森町(読み)もりまち

日本歴史地名大系 「森町」の解説

森町
もりまち

面積:一三三・八四平方キロ

周智郡の南部を占める。赤石山脈南端にあって中央を太田おおた川が南西へ流れる。北部は春埜はるの山・大日だいにち山を中心とする山間部で、南部に太田川流域の平野が広がる。南部をほぼ東西に天竜浜名湖鉄道が走る。考古遺跡の多くは南部の太田川沿いに立地し、その数は古墳群を含めて約二〇〇を数える。天宮あめのみや神社境内にある天宮遺跡は縄文時代中期初頭から営まれた遺跡である。飯田いいだから睦実むつみにかけてある縄文後期末の坂田北さかたきた遺跡は、木の実の貯蔵・加工あるいはクリの栽培に関して新資料を提供した。弥生時代の遺跡では、中川なかがわ奥谷田おくやだ天方あまがた中芝原なかしばはら、飯田の東平子ひがしひらこ・西平子の各遺跡などから竪穴住居跡が検出されている。宮代みやしろ善千鳥ぜんちどり遺跡では中期の土器棺墓がみつかっている。古墳時代では円田えんでん文殊堂もんじゆどう古墳群、赤根あかね石仏いしぼとけつぼ古墳、睦実の逆井京塚さかさいきようづか古墳、飯田の観音寺本堂かんのんじほんどう横穴群・院内いんない古墳群などが古くから知られており、とくに後三者には優れた馬具や環頭大刀が副葬されていた。飯田の観音堂かんのんどう横穴群では陰刻壁画がみつかっている。奈良時代では飯田に平戸ひらこ廃寺があり、平安時代では仁安三年(一一六八)銘の外容器を出した小国神社おくにじんじや経塚は重要である。

和名抄」記載の周智すち大田おおた郷を当町中心部の森地区一帯に比定する説がある。北西部一宮いちみや地区の山腹にある小国神社は、「延喜式」神名帳記載の周知すち郡三座のうち「小国ヲクニノ神社」の比定社とされ、同社は鎌倉時代初期以前に遠江国一宮とされた。

森町
もりまち

[現在地名]玖珠町森

末広すえひろ山より森川右岸にわたって営まれた森藩の陣屋町。同川を南下すれば玖珠川に通じ、また府内・日田往還に結ばれ、北上すれば豊前中津などに至る。初代藩主来島(のち久留島と改姓)康親の入封当時は深い林地で、わずかに十数軒の茅屋があったにすぎなかったという(「加藤家系図」加藤家文書)。町の成立・発展など未詳であるが、武家屋敷は陣屋正面寄りの殿との町・とどろき町・鉄砲てつぽう町、西方に伏原ふしわら、東北に旭谷あさひだに上谷かさたに、東に久恵くえ、町東端の郷町ごうまち(現合町)、その南方の片平田かたひらだに置かれ、うち殿町・上谷・旭谷は上級・中級家臣の屋敷地。

寛永期(一六二四―四四)末頃にはかさ町・中町・しも町・しん町・よこ町・町が形成されていたが、のち横町の東より上町などに並行して金山かなやま町ができたとされる。二代藩主久留島通春の代に作成された久留島丹波守屋敷絵図写(得重家蔵)によれば、本町ほんまち通の北より上町・中町・下町と続き、上町の北端より西へ田町が延び、中町と下町の間より東へ横町が続いている。「森藩目安書」によれば下町の続きに新町ができており、富商の真辺又左衛門が住していたという。上町の北には勢溜せいだまるがあり、市場が置かれ、百姓・領民はここで作物を売り、上町・中町・下町などで商品などを購入したという。

森町
もりまち

面積:三一一・四二平方キロ

大正一〇年(一九二一)一月茅部かやべ郡森村が改称して成立。渡島支庁管内の中央部に位置し、北は内浦湾(噴火湾)に面し、東は砂原さわら町、北西は山越やまこし八雲やくも町、山間部は檜山支庁檜山郡厚沢部あつさぶ町、南は亀田かめだ大野おおの町、南から東は七飯ななえ町と接する。内陸部の山地は狗神ぐしん(八九九・四メートル)三九郎さんくろう(八〇二メートル)二股ふたまた(八二五・六メートル)弥五兵衛やごべえ(六四九・九メートル)などがそびえ、東にこまヶ岳の西壁けんヶ峯(一一三一メートル)が境界線上にそびえる。河川は本内ぽんない川・三次郎さんじろう川・にごり川・蛯谷えびや川・かつら川・鳥崎とりざき川・森川・なかノ川・尾白内おしろない川などが北流して内浦湾に注ぎ、内陸部では精進しようじん川が赤井あかい川と合流し、さらに宿野辺しゆくのべ川に合流しておお沼に注いでいる。山間部から内浦湾沿いに国道五号とJR函館本線が並行して通り、市街地から内浦湾沿いに国道二七八号が通っている。

森町
もりちよう

[現在地名]弘前市森町

城の南側に位置し、上白銀かみしろがね町東端から在府ざいふ町に至る道筋と茂森しげもり町との間を東西に結ぶ道筋の町並。北は塩分しわく町、南は覚仙かくせん町、西は茂森町、東はほん町に接する。

正保三年(一六四六)津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)には、道路を挟んで北側が町屋、南側が侍屋敷として町割されている。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)には「しわく町うら町」とあり、津軽信英の蔵のほか、四軒の武家屋敷がある。

森町
もりまち

[現在地名]津和野町森村

外濠の東側沿いの南北道の東側の町。森村の地に形成されたことからの町名。森村庄屋・有力町人・下級武士などが混在する。北はおお橋前の広場脇の惣門から、南は鳴滝なるたき通と接する曲り角(旧町田村との境)に至る長さ三八二間・幅三間の道(三間街道)に沿う。元禄期城下侍屋敷等絵図(津和野町郷土館蔵)では、惣門脇を重臣大岡平助屋敷が占め、その南には藩領の各組庄屋宿・森村庄屋屋敷および同村肝煎屋敷と屋号をもつ有力商人・職人などが居住する。しかし八王子はちおうじ通の南側四軒より南は、長柄組・御手廻組に属する足軽が集住している。中島なかじま堀内から当町に通じる道の向いに位置するのが升形屋の居田長右衛門屋敷である。

森町
もりまち

[現在地名]金沢市扇町おうぎまち

御小人おこびと町の南にある。明治二年(一八六九)町立てされた。南から一―三番丁と並び、東は九枚くまい町、西は材木ざいもく町、南は柿木かきのき町に続く。江戸時代は武家地で一番丁は藩士奥村家下屋敷、二番丁は同成瀬家下屋敷、三番丁は同富田家上屋敷であった。なお三番丁は当初富田とびた町と称したが、明治五年当町に編入された(稿本金沢市史)

森町
もりまち

2005年4月1日:茅部郡砂原町・森町が合併
【砂原町】北海道:渡島支庁
【森町】北海道:渡島支庁

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「森町」の意味・わかりやすい解説

森〔町〕
もり

北海道南西部,内浦湾に臨む町。渡島半島の中央東部を占める。 1921年町制。 2005年砂原町と合体。地名はアイヌ語オニウシ (樹木の茂ったところの意) に由来。江戸時代以前に本土から移住が始まり,ニシン,イワシ,コンブ漁で栄えた。沿岸漁業のほか,ホタテガイの養殖,水産加工業が行なわれる。駒ヶ岳 (1131m) 山麓の平地では,米作とジャガイモ,カボチャなどの栽培が行なわれる。おもな観光地は,青葉ヶ丘公園,濁川温泉。東蝦夷地南部藩陣屋跡 (砂原陣屋) は国の史跡。南東部は大沼国定公園に属する。 JR函館本線,国道5号線,278号線が通る。面積 368.79km2。人口 1万4338(2020)。

森〔町〕
もり

静岡県南西部,太田川上流域にある町。 1889年町制。 1955年天方,一宮,園田,飯田の4村と合体,56年三倉村と原泉村の一部を編入。中心集落の森は古くは信州への塩と干魚類の輸送路であった信州街道の宿場町として発展。古着の町として全国の古着相場を左右したともいわれた。現在では屋根瓦,陶磁器 (森山焼) の窯業が行われ,農村部は全国屈指の銘茶の産地として知られる。次郎柿の発祥地で特産。遠江国一宮小国神社がある。大洞院には「森の石松」の墓があり,毎年3月上旬に供養祭が行われる。重要無形民俗文化財の舞楽を伝え,南東部の吉川沿いにある体験の里「アクティ森」では,工房棟で陶芸,紙すき,草木染などが体験できるほか,スポーツ施設,花畑,レストランなどがある。南部を天竜浜名湖鉄道が通る。面積 133.91km2。人口 1万7457(2020)。

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