養父郡(読み)やぶぐん

日本歴史地名大系 「養父郡」の解説

養父郡
やぶぐん

面積:四二二・七八平方キロ
養父やぶ町・大屋おおや町・関宮せきのみや町・八鹿ようか

但馬地方の郡で、県北部の西寄りに位置する。近代以降の分離・編入で郡南部の糸井いとい大蔵おおくら両地区が朝来あさご和田山わだやま町に、北部の赤崎あかさき浅倉あさくら両地区が城崎きのさき日高ひだか町に移り、美方みかた熊次くまつぎ(近世までは七美郡、現関宮町)が当郡の郡域となったが、令制以来の養父郡は但馬国の南部西寄りを占め、北西は七美しつみ郡、北は気多けた郡、東は出石いずし郡、南東は朝来郡、南西は播磨国宍粟郡、西はひようノ山の山頂付近でわずかに因幡国に接していた。郡名の表記は「和名抄」高山寺本・東急本・名博本ともに養父で、養の字はのちに異体字の「」が多用された。訓は東急本国郡部に「夜父」、名博本や「拾芥抄」にヤフとあって、異訓はない。郡域は山地が多く、東部を円山まるやま川が北流する。小佐おさ川・八木やぎ川・明延あけのべ川・建屋たきのや川・大屋川など円山川水系に属する諸河川が谷を刻み、これらの流域に開けた狭小な平地に集落・耕地が発達する。

〔古代〕

郡名の初見は霊亀三年(七一七)以前の成立と考えられる「播磨国風土記」宍禾郡御方みかた里の条の「夜夫郡」で、天平九年(七三七)の但馬国正税帳(正倉院文書)には「養父郡」とある。管郷は「和名抄」高山寺本では糸井・石禾いさわ・養父・賀母かも軽部かるべ・大屋・三方みかた・建屋・養耆やぎ長田ながた遠佐おさ駅里うまやの一二郷、東急本では賀母・長田・駅里の三郷を欠き、浅間あさま郷を加えて一〇郷とし、建屋は遠屋に作る。いずれにしても養老令の基準では中郡である。郡家の所在は現養父町養父市場やぶいちば説・同町大薮おおやぶ説があるが、いずれも論拠に乏しい。元慶七年(八八三)九月一五日の観心寺勘録縁起資財帳(観心寺文書)には当郡内の地として「十七条七皷田里廿五桜谷地」二一六歩、「十六条八里廿三槻本田」二反、「十七条七里廿五中神谷田」六反二六〇歩ほかがみえ、条里制が施行されていたことがうかがえる。条里の遺構は大屋川流域の現養父町十二所じゆうにしよ広谷ひろたに付近で約四〇ヘクタールが確認され、一坪の一辺の平均値は一〇六・九メートルで基準よりやや短い。ほかに現八鹿町の八木川流域に三ヵ所あるが、いずれも面積は狭小である。「延喜式」神名帳には夜夫坐やぶいます神社(現養父町養父神社)以下郡内二四社三〇座が記され、但馬国内では最も多い。うち夜夫坐神社は名神大二座・小三座で、水谷みずたに神社(現養父町)名神大社である。

駅は「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる郡部ぐべ・養耆の両駅が郡内にあったと考えられる。養耆駅を現八鹿町八木または米里めいりに当てることに疑問は少ない。

養父郡
やぶぐん

基肄郡西隣の小郡。肥前国では基肄郡に次いで大宰府に近い。郡域は現鳥栖とす市域の大半を占め、鳥栖市成立前の鳥栖町・ふもと村・あさひ村の地域がこれにあたる。西は旧三根郡、南は筑後国御井みい三潴みづまの二郡、北は筑前国那珂なか郡に接する。北部は背振せふり山地に属する山地、南部は筑後川流域に属する沖積平野、中間部には洪積丘陵が分布する。

肥前風土記」に、

<資料は省略されています>

とある。景行天皇が国内巡視の際百姓たちがこぞって集まったが、天皇の犬がほえたてた。しかし一産婦が犬をみるとやがてほえやんだので、犬の声やむの国といったのがなまって養父の郡になったという伝承である。「日本地理志料」は但馬国に養父郡、三河・近江に養父郷があり、皆「藪沢」の義だと記す。「和名抄」に「養父郡」とあり、訓は刊本に「夜不」とする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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