坂田郡(読み)さかたぐん

日本歴史地名大系 「坂田郡」の解説

坂田郡
さかたぐん

面積:二二二・三七平方キロ
米原まいはら町・近江おうみ町・山東さんとう町・伊吹いぶき

湖東から湖北にかけて位置し、かつての郡は、北は浅井あざい郡、南は犬上いぬかみ郡、東は美濃国、西は琵琶湖に面していたが、近代以後、湖岸南部地域が彦根市に、同北部が長浜市となり、浅井郡の東部(東草野谷地域)が伊吹町に含まれたため、現在の郡は、北は長浜市・岐阜県揖斐いび郡、南は彦根市・犬上郡多賀町、東は岐阜県揖斐郡・不破ふわ郡・養老ようろう郡、西は琵琶湖に面し、北から伊吹町・山東町・近江町・米原町と並ぶ。北東には伊吹山(一三七七・四メートル)、南東には霊仙りようぜん(一〇八四メートル)の山地があり、中央部には低いよこ山山地が南北に連なり、北端部をあね川、郡の南寄りを天野あまの川が流れる。普通、坂田郡は横山山地と天野川により三つに分ける。すなわち天野川より南を河南部、横山の東側を山東部、西側を山西部と称する。

「日本書紀」推古天皇一四年五月五日条に「坂田郡水田二十町」を鞍作鳥に与えたとあり、同書天智天皇三年(六六四)一二月条には「坂田郡人小竹田史身」とみえており、坂田評の存在をうかがわせる。承平元年(九三一)成立という「竹生島縁起(諸寺縁起集)に「気吹雄命、坂田姫命二神、下坐淡海国坂田評之東方」と坂田評の存在を示す記述があるが、その史料性に疑問が残る。異表記に「尺太郡」(長屋王家木簡)、「積太郡」(天平五年「山背国愛宕郡計帳」正倉院文書)があるが、六国史等の表記はすべて坂田だから、これが正規のものであったと思われる。以上のように郡成立の時期は不明だが、遅くとも八世紀初頭までには建郡(建評)されていたとみられる。ただ地名としての坂田の登場は古く、允恭天皇妃の衣通郎姫は「近江坂田」にいたといい(「日本書紀」允恭天皇七年一二月一日条)、「古事記」応神天皇段の坂田酒人君や「日本書紀」継体天皇元年三月一四日条の坂田大跨王などの坂田という地名にちなむ氏族名・人名もみられる。訓は「和名抄」東急本国郡部に「佐加太」とあり、「節用集」は「サカダ」とする。通用は清音である。

〔原始〕

旧郡域で発見されている縄文時代のおもな遺跡に、長浜市の十里町じゆうりちよう遺跡、山東町のばん遺跡、近江町の法勝寺ほつしようじ遺跡・狐塚きつねづか遺跡、米原町の磯山城いそやまじよう遺跡・入江内湖いりえないこ遺跡などがある。これらのほとんどは弥生時代・古墳時代、さらには奈良・平安時代にかけての複合遺跡で、なかには鎌倉時代に及ぶものもあり、長い時代にわたってほぼ同一の地域が生活の場として選ばれてきたことを示している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報