五)一二月三日の岡本八郎左衛門宛の北条家朱印状写(県史三)に「岡本太郎左衛門子孫無之ニ付而、手代之儀申付候、然ハ東郡吉岡郷乙卯歳検地五拾九貫八百文定納之内弐拾貫四百文扶持給ニ出候、残卅七貫四百文之処、速相納、可致御蔵収候」とある。なお小田原衆所領役帳には岡本八郎左衛門(秀長)「五拾九貫八百文 (天文二三年)検地辻 東郡吉岡 此内卅貫文手代之者三人ニ被下」とある。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]米子市吉岡

熊党くまんとう村の西、日野川東岸にある。初め三軒屋さんげんや村と称し、また熊党河原くまんとうがわらとも称した小村で、熊党村の枝郷。日野川縁に中島なかしま船場ふなば大川端おおかわばたなどの字名がある。嘉永六年(一八五三)に熊党村から分村(「蚊屋島神社社帳」蚊屋島神社文書)、安政六年(一八五九)別所吉岡べつしよよしおか村と改称、明治二年(一八六九)の下札から本村と分けられたという(藩史)。現中島の別所氏の家伝には、別所長治の末裔別所藤四郎また八三良が岸本きしもと(現岸本町)より熊党河原南三軒屋に移住、元禄年間(一六八八―一七〇四)の大洪水により、全戸中島村に移住したと記され、これによれば当村は元禄以前から開発されていたことになる。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]河内村吉岡

手取川右岸、吉野よしの(現吉野谷村)の北に位置する。同村との境に雲龍うんりゆう山があり、集落はその北西麓、手取川の狭い河岸段丘上にある。「廻国雑記」によると、文明一八年(一四八六)六月頃に白山より下山した道興は、「吉岡といへる所」で休息している。天文六年(一五三七)六月三〇日、当地の有力土豪と考えられる吉岡七郎左衛門が毘沙門びしやもん(現京都市山科区)領の能美のみ湯谷ゆのたに(現寺井町)を押領したのに対し、本願寺証如が知行回復の申付を行っているが(「天文日記」同日条)、翌年九月七日にも再度申付けが行われている(同書同日条)

吉岡村
よしおかむら

面積:二〇・六八平方キロ

北群馬郡の南部東側に位置し村域は東西にやや長く、榛名はるな山東麓から利根川にかけて広がる緩やかな傾斜地に展開する。東端を利根川が南流し、同川を挟んで東および南は前橋市、西は榛東しんとう村、北は伊香保いかほ町・渋川市と接する。標高は低い所で一〇〇メートル、最も高い山地は九〇〇メートルに達するが、四〇〇メートル未満の土地が全体の八〇パーセントを占め、滝沢たきざわ川・吉岡川などの榛名山中の湧水を主たる源泉とする中小の河川が利根川に向かって東流する。これら諸河川の流域には早くから田畑が開かれ、それを中心に集落が形成されてきたが、これらが古くからみられたことは、南下みなみしも小倉おぐら大久保おおくぼなどの古墳群をはじめとして合せて四二一基(上毛古墳綜覧)の古墳が存在したことにもうかがえる。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]氷見市吉岡

西はだいら村、南西は平沢ひらさわ村、北は能登国鹿島かしま大泊おおとまり(現石川県七尾市)石動山せきどうさん丘陵南東麓を開いて小規模な水田が階段状につくられ、人家は中田なかた村から石動山へ至る道筋に集まる。当村と平村・平沢村を合せて北山きたやま郷とも称した。正保郷帳では高八六石余、田方一町一反・畑方四町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高九五石・免三ツ、小物成は山役二八匁・蝋役四匁(三箇国高物成帳)。明暦二年(一六五六)の百姓九人(「加納組高覚帳」円仏家文書)。免三ツは射水いみず郡南条組・上庄組・八代組内では最も低率に属する。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]真野町吉岡

小佐渡山麓の台地上にあるが、水田は多くは国仲くになか平野にある。北は四日町よつかまち村、東は竹田たけだ村、西は新町しんまち村、南の小佐渡山地を隔てて川茂かわも(現赤泊村)に接する。村内を佐渡国府に至る北陸道松崎まつさき(現畑野町)雑太さわた駅の古道が通過する。雑太駅・佐渡国分尼寺などの比定地で、総社そうしや神社などもある。承久の乱後は佐渡守護代本間氏の庶子家吉岡本間氏(吉岡殿)が分立し、戦国期末までつづいた。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]中島村吉岡

村の中央を阿武隈川が東流し、南は上野出島かみのでじま(現東村)、北は滑津なめづ村、東は石川郡赤羽あかばね(現石川町)、西は川原田かわらだ村。吉岡は滑津村の枝郷で古くは万五郎田まんごろうだと称したという(中島村史)。初め会津領、寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保元年(一七四一)越後高田藩領浅川あさかわ陣屋(現浅川町)支配、文化六年(一八〇九)から釜子かまのこ陣屋(現東村)支配となった。

慶安三年(一六五〇)本多忠義の検地では高六九五石余(白河古領村郷高帳)

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]四街道市吉岡・鷹の台たかのだい一―四丁目

現市域南端、南波佐間なばさま村の南に位置。集落は鹿島かしま川谷支谷が樹枝状に切込んだ台地上にある。最南端の十町歩が原じつちようぶはら(現吉岡新開)東金御成とうがねおなり街道が一直線に通り、慶長一九年(一六一四)の東金御成街道作帳によると高三六〇石、道普請二町を割当てられている。元禄郷帳では高四五五石余。なお「千学集抜粋」に天文一九年(一五五〇)の妙見宮(現千葉市千葉神社)遷宮にかかわって吉岡とみえる。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]観音寺市吉岡町

村黒むらぐろ村の東、財田さいた川左岸に位置。天保郷帳に吉岡土井よしおかどい村とみえ、古くは吉岡村・土居村二ヵ村と注記がある。寛永国絵図に二ヵ村名がみえるが、石高は高屋たかや郷に一括されている。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳にも二村が載り、吉岡村の高二五四石余、土居村の高二三五石余。同一八年の小物成は吉岡村綿九匁八分、土井村綿五匁二分(山崎領小物成帳)。寛文四年(一六六四)の丸亀藩高辻帳には吉岡土井村とあり、高三八五石余(拝領高)。「西讃府志」では高三九〇石余。村の規模は東西六町・南北九町五〇間、田畝は四九町二反余、うち畑六町一反余・屋敷一町七反余。家数一三〇・人数四六五、牛四七・馬一。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]余目町吉岡

茗荷瀬みようがせ村の南東にある。慶安二年(一六四九)庄内藩家老長谷川権左衛門による開村で、西の枝郷三軒屋敷さんげんやしきは当村開発のとき堰番を置いた所とされる(北堰問答記)。延享三年(一七四六)の狩川通大概手控帳(高橋文書)では、吉岡村は三軒屋敷村と合せて一村とされ、高五三七石余、免四ツ四分、家数五〇、馬三。明治二年(一八六九)の村明細帳(吉岡区有文書)では高五五五石余、田五二町二反余・畑三町余、家数四七、人数三〇三(男一六八・女一三五)、馬一三。諸職は紺屋・葺師各一、小商人三。弍郡詳記では吉岡村の家数四六、三軒屋敷五。用水は北楯大きただておお堰分水堰の家居新田かずえしんでん堰を利用。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]下條村吉岡

現下條村の南部に位置する。江戸時代には幕府領に属し、初期には朝日受永・千村平右衛門・知久氏らが支配した。その後、下瀬しもぜ(現飯田市)駒場こまば(現阿智村)今田いまだ(現飯田市)飯島いいじま(現上伊那郡飯島町)などの代官所の支配下に入ったが、元文四年(一七三九)からは知久氏の預り領となった(下條村誌)。天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳によれば、当村と菅野すげの村は一括して村高が一七八石余と記載されている。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]木造町 千年ちとせ

北は下木作しもきつくり村、東は木作きつくり村に続き、西は田圃を隔てて上中館かみなかたて村。

正保年間(一六四四―四八)の開村という(西津軽郡史)。天和三年(一六八三)の広須御新田所図に「吉岡」とある。村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、享保一一年(一七二六)これまでの入組いりくみ村が吉岡村と改名されたとある。「津軽平野開拓史」には同一二年以後に広須組に属するとある。元文元年(一七三六)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて二四町二反九畝一九歩、村高一九六・〇八六石とある。うち田方一九町二反四畝一〇歩で一七二・三二七石、上田から下々田まで設定され、中田が五町二反一畝余、下田が七町四反五畝二二歩、五九・六五八石あり、畑方は五町五畝九歩で二三・七五九石、上畑から下々畑まで設定され、中畑が二町二畝一一歩、一〇・一二一石とある。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]富山市吉岡・若竹町わかたけちよう千俵町せんびようまち

経力きようりき村の南に位置し、南北に飛騨街道(布市道)が通る。江戸初期は加賀藩領大溝呂木おおみぞろぎ村のうちで、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となり、のち吉岡村と森田もりた村に分村したという。ただし元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳や天保郷帳にも大溝呂木村の村名がみえる。大溝呂木村は正保郷帳では高一千一〇〇石余、田方七三町余・畑方三反余。明暦二年(一六五六)の村御印留によると草高一千一六一石、免三ツ五歩、小物成は野役三六匁。

吉岡村
よしおかむら

明治三九年(一九〇六)吉岡・宮歌みやのうた礼髭れいひげの三村が合併して成立した二級町村。松前郡に属し、現福島町の南端を占め、北は福島村、東から南は津軽海峡。旧村名を継承する三大字を編成。同四五年吉岡漁業組合設立。大正五年(一九一六)の戸数四四一・人口二千五三三。同六年には船四〇二艘(函館支庁管内町村誌)。同一三年大字が廃されて七字を編成した。昭和元年(一九二六)から六年の歳月をかけて礼髭川上流の山塊を削り、白神しらかみ(現松前町)方面に向かう吉岡峠の新道が開削された(松前町の→吉岡峠。同五年吉岡船入澗が竣工。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]瀬高町文広あやひろ

芳司ほうじ村の南東にあり、南は大竹おおたけ村。下妻しもつま郡に属する。村名は当地にあった古城(吉岡城)の城主吉岡氏にちなむともいう。文禄五年(一五九六)立花親成(宗茂)から佐田平右衛門尉(鎮実)に吉岡村内一〇一石余が与えられた(「立花親成知行宛行状」佐田家文書)。元和七年(一六二一)の郡村帳では玄蕃高三二三石余・新田高八斗余、小物成は山年貢米一石余、川役銀七五匁・鮎五分。旧高旧領取調帳では高四五五石余、幕末から明治初年の反別三八町一反余(郡郷)

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]野津町吉田よしだ 吉岡

川平かわひら村の北西、吉田川流域にあり、北は篠枝ささえだ村。野津氏庶家吉岡氏の名字の地。豊薩合戦の際、野津院の士広田大膳亮らは島津軍と吉岡原で戦って島津方の伊地知丹後守らを殺害、さらに岩瀬いわせ塞を奪回したという(大友家文書録)。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には吉岡村が一木ひとつぎ村など四ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高六二石余。下ノ村組に属した。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]上越市吉岡

上池部かみいけべ村の南東に位置する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「蔵王別当分吉岡村」とみえ、「本納(四カ)拾弐石七斗三升四合 縄高(五カ)拾三石七斗五升四合六夕八才」家一〇軒・三五人。慶長二年(一五九七)の検地帳写(安禅寺文書)によれば蔵王分・光明寺分・称念寺分・楡井分・五十嵐分・小田分を合せて本府六八石二斗五升(野手を含む)・見出三二石三斗三升、ほかに居屋敷一石五升。

吉岡村
きちおかむら

[現在地名]大栄町吉岡

臼作うすくり村の西に位置する。寛永一〇年(一六三三)の入会野争論の絵図(吉岡区有文書)に村名がみえる。慶安元年(一六四八)には旗本斎藤領(松子区有文書)。元禄一一年(一六九八)の上ケ知請取之節万覚書(秋山家文書)によれば、高四六九石余で与力給知、ほかに真言宗大慈恩だいじおん寺領二〇石がある。承応二年(一六五三)に検地が行われた。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]倉敷市吉岡

笹沖ささおき村の南に位置する。寛永六年(一六二九)の開発新田で(「鴨方領明細帳」池田家文庫)、寛永備中国絵図に吉岡新田とみえる。岡山藩領であるが石高の記載はない。寛文一二年(一六七二)に鴨方藩領になったと思われ、幕末まで同藩領。鴨方領明細帳によれば高五五〇石余、田畑三四町二反余。貞享元年(一六八四)の信州様御分知御見合帳には新田の部に吉岡村とあり、高五五六石余、物成二二八石余。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]安来市吉岡町

伯太はくた川を挟んで九重くのう村・野外のと村の対岸(左岸)に位置し、南西方を吉田よしだ川が流れる。北は月坂つきざか村。正保国絵図に村名がみえ、元禄十年出雲国郷帳によると高三七〇石余、うち永荒が三〇石余あり残高三四〇石余。寛文四年(一六六四)には本田高三五七石余・新田高五石余。「雲陽大数録」では高二七〇石。「郡村誌」によると田二九町七反余・畑六町五反余・宅地一町八反余・山林一〇町余、戸数三九・人数一六一、牛一六、荷車二。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]豊津町吉岡

上原かんばる村の東に位置し、はらい川東岸の段丘上の小平野に集落が形成されている。天文一二年(一五四三)七月二九日の城井正房知行宛行状(進文書/伊良原)によれば、城井正房は針(進)弥五郎に吉岡名八段と屋敷一ヵ所を宛行っている。元和八年人畜改帳では給人二人分の高二三七石余、家数五・人数一〇(うち庄屋一・百姓二)、牛二。

吉岡村
よしおかむら

[現在地名]新吉富村吉岡

垂水たるみ村の西に位置し、東境をくろ川が北流する。南西境にだい池がある。江戸時代の領主の変遷は垂水村に同じ。「築上郡志」はなか村より分岐したと記すが、不詳。正保国絵図に村名がみえ、高二三〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報