那賀郡(読み)なかぐん

日本歴史地名大系 「那賀郡」の解説

那賀郡
なかぐん

面積:七二二・〇三平方キロ(境界未定)
那賀川なかがわ町・うら町・鷲敷わじき町・相生あいおい町・木沢きさわ村・上那賀かみなか町・木頭きとう

県の南西部の山間部に位置する三町二村は、西を高知県、南を海部かいふ郡、北を勝浦かつうら郡・名西みようざい郡・美馬みま郡・三好みよし郡、東を阿南市とそれぞれ山稜を挟んで接している。東中央部の海岸部に属する二町は北部を小松島市と地続きで、南部は那賀川を挟んで阿南市と接している。当郡は那賀川流域にあり、同川は高知県境の石立いしだて山付近を源流として東流し、相生町でやや北東に方向を変え、羽ノ浦町と阿南市とが境を接する持井もちい橋から再び東流して紀伊水道へ注ぐ。近世の郡域は小松島市の一部、阿南市・那賀川町・羽ノ浦町・鷲敷町・相生町・木沢村・上那賀町の一部であった。木頭村全域と上那賀町の一部は昭和二六年(一九五一)まで海部郡に属していた。同三三年に平野部が阿南市として分離独立したため、郡域は那賀川の下流北岸部と上流域・中流域の両岸とに分離した。分離以前は県の高知県境から紀伊水道に向かって右肩上がりの幅広い帯状をなしていた。南西部の山間部は林業で栄えた地域で、至る所に見事な人工林が分布する。高山や渓谷には広葉樹や原生林もかなり残されており、秋は美しく紅葉し、とくに高の瀬こうのせ峡やつるぎ山スーパー林道の紅葉は見事である。北東部の海岸部は、紀伊水道に面した美しい海岸線を有している。

〔原始〕

郡内での古代遺跡の発見は上那賀町・木頭村・羽ノ浦町などに限定されていたが、平成二年度以降の那賀川流域の分布調査により、木頭村一ヵ所、上那賀町三ヵ所、相生町一六ヵ所、鷲敷町三ヵ所から縄文時代の土器や石器などが多数発見されている。上那賀町の古屋ふるや岩陰遺跡は昭和四一年に発掘調査され、縄文時代早期の山形押型文土器・無文土器・条痕文土器、チャート製石鏃などが発見されている。

木頭村の北川きたがわ神社境内から縄文時代の石棒(直径約一〇センチ・長さ七七センチ)が出土している。分布調査では木頭村南宇みなみうからサヌカイト石鏃、上那賀町府殿ふどのから条痕文土器、相生町蔭谷北かげだにきたからサヌカイト・チャート石鏃・石錐、黒曜石スクレーパー、同町谷内たにうちから条痕文土器・無文土器、サヌカイト・チャート・黒曜石石鏃・石錐、同町鮎川あいかわから縄文土器、サヌカイト・チャート・珪質頁岩石鏃・石錐・石錘・磨石、鮎川の西宮にしのみやからは縄文後期のものと推定される臼玉、鷲敷町阿井あいからサヌカイト・チャート石鏃などが発見されている。羽ノ浦町の扇状地上の平野部に立地する能路寺山のろじやま一号墳は直径約一〇メートル・高さ約三メートルの円墳で、砂岩を乱雑に積上げた右片袖式の横穴式石室があり、六世紀末頃の築造と想定される。

那賀郡
なかぐん

面積:五二六・四五平方キロ
あさひ町・金城かなぎ町・弥栄やさか村・三隅みすみ

県の西部、旧石見国のほぼ中央に位置する。北は江津市・浜田市に接するほか日本海に面し、西は益田市および美濃みの郡、東は邑智おおち郡、南は広島県山県やまがた郡に接する。江川の支流八戸やと川をはじめ周布すふ川・三隅川などの中小河川が広島県境の山地を水源として郡内を蛇行し、狭小な低地をつくる。広島県境には三ッ石みついし山・天狗石てんぐいし山・かんむり山・大佐おおさ山など中国山地に属する標高一〇〇〇メートル級の山が連なり、それらから派生する三〇〇メートル前後の小準平原状の平地が形成されている。江津市を起点とする国道一八六号は、浜田市から金城町波佐はざを経て広島県芸北げいほく町に通じ、主要地方道浜田―八重可部やえかべ線は浜田市の市街から同市後野うしろの佐野さのを経て旭町を通り、邑智郡瑞穂みずほ町に至る。平成三年(一九九一)一二月には浜田―八重可部線とほぼ並行する中国横断自動車道広島―浜田線が開通した。なお近世の那賀郡は現郡域に加え、現在の浜田市全域および江津市の大部分を含み、東は邇摩にま郡および邑智郡、南は美濃郡および安芸国に接し、北は日本海に面した。また中世には東・西両側で郡域の変動があった。郡名は天平七年(七三五)六月付の平城京二条大路跡出土木簡にみえるのが早く、中世にはまれに那珂・名加とも記された。郡名の由来は石見国の真ん中に位置することによるといい(石見外記)、阿波忌部族の石見移住の伝承などから阿波国那賀郡との関係をあげる説もある(島根県史)

〔古代〕

平城京二条大路跡出土木簡に「石見国那賀郡右大殿御物海藻一籠納六連天平七年六月」とみえる。貞観九年(八六七)一〇月三日、那賀郡の権大領(外従八位上)村部岑雄と主帳(外少初位上)村部福雄が本姓の久米連に復している(三代実録)。元慶八年(八八四)那賀郡大領外正六位下久米岑雄・邇摩郡大領外正八位上伊福部直安道らが、百姓二一七人を率いて石見国守の従五位下上毛野朝臣氏永を襲撃し、その政治が法に背くとして印匙・鈴などを奪取し、杖をもって打擲するという事件が起こった。中央政府では式部大丞正六位上坂上大宿禰茂樹と勘解由主典従七位下凡直康躬を推問係として石見国に派遣し、その調査結果に基づいて仁和二年(八八六)に関係者が処罰された(同書元慶八年六月二三日条・仁和二年五月一二日条)。「和名抄」は都農つの都於つのへ・石見・周布・三隅・杵束きつか伊甘いかみ久佐くざ(高山寺本なし)の八郷を載せる。「延喜式」神名帳は小一一座として多鳩神社(現江津市二宮町神主の多鳩神社に比定)、津門神社(現同市波子町の津門神社に比定)、伊甘神社(現浜田市下府町の伊甘神社に比定)、大麻山神社(現三隅町室谷の大麻山神社に比定)、石見天豊足柄姫命神社(現浜田市殿町の天豊足柄姫命神社に比定)、大祭天石門彦神社(現同市相生町の大祭天石門彦神社に比定)、大飯彦命神社(現江津市松川町太田の大飯彦命神社に比定)、櫛色天蘿箇彦命神社(現浜田市久代町の櫛色天蘿箇彦命神社に比定)、大歳神社(現江津市都野津町の大年神社に比定)山辺神社(現同市江津町の山辺神社に比定)、夜須神社(現同市二宮町神村の夜須神社に比定)を記載。

那賀郡
ながぐん

面積:二六七・〇七平方キロ
那賀なが町・粉河こかわ町・打田うちた町・岩出いわで町・桃山ももやま町・貴志川きしがわ

和歌山県最北部、紀ノ川の流域に位置し、東から西に郡域内のほぼ中央部を流れる紀ノ川両岸の兵陵地帯と、北・南部の山地からなる。北は葛城山(八五八メートル)を主峰とする和泉山脈を境に大阪府と接し、東は伊都いと郡に、南はあめ山・ユルギ山を挟んで海草郡、西は和歌山市に接する。紀ノ川南側には竜門りゆうもん(七五六・六メートル)飯盛いいもり(七四五・七メートル)からす(六六三メートル)など竜門山系の山がある。

郡名は「続日本紀」大宝三年(七〇三)五月九日条に「令紀伊国奈我・名草二郡停布調糸」とみえるのが早く、次いで同書神亀元年(七二四)一〇月七日条に「天皇行至紀伊国那賀郡玉垣勾頓宮」と記す。旧郡域の一部は現海草郡・和歌山市に含まれる。

〔原始〕

遺跡は紀ノ川下流の打田町・岩出町の河岸段丘上や、貴志川流域の平地に多く分布する。とくに貴志川町域は和歌山県下における先土器時代の遺物発見の一中心地で、平池ひらいけ遺跡・尺谷池しやくだにいけ遺跡や和歌山市との間にある山東大池さんどうおおいけ遺跡などが知られる。縄文時代の遺跡は紀ノ川流域で発見されており、打田町の堂坂どうさか遺跡は先土器時代・弥生時代の遺物も含み、粉河町の荒見中筋あらみなかすじ遺跡は縄文時代草創期の遺跡と推定されている。弥生時代の遺跡は打田町の東田中神社ひがしたなかじんじや遺跡、岩出町の吉田よしだ遺跡など紀ノ川北岸にあるが比較的少なく、後世水田面積の拡大によって破壊されたものか、より深い地に埋蔵されているものと思われる。

紀ノ川両岸の豊かな水田地帯や、貴志川西岸の平地一帯は農業生産が早くから進んだと考えられるが、それらの地を支配する首長が生れると、彼らの墳墓が段丘上に築造された。打田町域では竜門山地の丘陵端部にある竹房たけふさ古墳群・百合山ゆりやま古墳群、その対岸の八幡塚はちまんづか古墳・三昧塚さんまいづか古墳群が知られる。貴志川町域には特異な副室をもち、五世紀の築造とされる丸山まるやま古墳があるほか、古墳時代後期のものとしては和歌山市の岩橋千塚いわせせんづかと同一の形式をもつ高尾山たかおやま古墳群・きた古墳群がある。同時代の岩出町の船戸山ふなとやま古墳群を中心とする多くの古墳群もよく知られている。古墳時代終末期のものは貴志川町域に具束壺ぐそくつぼ古墳群・七ッ塚ななつづか古墳群などがある。

〔古代〕

条里制の遺構が六ヵ所検出されている。すなわち紀ノ川北岸の那賀町名手なて、粉河町長田ながた地区、打田町国分こくぶ地区、岩出町もり畑毛はたけ地区、同町吉田地区、南岸の桃山町神田こうだ・同町寺前てらまえ・貴志川町岸小野きしおの地区などである。

那賀郡
なかぐん

古代から近代初頭に存在した伊豆国の郡。伊豆半島西海岸に位置するが、近世に君沢くんたく郡が成立するため、古代・中世と近世との郡域はかなり異なる。

〔古代〕

「和名抄」東急本国郡部に「奈加」の訓がある。郡域は現在の戸田へだ村・土肥とい町・賀茂かも村・西伊豆町・松崎まつざき町、さらに南伊豆町の一部も含む。現南伊豆町伊浜いはま子浦こうら妻良めら入間いるま中木なかぎは従来賀茂郡に属すると考えられてきたが、「和名抄」にみえない那賀郡入間いるま郷が平城京跡出土木簡にみえ、前記の地域は同郷に比定されるようになった。那賀郡の所在する伊豆半島西岸は山地が多く、リアス式の湾がある。海上交通が盛んで、各浦は波待ちの湾として利用されたものと思われる。「和名抄」には井田いた・那賀・石火いしびの三郷がみえるが、平城京跡出土木簡で射鷲いわし・入間・丹科にしな都比とひの四郷が新たに確認された。藤原宮跡出土木簡(「藤原宮木簡」一―一七七)に「伊豆国仲郡」とみえ、伊豆国は大宝元年(七〇一)の郡制施行当初から三郡であったことがわかる。ただし「扶桑略記」天武九年(六八〇)七月条に「別駿河二郡、為伊豆国」とある伊豆国分置記事では、伊豆国は田方たがた・賀茂の二郡(当時は田方評・賀茂評か)と考えられ、那賀郡は天武九年から大宝元年の間に成立したことになる。天平五年(七三三)九月の平城宮跡出土木簡に「那賀郡射鷲郷和太里」とみえる。また平城京二条大路の東西溝跡からは同七年から同一一年頃の荷札木簡が多量に出土しており、那賀郡にかかわる木簡も多くみられ、同七年九月のものには「那賀郡射鷲郷和太里」「中郡都比郷有覚里」などとある。このような平城京跡出土木簡からは当郡の郷里に関する新知見が得られた。

天平勝宝八歳(七五六)一〇月の平城京跡出土木簡(「平城宮木簡」二―二二四七)に「那賀郡射鷲郷」、天平一二年以降の奈良正倉院調庸関係銘文(寧楽遺文)に「那賀郡那珂郷」とみえる。延暦一〇年(七九一)一〇月一六日の長岡京跡出土木簡(「木簡研究」二〇―五九頁)にも「那賀郡井田郷」とみえる。以上のように各時期の木簡などが知られるが、那賀郡という表記は和銅六年(七一三)に畿内七道諸国の郡郷名は好字を着けよという制(「続日本紀」同年五月二日条)が出されたことに対応して付けられた二字の郷名であろう。しかし同年に那賀郡に変更されたにもかかわらず、実際には前述の天平七年の木簡のように中郡とみえる。また平城京跡出土木簡(「平城宮木簡概報」三一―二六頁)には「奈賀郡奈珂郷」とみえ、那賀という表記は在地ではすぐに徹底されなかったようである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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